ヨハネによる福音書


22
いのちか、さばきか?
ヨハネ  5:19−30
申命記 30:15−20
T 遣わされた方を見つめて

 水が動くとき、最初に池に入ると病気が癒やされると言い伝えられるベテスダの池で、38年間もその順番を逃しながら待ち続けた、不平不満いっぱいの男をイエスさまが癒やされたことから、イエスさまとユダヤ人との間に、論争が沸き起こりました。論争の中心は、最初は安息日問題でしたが、イエスさまが神さまを父と呼ばれたことから、さらに猛烈な反発を受けることになります。今朝のテキストは、ユダヤ人の激しい反発にイエスさまが答えられるところですが、前半部分、19-30節からです。

 ヨハネは、教会文書の定式であると以前に触れましたが、「アーメン、アーメン、あなたがたに言う」と確認と強調の様式を繰り返しながら、この福音書を執筆しています。これは、イエスさまをどう受け止めどう信じるかという、ヨハネの神学です。何度も仕切り直しをしなければならないほど難しい問題ですが、ヨハネは、何度も立ち止まり、沈思黙考しながら筆を進めているのでしょう。

 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです。それは、父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになるからです」(19-20a)と、ここには、父と子の一体感とともに、あくまでも父と子は別人格であると、その両方が、絶妙なバランスで語られているようです。その通り、父なるお方とイエスさまは別の人格でありながら、しかし、唯一の神さまでした。恐らく、ヨハネは、ロゴス賛歌にも出て来た彼の神学のモチーフ「遣わされた者」を、イエスさまの意識の中に見ているのでしょう。これが、ご自分を神さまに等しい者とされたイエスさまを咎めた、ユダヤ人への回答でした。彼らが拘ったのは、神さまが唯一のお方であるということです。当時、世界の諸宗教の中で、唯一神を誇るのはユダヤ教だけでしたから、ローマ、ギリシャ世界に生きるディアスポラのユダヤ人たちは、そのことをよくよく承知していて、石や木で彫られた偶像ではない唯一の神さまを誇りにしていました。しかし彼らは、神さまを誇っているつもりが、その実、神さまの権威を笠に着て、自分たちを誇っていたのです。そのお方の前で培わなければならない生き方を、彼らは、取り違えてしまいました。それは、先の安息日問題の論争に如実に表われています。彼らは、安息日に床を移動させることは律法違反であると断じましたが、イエスさまは、細かな律法を策定して人を縛る彼らの生き方に、異を唱えられました。


U わが主、わが神よと

 彼らは、本当は、イエスさまが安息日に病人を癒やしたことを咎めたかったのでしょう。共観福音書では、そうなっています。ところがイエスさまは、「これよりもさらに大きなわざを(父が)お示しになる」(20b)と言われます。その「大きなわざ」とは、細かな律法違反を咎める彼らの生き様からは想像もつかない、神さまの壮大なご計画でした。「それは、あなたがたが驚き怪しむためだ」(20c)ともあります。イエスさまは、そのご計画のために遣わされて来たのです。「父が死人を生かし、いのちをお与えになるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子にゆだねられました」(21-22)とあります。神さまの壮大なご計画とは、地の上をごそごそと這いずりまわっている者たちに、「いのち」か「さばき」かを定めることでした。それが、遣わされた者・イエスさまの務めであり、ヨハネがこのところの中心主題であるとして、何度も何度も「アーメン、アーメン……」と仕切り直しをしながら、見続けたことでした。

