預言者の系譜
エレミヤ 6
カオスの世界に向かって

エレミヤ書 4:5−31
マタイ  24:3−14
T 預言者の悲しみは

 前回(3:19-4:2)、イスラエルは、あたかも神さまの期待に応えるかのように、その罪を悔い改め、神さまのもとに帰ろうと熱望していると、そんな情景が語られました。しかし、そんな彼らの告白は、模擬体験だったのでしょうか。すべてが元の木阿弥となって、ついに彼らは捕囚の民となり、遠いバビロンの地で辛酸を嘗めることになります。その時になって初めて彼らは、ここで語られたような悔い改めと神さまへの立ち返りを経験するのです。それは、帰りたいのに帰れないという、実に苦い経験でした。詩篇にこんな悲しみの歌があります。「バビロンの川のほとり、そこで私たちはすわり、シオンを思い出して泣いた。その柳の木々に私たちは竪琴を掛けた。それは、私たちを捕らえ移した者たちが、そこで私たちに歌を求め、私たちを苦しめる者たちが興を求めて、シオンの歌を一つ歌えと言ったからだ……」(137:1-3) 恐らく、エレミヤが語った順番はこの通りだったのでしょう。そのような、帰りたくても帰ることができないというメッセージの後に、なぜそうなったのかという、彼らイスラエルの真の問題に触れた、神さまの審判の全容?が明らかにされます。今朝は、そのメッセージを聞いていきたいと思います。

 「ユダに告げ、エルサレムに聞かせて言え。国中に角笛を吹け。大声で叫んで言え。『集まれ。城壁のある町に行こう。』シオンのほうに旗を掲げよ。のがれよ。立ち止まるな。わたしがわざわいを北からもたらし、大いなる殺戮をもたらすから。獅子はその茂みから上って来、国々を滅ぼす者は彼らの国から進み出た。あなたの国を荒れ果てさせるために。あなたの町々は滅び、住む者もいなくなる。そのために荒布をまとい、悲しみ嘆け。主の燃える怒りが、私たちから去らないからだ」(5-8)殺戮、破壊、荒廃……、すさまじい主の怒りが語られます。9節に「王の心、つかさたちの心はついえ去り、祭司はおののき、預言者は驚く」とあります。思いもしなかった破滅に、指導者たちは慌てふためき、狼狽し、そして彼らは、自分たちのことを棚に上げ、神さまに責任をなすりつけるのです。「ああ、神、主よ。まことに、あなたはこの民とエルサレムを全く欺かれました。『あなたがたには平和が来る』と仰せられて。それなのに、剣が私ののどに触れています」(10)ここに「私は言った」とありますから、これは確かにエレミヤのことばなのですが、それはおかしいと、新改訳と岩波訳を除く邦訳は、この「私」を削除しました。しかし、これは古いギリシャ語写本やヘブル語本文(マソラ)にもあるもので、削除してはいけないところと思われます。これまで隠されていましたが、神さまのことばを語るために召し出されたエレミヤの、揺れ動く心根が窺われるようです。


U 刻々と迫る中で

 「見よ。それは雲のように上って来る。その戦車はつむじ風のよう、その馬は鷲よりも速い。ああ、私たちは荒らされる」(13)「国々に報せよ。さあ、エルサレムに告げしらせよ。包囲する者たちが遠くの地から来て、ユダの町々に叫び声をあげる」(16)「私のたましいよ。おまえが角笛の音と、戦いの雄たけびを聞くからだ。破滅に次ぐ破滅が知らされる。全国が荒らされるからだ。たちまち、私の天幕も荒らされ、私の幕屋も倒される。いつまで私は、旗を見、角笛の音を聞かなければならないのだ」(19-20)次第次第に、破滅へのストーリーが明らかになって来ます。まだ、襲いかかって来る敵の正体は明かされていないのですが、疾風怒濤のように進軍して来る騎兵隊や、軍馬に引かれた戦車の様子が語られ、ユダの町々が「全国」に渡って包囲されるほどの軍勢が、「遠く」から来ると語られているのです。破滅が刻一刻と近づいています。「ダンから告げる声がある。エフライムの山から、わざわいを告げ知らせている」(15)とあるのは、軍勢がイスラエル北部ダンから南エフライムの山地へ非常な速さで移動していると、伝令によって、その様子が刻一刻エルサレムの軍司令部に伝えられるているのでしょう。エフライムの山地は、エルサレムのすぐ近くです。敵を迎え打つべく闘志を燃やしているのではなく、今にも破滅がやって来ると絶望した、緊迫の戦況が伝わって来ます。

