ヨハネによる福音書


16
信仰と賛美とを
ヨハネ  4:16−26
申命記 18:14−22
T 村八分にされて

 先週、一人のサマリヤ人女性が、ヤコブの井戸でイエスさまと問答し、「わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出る」(14)と言われたことから、「その水を私にください」(15)と願ったところまで見ました。彼女の中に、まだぼんやりとではありますが、神さまへの淡い信仰が芽生えて来ました。彼女が拘ったヤコブの井戸は、旧約聖書中どこにも出て来ないのですが、四世紀頃のキリスト教巡礼者の記録に、そのことが出ているそうです。現在、ギリシャ正教・聖ヨセフ教会内にある井戸が、その井戸であると言われています。真偽のほどは定かではなく、さほど重んじられていたとも思われませんが、サマリヤ人の中に聖なる井戸と伝えられていたところは、確かにあったのでしょう。少なくともこのサマリヤの女は、イエスさまと話しているうちに、自分もその伝承の中に生きる聖なる民であると、誇りたい思いに駆られたようです。淡い信仰とは、その意味においてです。問題は、彼女が誇りたいと願っているのに、仲間である筈のスカルの町の人たちが、彼女を受け入れてくれないという事実です。受け入れてほしい。自分も聖なる民の一員にしてほしい。これが彼女の一番の願いでした。

 イエスさまは、なぜ受け入れてもらえないのか、彼女の問題の根っこの部分にメスをいれました。今朝のテキストは、そこから始まります。イエスさまが言われました。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」「私には夫はありません」「私は夫はないというのは、もっともです。あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことは本当です」(16-18)この箇所を、イエスさまの超能力と解する人たちがいますが、ここには省略された部分があると思われ、彼女と話しているうちに、イエスさまがそれを鋭く洞察されたと考えたほうがいいでしょう。現代流に言えば、コールド・リーディングでしょうか。彼女は、結婚しないまま、幾人もの男たちと同棲を繰り返しました。娼婦とは言えないまでも、当時の、宗教が社会を規制する風習の中では、決して受け入れられない彼女の身持ちの悪さが浮かび上がって来ます。それを解消せずには、彼女の解決はありません。しかし彼女は、指摘された自分の事から目をそらし、問題をすり替えています。彼女に芽生えた淡い信仰は、どこに行ってしまったのでしょうか。それを彼女の信仰と思ったことが、間違いだったのでしょうか。


U 彼女の信仰は

 指摘された自分の事には触れないで、彼女は全く違うことを言いました。「主よ。あなたは預言者だと思います。私たちの先祖は、この山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます」(19-20) イエスさまの指摘には答えませんでしたが、ある意味、否定しなかったこと自体が、彼女の答えだったのかも知れません。サマリヤ教団は、モーセ五書だけを正典と信じている教団です。イザヤやエレミヤなどの預言書を、受け入れていないのです。つまり、ユダヤ人が信じている預言者たちを、認めていないのです。それなのに、彼女はイエスさまを、「預言者」ではないかと言いました。サマリヤ人たちが正典とするモーセ五書の最後・申命記に、こうあります。

