ヨハネによる福音書


23
いのちと裁きの主を
ヨハネ 5:31−47
詩篇   2:1−12
T イエスさまをあかしする

 イエスさまのソリロギア前半部分・19-30節でヨハネは、何度も立ち止まっては反芻しながら、父なる神さまから遣わされた者としての、イエスさまご自身の職責を展開しました。それは、「いのちと裁き」という中心主題に絞られています。ヨハネの耳には、福音を聞き入れないばかりか、「イエスさまがキリストである」という証言を、疑う者たちの声が届いていたのでしょう。もちろん、これはベテスダの池の出来事に端を発していますから、論争相手は疑いもなく、エルサレムのユダヤ人たちです。しかし、ヨハネは、今、ギリシャ・ローマ世界で、イエスさまを「あかし」しようとしているのです。そこにも、頑固なユダヤ人たちがいました。さらに、たくさんの「キリスト教異端」が発生していたという事情もあります。そんな異端の教えに対応することも、ヨハネにとって、喫緊の課題でした。イエスさまのソリロギアは、もはやヨハネのメッセージと言ってもいいほどに、練り上げられています。恐らくこれは、ヨハネ自身の手による、彼らへの反証と思われます。

 ともあれ、今朝は、後半部分の31-47節からです。見ていきましょう。
 このところの中心主題は「証言(あかし)」です。いや、このところのというより、この福音書の最後の部分にも、「これらのことについてあかしした者、またこれらのことを書いた者は、この弟子である。そして、私たちは、彼のあかしが真実であることを、知っている」(21:24)とありますから、この福音書は、その「証言」のために執筆されたと言ってもいいでしょう。

 「もしわたしだけが自分のことを証言するのなら、わたしの証言は真実ではありません」(31)と、後半部分が始まります。「だけ」とあるのは新改訳の補足ですから、「わたしが自分自身について証しをするなら」(新共同訳)としたほうがいいでしょう。「証言」ということばは、動詞や名詞を含め、ヨハネ文書に圧倒的に多いのです。共観福音書にはほんの数例で、ほとんど出てきません。そのほとんどをヨハネは、裁判用語として用いていますが、ある意味、イエスさまは、ユダヤ人の法廷に立たされているのです。総じて古代社会は、法廷での自己証言を偽りとして、一切認めていませんでした。自己証言は効力を持たず、証明力もないとしたのです。ユダヤ人も、同じ理由を上げて、イエスさまに反発しています。少し後に、あるパリサイ人がイエスさまにこう言いました。「あなたは自分のことを自分で証言しています。だから、あなたの証言は真実ではありません」(8:13)ヨハネには、そのようなことが念頭にあったのでしょう。ですからヨハネは、先のイエスさまのことばで、メッセージ後半を切り出しました。


U 聖書はイエスさまを

 ヨハネは、ユダヤ人が良く知っている最高の証人を立てました。「あなたがたはヨハネのところに人をやりましたが、彼は真理について証言しました」(33)「彼は真理について証言した」とありますが、真理が何を指しているのか一律ではなく、これだと簡単に言うことは出来ません。しかし、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」(14:6)と、しばしばヨハネは、それをイエスさまご自身を指すものとしています。この「真理について証言した」も、そうなのでしょう。それは、バプテスマのヨハネの証言でした。きっとヨハネは、読者たちにも、バプテスマのヨハネの証言(1:19-)を想起させようとしているのでしょう。彼はイエスさまを、「見よ。世の罪を取り除く神の小羊」(1:29)「神の子」(1:34)、と証言しました。しかし、ほんの数名の弟子たちを除いて、ヨハネのこの証言を聞き入れた者はいませんでした。イエスさまも言われました。「わたしは人間による証しは受けない。しかし、あなたがたが救われるために、これらのことを言っておく」(34新共同訳)バプテスマのヨハネといえども、イエスさまの証人として、十分ではなかったのです。