 これは、100 年ほど前に北王国に襲いかかってこれを滅ぼした、アッシリヤ・セナケリブ王の軍勢が、さらに南に歩を進め、エルサレムを包囲したときのこと(BC701)を思い出させているのでしょうか。もちろん、エレミヤがその包囲網を目撃したということはありません。100年も前のことです。しかしその光景は、まるで映画のワンシーンのように、あざやかな色彩さえ感じさせてくれます。今、南王国に襲いかかろうとしている北の軍勢は、北王国を破滅させたあの恐ろしい敵のようでもあり、エレミヤは、もはやそこから逃れる道はないと感じています。逃れる道はただひとつ、主に寄り頼むことであると。ですから、エレミヤは叫びました。「エルサレムよ。救われるために、心を洗って悪を除け。いつまで、あなたの中には邪念が宿っているのか」(14)エレミヤは、このような切羽詰まった状況下でも、まだ望みがあると感じているのでしょうか。セナケリブ軍がエルサレムを包囲したとき、20万を超える包囲軍が、一夜のうちに、主が送った疫病のために、壊滅状態となって軍を引き上げた事実を、聞く者たちに思い出させようとしているのでしょうか。そのとき、主の使いが打ったセナケリブの兵士たちは185000人であったと、U列王記19:35やイザヤ37:36にあります。それは、ヒゼキヤ王が涙を流して主に祈ったからでした。


V カオスの世界に向かって

 「あなたの行ないと、あなたのわざが、あなたの身にこれを招いたのだ。これがあなたへのわざわいで、実に苦い。もう、あなたの心臓にまで達している」(18)この段階でエレミヤは、破滅を語る者として、もはや傍観者ではありません。破滅は、自分自身のことなのです。19節以下は、エレミヤ自身の嘆きです。「私のはらわた、私のはらわた。私は痛み苦しむ。私の心臓の壁よ。私の心は高鳴り、私はもう、黙っていられない。私のたましいよ。おまえが角笛の音と、戦いの雄たけびを聞くからだ。破滅に次ぐ破滅が知らされる。全国が荒らされるからだ。……」と、エレミヤの嘆きは止まりません。迫り来る破滅を悩む民衆の、絶望を共有することだけがエレミヤの嘆きではありません。彼がその絶望を伝える告知者だからです。そのような絶望を伝える使者とならなければならなかった彼は、自分自身が破局の手助けをしているのではないかと、苦しんでいるのです。張り裂けんばかりのエレミヤの、「はらわた」「心臓」の痛みが伝わって来るではありませんか。同胞の破滅、隣人の崩壊……、そんな状況が頻繁に私たちの周りで起こっているこの現代に、福音の使者として召し出されている私たちが、果たしてエレミヤのような痛みをもって主のことばを伝えているのか、と問われているようです。

 23-28節は、預言文学の中でも極めて壮大なもののひとつに数えられています。創世記1章を思い出させる光景であり、それは世界の没落という、恐ろしく不気味な出来事が黙示文学的表現で語られていて、これ自体恐らく、独立したメッセージなのでしょう。「私が地を見ると、見よ、形なく、何もなく、天を見ても、そこには光もない。山々を見ると、見よ、揺れ動き、すべての丘は震えていた。私が見ると、見よ、人間はひとりもいない。空の鳥もみな飛び去った。私が見ると、見よ、果樹園は荒野となり、町々は主によって、主の燃える怒りによって、取りこわされていた。まことに主はこう仰せられる。『全地は荒れ果てる。しかし、わたしはことごとくは滅ぼさない。このために、地は嘆き悲しみ、上の天も暗くなる。わたしが語り、わたしが企てたからだ。わたしは悔いず、取りやめもしない』」混沌・カオスの世界と言っていいでしょう。「わたしが企てたからだ」と、これは神さまによるものだとエレミヤは証言していますが、それは、南王国の滅亡をはるかに超えた出来事であると感じさせます。それは、現代の私たちも思わなければならない、終末にも通じているのでしょうか。世界の審判者である、神さまがなさることだからです。神さまの悲しみが伝わって来るようです。最後の部分で、エレミヤは、王国の滅亡にこの終末の破滅を重ね合わせているようです。「恋人たちは、あなたをうとみ、あなたのいのちを取ろうとしている」(30)とあるところも、またシオンの娘の嘆き(31)もそうでしょう。不法がはびこるので愛が冷えていくと言われたイエスさまのことばを噛みしめ、主の前に静まりたいと願います。



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