預言者の系譜
エレミヤ 7
どうするつもりか?

エレミヤ書 5:1−5,18−19
Tテモテ    6:17−19
T 「ひとり」を捜しに

 エレミヤにとって、自分が召された預言者の務めには、神さまのことばを伝える声になるという以上の意味がありました。きっとそれは、初めからそう思っていたことではなく、神さまから「伝えよ」と命じられたメッセージを伝えながら、その破局の余りのすさまじさに驚き、心が痛んでのことだったのでしょう。しかし、「こんなことを伝えることはできない」と、拒むことは許されません。そこで彼は、伝えることの意味を自分に問うことになります。それが神さまに向かってのつぶやきとなりましたが、ここは、極めて内省的な、エレミヤの、自分への問いかけと聞かなくてはなりません。そこにはもちろん神さまの応答もありますが、彼は納得できず、何度も繰り返し問いを発します。その繰り返しは、現代の私たちにとっても、欠かすことの出来ないものではないでしょうか。

 「エルサレムのちまたを行き巡り、さあ見て知るがよい。その広場で捜して、だれか公義を行ない、真実を求める者を見つけたら、わたしはエルサレムを赦そう」(1)「さあ見て知るがよい」と、その問いかけは神さまのことばで始まりますが、それはまるで、アブラハムがロトとその町の人たちを惜しんで問いかけた、神さまとの問答のようです(創世記18:22-33)。それは、神さまの審判を聞いた自分への、問いかけの始まりでした。「見て知る」とは、自分の足で捜し尋ねることを意味しています。エレミヤは神さまの公義を行なう「ひとり」を捜しますが、その「ひとり」は、貧しい民衆の中にも(4)、身分の高い人々の中にも(5)、見当たりません。貧しい人たちは教育を受ける機会がありませんでしたから、神さまの支配や意志を見抜く力がないと思ったのでしょうか。身分の高い人たちなら、その知識と知恵には、神さまに目を向けるゆとりがあるだろうと期待したのです。しかしたったひとりでさえ、神さまが期待した赦しにふさわしい者は見つかりません。それどころか、彼らは言いました。「主が何だ。わざわいは私たちを襲わない。剣もききんも、私たちは、見はしない」(12)彼らはエレミヤのことばを聞きながら、「預言者たちは風になり、みことばは彼らのうちにない。彼らはこのようになる」(13)と、否定してやまないのです。新改訳ではよく分かりませんので、新共同訳から聞いてみましょう。「預言者の言葉はむなしくなる。『このようなことが起こる』と言っても、実現はしない」預言者は複数(新改訳)ですから、彼らが聞いたのは、エレミヤだけではなかったのでしょう。エレミヤとほぼ同時期に活動した預言者にハバククやゼパニヤなどがいますが、彼らもユダ王国の滅亡という警告を語りました。しかし、ユダは聞きません。彼らは預言者を拒否したのです。けれどもエレミヤは、いくら拒否されても諦めず、なおもユダの救われる道を手探りするのです。


U しかし、見つからない

 「主よ。あなたの目は、真実に向けられていないのでしょうか。あなたが彼らを打たれたのに、彼らは痛みもしませんでした。彼らを滅ぼそうとされたのに、彼らは懲らしめを受けようともしませんでした。彼らは顔を岩よりも堅くし、悔い改めようともしませんでした」(3)「貧しい人々」や「身分の高い人々」のうちに、主の公義を行なうひとりの人を求めて捜し回ったエレミヤのことをすでに見ましたから、順序が後先になったと思われるでしょうが、これはエレミヤの、再確認とでも言っていい問いかけなのです。彼が巷を行き巡って公義ある「ひとり」の人を捜しまわったとき、彼らは「主は生きておられる」(2)と答えたのです。しかし、それは口先だけの欺瞞でした。一方では「預言者たちの言葉は実現しない」と否定し、一方では「主は生きておられる」と、自分たちに正義があるかのような主張をしています。こういった欺瞞はイスラエルの中に深く根付いていて、彼らはそれを主への信仰と信じ疑いませんでしたから、それが「欺瞞」であると言われても納得できません。それが彼らの生き方でした。神さまと預言者が繰り返し語る、神さまを離れて他の神々に走ってしまったという彼らの問題点は、一見しますと、非常に単純で分かりやすい離反であって、なぜそれが悪いと分からないのかと疑問に感じますが、実際には、それほど単純なことではありません。エレミヤが内省的な問いかけを自分にしているように、人々もまた内面に非常な葛藤を抱えながら生きていたのです。それは、「主は生きておられる」という葛藤です。3:22b-25にある人々の言い訳は、その葛藤を指しているようです。それをいきなり否定されたら、聞く耳を塞いでしまうことになる。現代の福音宣教においても、心しなければならない点であろうと思われます。

