ヨハネによる福音書


17
我が恵み、汝に足れり
ヨハネ 4:27−38
申命記 6:10−13
T 彼女の回復を願って

 サマリヤの女性がイエスさまの言われたことに夢中になっているとき、町まで食べ物を買いに行っていた弟子たちが帰って来ました。それを機に彼女は町に戻り、イエスさまのことを町の人たちに伝えます。28-30節は39-42節に繋げたほうがいいでしょうから、今朝のテキストは、イエスさまと弟子たちの会話、その大部分は、イエスさまのメッセージです。そこにヨハネもいて、一切を聞いていたことは言うまでもありません。見ていきましょう。

 「ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、『何か御用ですか』とか、『何をこの人と話しておられるのですか』と言う者はいなかった」(27・新共同訳)とあります。「不思議に思った」(新改訳)のではない。ラビと目されるお方が、こともあろうに、サマリヤの女と話しておられる。びっくり仰天、というところだったのでしょう。「父祖の箴言」というミシュナ文書には、「女と多く語る者は身に禍いをもたらし、律法の研究を怠り、ついにはゲヘナを継ぐであろう」とあるそうです。この頃の弟子たちは、まだそんな偏見を持っていました。そんな弟子たちの驚きと偏見を見たからでしょうか、イエスさまは、弟子たちが「召し上がってください」と差し出した食事を題材に、「わたしには、あなたがたの知らない食物があります」(32)と、今回のメッセージを語り始めました。そこには、「だれか食べる物を持って来たのだろうか」(33)という弟子たちの、誤解や訳の分からなさが強調されているようです。ヨハネは、そのときのことを思い出しているのです。「あのときは、まだ、イエスさまのことが何も分かっていなかったなあ!」と、そんなヨハネの思いが伝わって来るではありませんか。

 イエスさまはまず、弟子たちの誤解を解くことから始めました。ヨハネの筆の進め方は、ニコデモの場合と同様です。ここに弟子たちを加えたのは、弟子たちは、イエスさまを信じ従ってはいましたが、ニコデモたちとそれほど変わっていなかった、と言っているのでしょう。「わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です」(34)とこれは、サマリヤの女と、弟子たちが驚いたほど、熱心に話しておられたことを指しているのでしょう。そして、それは、彼女の魂が神さまに向かって回復することを願ってのことである、と言っているのです。伝道と言っていいでしょうか。イエスさまのお働きのすべては、父なる神さまの御心によるのであり、十字架という神さまのご計画を、完全に遂行することでした。それがイエスさまの食物・いのちの燃焼だったのです。


U 働き人の成長とともに

 「あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある』と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに入れられる実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです」(35-36) 『刈り入れまでに、まだ四か月ある』は、麦にまつわることわざでしょう。六つに区切られるユダヤの季節から言うと、種蒔きと刈り入れの間には、カレンダー上二つのシーズンが挟まれています。つまり、四ヶ月が必要でした。これは、福音宣教のことを言っているのです。弟子たち(12使徒、または70人)を働きに派遣するのは、共観福音書によれば、ガリラヤ伝道が終盤に差し掛かった頃ですから、この記事は、その頃のことかも知れません。すると、すでに弟子たちは、働き人として逞しく成長しているはずでした。それなのに、誤解したり無知であったりと、イエスさまの要求に叶っていません。ヨハネが恥じながらこれを書いているのも、頷けるではありませんか。福音宣教は、人間の小賢しい知恵などで出来るものではありません。種を蒔く人と刈り入れる人が同じとは限りませんし、畑も千差万別でしょう。ヨハネが今いるエペソでは、迫害の嵐が押し寄せようとしています。事実、ヨハネは、ドミティアヌス帝のもとで、パトモス島に島流しになっています。皇帝の死去に伴い、赦免されてエペソに戻って来ていますが、迫害が収まったわけではありません。そんな中での福音宣教は、まさに、神さまの助けなしには出来ないことでした。

