ヨハネによる福音書


11
天上の御国に
ヨハネ 3:9−15
民数記 21:4−9
T 信仰によってのみ主を

 イエスさまとニコデモの会話の、後半です。この区分には1-12節や1-10節など、別の見解もあり一様ではないのですが、ここでは一応、伝統的な区分に従いました。しかし、11節から文体が新しくなっていますので、会話は10節で終了しているかとも思われます。ともあれ、最後の「ニコデモの質問とイエスさまの答え」がある、9-10節から見ていきましょう。

 「どうして、そのようなことがありうるのでしょう」「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか」 「分からない」それは、「新しく生まれる」「御霊によって生まれる」と言うことが、神さまからいのちの息を吹き込まれて生きる者となったという、創造の原点とも言うべきところを理解していないと言っているのです。それは、「しるし」を見て信じた人たち全員にも当てはまります。そもそも奇跡は魔術的で、その力は人間にとって極めて魅力的なものでしょう。自分にはない力だから、その力を行使できる人をすぐにもてはやしてしてしまうのです(使徒8:9-11)。イエスさまを誘惑したサタンも、その力を振りかざしました(マタイ4:3-11)。これが信心を産み、宗教へ変わっていった例は、数え切れないほど多いのです。それは、神殿祭儀に入り込んだバアル神やイシュタル女神など、異教の神々に端を発していると思われますが、古代世界には、デルフォイ神殿の託宣のように、非常にどろどろした祭司の宗教的神秘に支配されたところがありました。ディアスポラのユダヤ人が、そのようなものに毒されていたことは言うまでもありません。

 「アーメン、アーメン、あなたに告げます。わたしたちは、知っていることを話し、見たことをあかししているのに、あなたがたは、わたしたちのあかしを受け入れません」(11) 「わたしたち」「あなたがた」と複数になっているのは、ヨハネ自身を含めたイエスさまを信じる共同体と、ニコデモに代表されるこの世に毒されたユダヤ人共同体を、対立させているからです。それは、現代にまで続く、イエスさまとこの世との対決でもあるでしょう。この世は目撃し、経験したことだけを受け入れます。しかし、先在のロゴスであるイエスさまを証言するのは信仰のみであって、そのお方を「見ていない」「知らない」「受け入れない」というこの世の姿勢は、経験した「しるし」は受け入れても、まことの神さまご自身であるお方に向かっては、抵抗と無視することしか出来ないのです。


U 走り通された人の子

 「あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう。だれも天に上った者はいません。しかし、天から下った者はいます。すなわち人の子です」(12-13) ここからヨハネは、「わたしたち」を単数の「わたし」に戻し、イエスさまが語られたものとしていますが、それは、ロゴスなるイエスさまだけが語り得る、「天上のこと」に話が進展していくからです。「地上のこと」と「天上のこと」という、ヨハネの二元論が顔を覗かせます。しかし、双方、反発も否定もしていません。この二元論を通してヨハネは、イエスさまの登場に関する、最も中心的なヨハネ神学を明らかにしようとしているようです。ヨハネをも含む「私たち」、つまり「教会共同体」が語り得るのは、「地上のこと」でした。「天に上った者はいない」とは、そんな私たちを指しています。今まで「新しく生きる」「御霊によって生きる」ことが語られて来ましたが、それは、「しるし」を信じる人たちに向かって、そうでなければ「神さまの御国を見ることはできない」という、ヨハネの思いを込めたメッセージでした。それは、御国を目指すものではありましたが、あくまでも「地上のこと」なのです。しかし私たちは、そのヨハネのメッセージにイエスさまの思いが込められていると覚えなければなりません。「地上のこと」さえも分からないとニコデモは言われましたが、「地上のこと」、つまり、「御霊によって生きる」ことを理解するには、そこにイエスさまがどのように介入されたかを、知らなければなりません。私たちへの介入、それは、この世のことに囚われた私たちを解放し、御国に招き入れて下さるためでした。イエスさまはそのために来られたのです。「天から下った者はいます。すなわち人の子です」とは、その意味です。

 「人の子」とは、新約聖書中、四福音書に多数用いられているイエスさまの自己呼称ですが、恐らく、ダニエル書7:13にある「人の子のような者」に由来していて、これはメシアの称号であると受け止められて来ました。しかし、特にヨハネの福音書はこれを、「遣わされた者」という意味で、イエスさまへの尊称として用いています。イエスさまは、神さまから遣わされて地上を歩むロゴスなのです。しかし、「人の子」はイエスさまの自己呼称以外に見当たりませんので、「遣わされた」はイエスさまの意識であり、その意識のもとでイエスさまは、地上に遣わされた者として走り通されました。どのように? 「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです」(14-15)とこの段落では、イエスさまがなぜ遣わされて地上に来られたのか、そのことが取り扱われます。


V 天上の御国に

 「モーセが荒野で蛇を上げた」出来事は民数記21章に出て来ますが、それはイスラエル民族にとって、忘れることのできない事件でした。エジプトを脱出したイスラエルが、シナイ半島の荒野を移動していた時のことです。神さまから頂いた「マナとウズラ」で命をつないで来た彼らは、モーセに逆らって言います。「私たちにはパンも水もない。このみじめな食物に飽き飽きしてしまった」(21:5)そこで神さまは人々の中に、「燃える蛇」を送り込みました。これは猛毒を持つ蛇のことでしょう。そんな神さまの怒りのために、沢山の人たちが蛇に噛まれて死にました。慌てたイスラエルの人々は、モーセに訴えます。「私たちは主とあなたを非難して罪を犯しました。どうか、蛇を私たちから取り去ってくださるよう、主に祈ってください」(7)そこでモーセが祈りますと、「(青銅で)燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる」(8)という神さまのことばがあって、その通りになりました。イエスさまはその故事にご自分を重ね合わせ、「上げられなければならない」と言われたのです。これは十字架を指しています。

 遣わされて「地上」に来られたお方が、地上で走り通されたその出来事が、十字架に凝縮しているとお分かり頂けるでしょう。ところで、「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければならない」とイエスさまは、まるでそれが使命でもあるかのように、その故事にご自分を重ね合わせたと言いましたが、ユダヤ人には、イエスさまが旧約聖書に基づいて、ご自分の地上での働きの行程表を作成したと聞こえたのでしょう。しかし、そうではありません。モーセの故事が先にあったのではなく、それは、ご自分も先在のロゴスとしてその立案に関わり、人間の救済計画を遂行されたということであり、ヨハネは、その順番を取り違えないよう細心の注意を払いながら、この記事を書いています。それは、ここに用いられる「上げられる」ということばは、「十字架に上げられる」と同時に、天上の先在のロゴスという栄光へ帰還することを指しているからです。これがヨハネ福音書の、最も中心的な神学主題になっています。十字架に掛かることと天に帰られることとは、同一のことなのです。いくつか用例をあげますと、12:23、32、14:2-3、16:5などがあり、十字架を目前にして言われた、「人の子が栄光を受けるその時が来ました」(12:23)、「わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます」(同32)などは、その典型でしょう。そう聞きますと、イエスさまが「それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです」(15)と言われたことも、良く分かるではありませんか。永遠のいのちとは、十字架に贖われた新しいいのちに満たされて、私たちが天上の御国へと移されることを意味しています。地上を這いつくばっているような私たちが、創造主たるお方で先在のロゴス、遣わされた贖罪者・イエス・キリストを知っている者と呼ばれるのです。その通りに、ヨハネはこれほどのあかしをしました。私たちもと言われています。ハレルヤ! 何と光栄なことではありませんか。



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