ヨハネによる福音書


14
愛のゆえに
ヨハネ 3:31−36
エレミヤ 31:3−6
T 地に来られたお方

 22-30節は、バプテスマ・ヨハネの弟子たちの証言をもとにした、挿入句であると指摘しました。その挿入句を挟んで、31-36節は、16-21節で語られたイエスさまのソリロギアの続きが、福音書記者ヨハネの、長い年月をかけて練り上げられた信仰告白・神学として語られます。なぜ22-30節という挿入句を挟んだのか、それもまた燦然と輝く信仰告白だったからです。二人のヨハネの「彼は栄える」というイエスさまの卓越性が、今朝のテキストでさらに語られます。

 「上から来る方は、すべてのものの上におられ、地から出る者は地に属し、地のことば(に属する者として=新共同訳)を話す。天から来る方は、すべての上におられる」(31) ちょっと読んだだけでは何のことか分かりませんが、哲学的と言うか抽象的と言うか、ここばかりではなく、しばらく難解な言い方が続きます。少々こみ入った説明になるかも知れませんが、聞いて下さい。

 「来たる者」とは、ユダヤの伝統的言い方で、メシアを指しています。ヨハネはそのメシアを「天から来た」と言い、その方は神さまに由来し、徹底的に神さまの側に属する者であると宣言しています。これは、イエスさまが神さまご自身であるという証言です。そしてそれは、彼の信仰告白であり、彼の基本神学なのでしょう。1章序文で語られた、「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。……すべてのものは、この方によって造られた」という先在=永遠のロゴスが、ここにも顔を出しています。ですから彼は、ここで、「すべての(万物の)上におられる」と繰り返しました。「地から出る者は地に属し、地のことばを話す」、しかし、その方は、私たちとは全く違う次元におられると聞かなければなりません。同時にヨハネは、地に属する私たちのことも念頭に置いています。

 「天と地と」、これは、「光と闇」と同じく、ヨハネ独特の二元論です。光が闇と交わらないように、天と地は重ならず、闇が光を知らなかったように、地もまた天のことを理解出来ない。「知らない」「分からない」「理解できない」というヨハネのモチーフ、その人間理解が、「地のことばを話す」になったのでしょう。人は「地のことばしか話せない」のです。しかし、そんな地に、先在のロゴスが天から下って来られました。先在のロゴスは、唯一、天と地、光と闇を身をもって知っておられる方でしたから、「聖と俗」の壁を取り払うことが出来たのです。イエスさまが十字架に死なれたとき、神殿内の至聖所を隔てる幕が真っ二つに裂けました。それがここで語られるイエスさまなのです。


U 主のあかしを

 「聖と俗」と言いました。聖は神さまに、俗は人間に属するという意味です。天で見聞きした聖なることをイエスさまは、「この方は見たこと、また聞いたことをあかしされる」(32)とあるように、俗の世界で証言されました。その「見聞きしたこと」とは、何を指しているのでしょう。それは先在のロゴスが見聞きした神さまのことなのでしょうが、しかし、人間が知り得ない神さまのことを、ギリシャ神話のように人間の言葉に置き換えたとしても、そこに意味があるとは思えません。「だれもそのあかしを受け入れなかった」(32)とありますが、そこには「分からない」も含まれるのでしょうか。むしろ、「聞いたのに受け入れない」と聞いた方がいいようです。全く「分からなかった」のではない。それが人間です。イエスさまが神さまの世界で見聞きし、私たちに伝えたこととは、ご自分に関することではなかったかと思われます。それをイエスさまは、ことばで説明されただけではなく、ご自分の全人格をもって伝えられたのです。それを私たちは、自分の目と耳で確かめ、理解し、しかし信じなかったと、ヨハネは告発しているのでしょう。「御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる」(36)とは、その告発ではなかったかと思います。