 イエスさまが教えられた原則は、弟子たちに向けられたものだったに違いありません。「目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています」とは、神さまの手が、宣教不可能とも思われる世界にも及んでいることを、窺わせてくれます。「すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに入れられる実を集めています」とこれが原則ですが、福音の「ことば」が来られたとき、すでに、それを受け入れるか否かが決まることを言っている。これは、終末的もの言いなのです。イエスさまは、そのために来られました。「すでに」ということばが組み入れられたのは、そのことを指しています。ですから、イエスさまの福音を聞いた人は、聞いたその時点で、信じるか否かが問われているのです。そして、そこに喜びがあるか?と、福音を伝える者たち、現代の私たちも問われていると覚えたいのです。


V 我が恵み、汝に足れり

 「それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためである」とあります。「喜び」ということにもう少し踏み込んでおきたいと思います。ミカ書にこうあります。「お前は種を蒔いても、刈り入れることなく、オリーブの実を踏んでも、油を身に塗ることはない。新しいぶどうを搾っても、その酒を飲むことはない」(6:15)これは、神さまの恩恵を忘れたイスラエルが聞かなければならないことでした。しかし、そこに神さまの恩恵を見た者にとっては、「その日には、耕す者が刈る者に近寄り、ぶどうを踏む者が種蒔く者に近寄る。山々は甘いぶどう酒をしたたらせ、すべての丘もこれを流す」(アモス9:13)とあるように、すべての労苦が喜びに変わるのです。詩篇にもこうあります。「涙とともに種蒔く者は、喜び叫びながら刈り取る。種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜びながら帰って来る」(126:5) なぜでしょうか。嘆きや涙は、種蒔く者・イエスさまが負ってくださり、刈る者たちは、「すでに」約束された神さまの御国へ招かれた者たちとともに喜び合う、祝福への道を歩んで行くからです。嘆きや涙、それはイエスさまが負ってくださった十字架であると、お分かり頂けるでしょう。イエスさまの十字架は、私たちの救いであり、何よりの喜びです。それがイエスさまの弟子である者への神さまの約束であり、祝福でした。約束とは、天上の神さまが地上の私たちにロゴスをお遣わしになったことであり、それは、神さまのとき(=永遠から永遠)まで、破棄されることはありません。

 これを、90何歳かで書いているヨハネが、自分の歩みに重ねていると覚えたいのです。彼は、繰り返しました。「こういうわけで、『ひとりが種を蒔き、ほかの者が刈り取る』ということわざは、ほんとうなのです。わたしは、あなたがたに自分で労苦しなかったものを刈り取らせるために、あなたがたを遣わしました。ほかの人々が労苦して、あなたがたは労苦の実を得ているのです」(37-38) 神さまがイエスさまを遣されたように、自分もまたイエスさまに遣わされたのだと、ヨハネはその働きの中で、つくづくと主の助けを感じているのでしょう。90何歳かまで、苦労がなかったわけではない。ユダヤ人世界から異邦人世界に活動場所を移したことも、迫害に遭ったことも、並大抵の苦労ではなかったと思われるのに、彼は、他の人たちの労苦を数え、自分はその実を刈り取っただけ、と言っているのです。イエスさまのことばのようですが、この部分は、ヨハネ自身の感謝ではなかったかと聞こえてきます。もう一箇所、旧約聖書から引用しましょう。申命記からです。「(主は)あなたが建てなかった、大きくて、すばらしい町々、あなたが満たさなかった、すべての良い物が満ちた家々、あなたが掘らなかった掘り井戸、あなたが植えなかったぶどう畑とオリーブ畑、これらをあなたに与え、あなたが食べて、満ち足りる(であろう)」(6:10-11) 若い頃のヨハネは、イエスさまに愛されたいという思いからか、人のことばかり見ているところがありました。しかし、ヨハネに対する主の恵みは、十分だったのです(Uコリント12:9)。若い頃、恩師から聞いたことですが、老年になったヨハネは、「互いに愛し合いなさい」と、そればかり繰り返していたそうです。もうすぐ100歳になろうとするヨハネ、その時の彼の願いは、イエスさまのみもとに憩うことだけだったのではないでしょうか。私たちもと願わされます。



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