 「わたし(神さま)は彼ら(イスラエル)の同胞のうちから、彼らのためにあなた(モーセ)のようなひとりの預言者を起こそう。わたしは彼の口にわたしのことばを授けよう。彼はわたしが命じることをみな、彼らに告げる」(18:18) 彼女がイエスさまを「預言者」と呼んだのは、そんなサマリヤ人としての信仰の中で言ったのです。彼女に芽生えたかすかな信仰が、問題をすり替えることによって、消えてしまったのではない。ほんのわずかですが、膨らんでいるようです。どのような「預言者」なのか、彼女のことばから推測する以外にありませんが、彼女はこう言います。「私は、キリストと呼ばれるメシアの来られることを知っています。その方が来られるときは、いっさいのことを知らせてくださるでしょう」(25)この「いっさいのことを知らせてくださる」は、申命記18:18の最後のことばと同じであると言い添えるまでもないでしょう。彼女は「キリストと呼ばれるメシヤ」と言いましたが、サマリヤ人が期待しつつ待ち続けていた預言者は、あくまでも、モーセのような預言者なのです。その預言者が、ゲジリム山で礼拝するのが正しいのか、エルサレムで礼拝するのが正しいのかを判定してくれる、と期待しているのです。しかし、今、イエスさまとサマリヤの女とが話しているヤコブの井戸のすぐ近くに、彼女が復帰したいと願ってやまない、サマリヤ人の聖所・ゲジリム山(神殿は百年以上前に破壊)が見えています。これ以上はないという絶好の場所で、今話しているこのお方が、来たるべき預言者かも知れないと、そんな場面です。彼女はもう、自分が抱えている問題など、すっかり忘れています。自分がサマリヤ社会から阻害されていることなどそっちのけで、ただ、サマリヤ人としての立ち位置に、自分を置いていました。


V 信仰と賛美とを

 そんな彼女の質問に、イエスさまは正面から向き合われます。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています」(21-22) このイエスさまの答えには、いくつかの重要なことが語られています。第一に、真の礼拝は、「父」を礼拝するものであるということです。彼女は、それを聞き漏らしていたようですが、神さまを父と呼ばれたお方が、今、彼女の目の前にいるではないか、そして、こんなにねんごろに語っているではないか……。「わたしの言うことを信じなさい」とは、その意味においてであると聞かなければなりません。第二に、ユダヤ人のエルサレム神殿も、サマリヤ人のゲジリム山神殿も、純粋に神さまを礼拝するというより、どちらも、民族的、政治的意味合いから生まれたという経緯を持っていることで、それが争いの原因になっていたのです。そして、歴史上では、キリスト教絡みの戦争もたくさんありました。その多くが元祖争いであったことは、悲しいことです。宗教が争いの根本原因なのです。第三に、「わたしたちは知って礼拝しているが、あなたがたは知らないで礼拝している」ですが、「わたしたち」とあるのはユダヤ人のことで、その意味は、モーセ五書しか持たないサマリヤ人ではなく、旧約聖書39巻を読んでいるユダヤ人のほうが……、と言っているのでしょう。しかし、彼らはエルサレム神殿に拘っているのですから、その言い分も、サマリヤ人に比べると、という程度でしかありません。それなら、旧約聖書だけでなく、イエスさまを証言してやまない新約聖書27巻も持っている私たちは、なおさら、拝すべきお方のことをもっともっと覚え、そのお方の前にひれ伏したいではありませんか。

 後半からです。「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません」(23-24) エルサレムもゲジリム山も、神殿の本領は、祭儀礼拝でした。ゲジリム山神殿のことは分かりませんが、エルサレム神殿では、祭壇の角に、バアルやイシュタル神など、神々の名が刻まれていたと、エレミヤ書で見た通りです。祭儀の中心は、宗教様式なのです。伝統的な宗教ほど、中身よりも(?)荘厳な祭儀儀式を重んじています。そして、その祭儀宗教は、当時のギリシャ世界ばかりか、古代バビロンの都市神マルドゥク以来現代まで、人間社会を支配し続けて来たのです。しかし、私たちが礼拝するのは、エルサレムやゲジリム山の神殿ではなく、そこに祀られている祭壇でもなく、また、キリスト教という宗教でもないのです。ある意味、礼拝場所としての教会でもありません。私たちの崇めるべきお方は、私たちを創造し、御子を遣わし、十字架に掛けてまで恵みを与えてくださるお方、神さまなのです。何よりも私たちは、そのお方の御前に、私たちのいのち(=息=霊)と感謝とをもって、ひれ伏さなければなりません。そして、「わたしがそれです」(26)と言われた私たちの救い主・イエスさまに、これはヨハネの信仰告白であると聞かなければなりませんが、心からの信仰と賛美とを献げたいではありませんか。



Home