 今、二つのことに触れました。「ことばで説明され」、「全人格をもって伝えられた」という、イエスさまご自身の「あかし」(32)です。「ことばで説明された」のは、イエスさまの三年間の公生涯であり、「全人格をもって」は、イエスさまの中心的出来事である、十字架とよみがえりに適合すると言えるかも知れません。しかし、イエスさまの公生涯そのものが、その中心的出来事に向かう歩みでしたから、いづれにしても、先在のロゴスが天において見聞きしたことは、神さまの私たちに対する救済計画であったと言えるでしょう。イエスさまはロゴス・ことばそのものでしたから、「あかし」とは、救済計画を遂行されるイエスさまご自身・その全人格を指し示すと聞かなくてはなりません。

 そのあかしを受け入れない者が大部分という中で、受け入れる者もいました。ヨハネは、「そのあかしを受け入れた者は、神は真実であるということに確証の印を押したのである」(33)と言っています。「確証の印」とは法律用語であって、あかしを受け入れた者は、全人格をもって「私はイエスさまのものである」と書類に印を押し、それを神さまに差し出して、認証されるという意味です。ヨハネはこれを、教会という神さまの舞台を念頭に置きながら、神さまの真実という書類に印を押す!と言っているのです。神さまの「真実」は、人の「信仰」ということばに置き換えられるのですから。


V 愛のゆえに

 これまで何度もイエスさまは神さまご自身であると言って来ましたが、それは、イエスさまと神さまが同一であるということではありません。むしろヨハネは、その違いに拘っているようです。なぜなら、イエスさまは、父なる神さまから遣わされた者として、救済計画を実現する者の立ち位置に終始されたからです。御父と御子、その関係は、しばしばアウグスティヌスの三位一体論に依拠して理解されて来ましたが、そういった極めて難解な部分に踏み込むまでもなく、イエスさまは、神さまご自身でありながら、遣わされた者としての立ち位置に留まられたと、その断固たる意志を聞くだけで十分ではないでしょうか。ヨハネは、イエスさまのすぐそばにいた弟子として、そんなイエスさまの決意を感じて来たのでしょう。然り!  私たちの主は、神さまご自身でありながら、十字架に死に給うたほどに、私たち人間とともにあることを選ばれたのです。

 その拘りの中で、ヨハネはこう証言しました。「神がお遣わしになった方は、神のことばを話される。神が御霊を無限に与えられるからである。父は御子を愛しておられ、万物を御子の手にお渡しになった。御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる」(34-36) 御霊が地上でのイエスさまの一切をコーディネイトしておられた。それが御子に注がれた父君の深い愛でした。この御霊は父なる神さまが注がれたご自身の霊であると、ヨハネは慎重にことばを選びながら、特定しているようです。父なる神さまの霊を注がれ、御子はご自分の働きに邁進されました。そうしなければならない責任を、遣わしてくださった父君に負っていたのでしょうか。いや、責任とか義務ということではなく、イエスさまはご自分を愛してくださった父君を愛しておられたから、罪のために滅ぶべき私たちを愛し、十字架にかかられたのです。「(愛ゆえに御父は)万物を御子の手にお渡しになった」のであり、「(愛ゆえに御子は)ご自分を信じる者に永遠のいのちを与え」られたのです。御父と御子のすべての動機を、そこにおいて理解しようではないかと、これは、イエスさまに愛されたヨハネの、愛ゆえの感性だったのでしょう。この福音書で「愛」は、ヨハネが何よりも心を込めて伝えたいと願ったモチーフです。「御子を信じる者は永遠のいのちを持つ」、それは伝道者ヨハネの信仰告白であり、宣言でした。御父が御子に注がれた御霊が私たちにも注がれるとき、その宣言は私たちに向かってなされたと聞こえて来ます。私たちは、御父にも御子にも、そして、ヨハネにも愛されているのです。

 「しかし」とヨハネは続けます。「御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる」これはヨハネのモチーフ・「愛」の裏返しではないでしょうか。どんなに愛しても、その愛が受け入れられない。わけても現代人にそんな自己主張が強いのですが、そこに御父と御子の哀しみが伝わって来るではありませんか。その怒りや哀しみをも含めた「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した」(エレミヤ31:3)という愛を覚え、その愛に応えていきたいと願います。



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