 そこでヨハネは、バプテスマのヨハネの証言をはるかに上回る証言を、イエスさまのソリロギアの中に、巧みに織り込みました。「わたしについて証言する方がほかにもあるのです。その方がわたしについて証言される証言が真実であることは、わたしが知っています」(32)とあります。「わたしが知っている」とは、聞き方によっては、ずいぶんと傲慢な物言いですが、しかしそれは、「人間による証しは受けない」ということと一致して、イエスさまを証言できるのは、第一にイエスさまご自身であると、これがヨハネの一貫した主張です。それは、「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです」(39)という中にも現われています。この「聖書」はおおかた旧約聖書を指していると思われていますが、恐らく、ヨハネがこの福音書を執筆している一世紀末に、すでに出回っていたマタイやルカの文書、パウロの書簡など、新約聖書にある多くの文書が諸教会で読まれていたことを考えますと、それらの文書をも含め、「聖書」と言っているのでしょう。もちろん、旧約聖書は、調べ上げることで永遠のいのちに辿り着くようなものではなく、そこには神さまの救済計画、つまりイエスさまのことが証言されているのです。そして、特に新約聖書は、イエスさまの教えに基づいて書かれたものですから、イエスさまご自身の証言と聞かなければなりません。いづれにしても、聖書は、イエスさまを指し示しているのです。


V いのちと裁きの主を

 そしてヨハネは、もう一つの決定的な証言を掲げています。「しかし、わたしにはヨハネの証言よりもすぐれた証言があります。父がわたしに成し遂げさせようとしてお与えになったわざ、すなわちわたしが行なっているわざそのものが、わたしについて、父がわたしを遣わしたことを証言しているのです。また、わたしを遣わした父ご自身がわたしについて証言しておられます。あなたがたは、まだ一度もその御声を聞いたこともなく、御姿を見たこともありません。また、そのみことばをあなたがたのうちにとどめてもいません。父が遣わした者をあなたがたが信じないからです」(36-38)

 バプテスマのヨハネは、イエスさまにバプテスマを授けた時、御霊が鳩のように天から下って、イエスさまの上に留まるのを見ました。そして、天からの声を聞いたのです。「聖霊がある方の上に下って、その上にとどまられるのがあなたに見えたなら、その方こそ聖霊によってバプテスマを授ける方である」(1:33)と。マタイとルカは、その時、「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」(ルカ3:22)という声があった、と明らかにしています。父なる神さまがイエスさまを「わが愛し子」と宣言され、そのご人格とみわざとを承認されたのです。イエスさまについて証言出来るもう一人のお方は父なる神さまである、とヨハネは、そのことをイエスさまのソリロギアに織り込みました。それは、「わたしについて証言する方がほかにある」(32)という中にも語られています。遣わされた方について証言出来るのは、遣わされた方と遣わした方、そのお二方に限られるのではないでしょうか。すると、自己証言を偽りとするのは、欺瞞に満ちた世界に生きる人間の言い分であって、真実な方に当てはまらないのは明らかです。

 福音書記者ヨハネは、法規定を承知の上で、イエスさまの証言を正当なものとしました。しかし、聞く者は聞き、聞かない者は頑なに聞かないのです。ヨハネはこれを信仰のこととしました。ここに「わたしが行なっているわざ」とありますが、恐らく、それは、ソリロギア前半で語られた、「いのちと裁き」を言っているのでしょう。その「いのちと裁き」を前にしてもなお信じない者たちは、神さまを見ようともせず、「いのちと裁き」の主を信じようともしません。イエスさまご自身の証言を認めないのは、ひとえに彼らの不信仰によるのです。「いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしない」(40)「あなたがたのうちには愛がない」(42)「あなたがたはわたしを受け入れない」(43)等々は、私たちも聞かなければならないことでしょう。ユダヤ人たちは、モーセなら信じると言いました。しかし、そのモーセが彼らを訴えているのです(45)。ユダヤ人は律法によって裁かれ、流浪の民となりました。同じことが現代の私たちに起きないと、誰が言えるでしょうか。現代人が信じている科学や頼りになるはずのお金でさえ、いろいろな局面で、すでに私たちを訴えているのです。遣わされた方、救い主イエスさまを信じる者となって、永遠のいのちに招かれたいではありませんか。



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