 ユダヤ人たちが「神さまは唯一のお方である」とアブラハム以来ずっとたたき込まれて来たユダヤ教神学を、キリスト者たちが反故にしているわけではありません。しかし、同一にして別人格である父と子という神さまの秘儀を、どうして地の上を這いずりまわっている者たちが想像することが出来るでしょう。ただイエスさまを見つめることなしに、神さまを思うことは出来ないのです。「すべての者が、父を敬うように子を敬うためです。子を敬わない者は、子を遣わした父をも敬いません」(23)と言われたのは、そのことを指しています。神さまの前に膝をかがめて拝するように、私たちは、イエスさまの前で、「わが主、わが神」と告白し、その救いの恩恵に両手を差し出すことしか出来ないのです。しばしば、唯一神に立つユダヤ教とイスラム教とキリスト教のうち、純粋な一神教はユダヤ教とイスラム教だけであり、キリスト教はプラスαのようにイエス・キリストを崇拝対象に加えていると言われ、キリスト者たちも、イエスさまの立ち位置に、はっきりしないところがありました。ここで、イエスさまは断じて神さまの刺身のつまではない、と明確にして頂きたいのです。繰り返しますが、それは、父と御子は同一にして別人格という、神さまの秘儀なのです。神さまご自身であるイエスさまの前で、「わが主、わが神」と膝をかがめ、その恩恵に感謝する。そのとき、一神教徒であることを誇るのではない、イエスさまに見出された光栄を、心から喜ぶ者となることが出来るのではないでしょうか。


V いのちか、さばきか?

 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです」(24)
 イエスさまのソリロギアとも言っていい、ヨハネが渾身の力を込めて再現しているメッセージですが、「いのちとさばき」という本題に入って来ました。「アーメン、アーメン……」と一息入れて、ヨハネは続けます。「死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです」(25-26) 第一番目は、いのちのことです。「聞く者は生きる」とイエスさまは言われました。死人が聞くとありますが、これは死んだに等しい者、罪のために神さまから遠く離れた者という意味です。ある註解者が、「子の言葉に出会う者は、神自身に出会うのである」と言っていますが、少し訂正しましょう。「言葉」は不要なのです。なぜなら、イエスさまはロゴス・ことばそのものという、ヨハネのテーゼが前提になっているからです。ですからヨハネは、今まで「子」とだけ言って来たのに、ここでは、わざわざ「神の子の声を……」としたのです。ある写本は「人の子」と言い換えていますが、間違いなく、ヨハネは、慎重に、ロゴス賛歌(一章)における信仰告白をここにも投入している、と聞かなければなりません。そこには、「この方にいのちがあった」(1:4)とありました。「聞く者は生きる」と言われたロゴスなるお方は、ご自分と出会った者たちに、ご自身の内にあるいのちを注がれたのです。ヨハネの胸中には十字架の出来事があったと、もうお分かり頂けるでしょう。

 もう一つのことが残っています。「また、父はさばきを行なう権を子に与えられました。子は人の子だからです。このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。善を行なった者は、よみがえっていのちを受け、悪を行なった者は、よみがえってさばきを受けるのです」(27-29) イエスさまが父から委託された「さばき」のことです。「善を行なう」「悪を行なう」とヨハネは、「いのちとさばき」を選別する判断に、世の常識的、現世的価値観を取り入れているようですが、きっとヨハネは、ギリシャ世界にいて、そんな価値観を持つ者たちを念頭に置いているのでしょう。しかし、そんな価値観を持つ者たちに、善悪の判断を覆す出来事が進行していました。キリスト教徒たちへの「迫害と殉教」です。殉教して行く者たちを指さしながら、「彼らは良い者たちではないか」という、迫害最中の、迫害者たち自身の密かなつぶやき(評判)があったと、エウセビオスの教会史は明らかにしています。そんな密かな評判を受け、ヨハネは、このような言い方をしたと思われます。良い者とは、イエスさまを信じた者たちに他なりません。さばきが「墓の中から……」と言われているのは、イエスさまが終末の主であることによります。私たちのこの時代、そろそろ、その終末に差し掛かっているのではと思われる現代に、神さまご自身である主から「いのちとさばきと、どちらを望むか」と問われていると、これはヨハネからの問いかけなのでしょう。さばきに定められる者が多い中で、「いのちを!」と答えたいではありませんか。



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