 エレミヤが内省的な問いかけを繰り返しているのも、そこに原因があるのかも知れません。だから彼は、「真実から目をそらしているのではないか」と問いかけたのです。これは神さまへの問いかけのようですが、実は、エレミヤの自分自身への問いかけであると聞こえてきます。ここでは、問いかけの内容は語られていませんが、彼らは、神さまはお造りになったお方(創造者)、自分たちは造られた者である(被造物)と、そのことを知らなければなりませんでした。その事実を、彼らは忘れていたのです。だから彼らは、神さまが彼らの神さまであることを平気で否定し、愛されいることに気づかないのです。まるで現代人そのものです。それが「真実」でした。しかし、その真実は民のうちにはなく、神さまのうちにだけあるのです。その真実に照らして、再びエレミヤは、民の中にあるのは欺瞞であると断じます。神さまは、その欺瞞のゆえに、イスラエルを断罪しようとされていると。しかし、欺瞞にではなく、神さまの真実に目を向けようとする人が、たとえ一人であっても、いないのだろうか。エレミヤが貧しい民衆と身分の高い人たちの中に、その「ひとりの人」を捜し求めたのは、そのためでした。しかし、見つけることは出来ませんでした。


V どうするつもりか?

 「しかし、その日にも、−主の御告げ− わたしはあなたがたを、ことごとくは滅ぼさない。あなたがたが、『何のために、私たちの神、主はこれらすべての事を私たちにしたのか』と尋ねるときは、あなたは彼らにこう言え。『あなたがたが、わたしを捨て、あなたがたの国内で、外国の神々に仕えたように、あなたがたの国ではない地で、他国人に仕えるようになる』」(18-19) 「ひとり」の人を見つけることが出来ないからといって、神さまが民のすべてを滅ぼしたかというと、そうではありません。バビロン捕囚は、民全員に及んだのではありません。バビロンに連れて行かれた者たちは、残った者たちよりも、ずっとずっと少なかったのです。ですから、この箇所は捕囚期に記されたもので、エレミヤのものではないとする人たちも多いのですが、残った者たちが以前と同じように平和な時を過ごしていたかというと、そうではありません。ただ連れて行かれなかったというだけで、その状況は悲惨でした。5章の主題はエレミヤの内省的問いかけですが、その背景には、「これでは、どうして、わたしがあなたを赦せよう」(7)という、神さまのことばがあったのです。ですからエレミヤは、もしひとりでも義人がいたら、それでもあなたはこの民を滅ぼすのですか、と食い下がります。それが、「見て知るがよい」(1)という、エレミヤの問いかけの原点になりました。「どうしてわたしはおまえを赦さなければならないのか」というこの章の主題は、その意味で、「わたしはこのような民を罰しないでおくだろうか」という、神さまからの問いかけであると聞かなければなりません。もはや、エレミヤが何度も繰り返し問いかけ、なぜこのようなメッセージを語らなければならないのかと悩んでも、「顔を岩よりも堅くした」者たちには届きません。

 「あなたがたが、わたしを捨て、あなたがたの国内で、外国の神々に仕えたように、あなたがたの国ではない地で、他国人に仕えるようになる」と、これが神さまの、そしてエレミヤも到達した結論でした。捕囚という彼らの罰・断罪が明らかにされるのです。バビロンという国の名はまだ隠されたままですが、「イスラエルの家よ。見よ。わたしはあなたがたを攻めに、遠くの地から一つの国民を連れて来る。−主の御告げ− それは古くからある国、昔からある国、そのことばをあなたは知らず、何を話しているのか聞き取れない国」(15)とあるのは、もうエレミヤがそれを知っていることを示しているようです。「その末には、あなたがたはどうするつもりだ」(31)とこの章は締めくくられますが、それは現代の私たちにも強烈に問いかけて来ると、聞かなければならないでしょう。



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