預言者の系譜

エレミヤ 50
居ずまいを正されて

哀歌 1:1−22
マタイ 23:37−39
T 美しくも哀しい詩心に

 預言者の系譜・エレミヤの最終回です。締めくくりとして、その名がつけられた哀歌から見ていきましょう。

 この哀歌1章は、新改訳、文語訳、口語訳では「ああ」、新共同訳では「なにゆえ」と始まっています。これはヘブル語原典の「エーハー」ということばですが、「ああ、なにゆえ」という哀しみを表わすことばとなって、それがこの書「哀歌」の表題になっています。しばしば「エレミヤ哀歌」とも呼ばれ、著者はエレミヤとされてきました。それは、ギリシャ語聖書70人訳に、「イスラエルが捕囚に導かれ、エルサレムが荒廃した後、エレミヤは座して泣き、この哀歌をもってエルサレムのために哀悼した」と、序文がつけられたことによります。しかし、その根拠とされるU歴代誌35:25に、「エレミヤはヨシアのために哀歌を作った。男女の歌うたいはみな、今日に至るまで、彼らの哀歌の中でヨシアのことを語り、これをイスラエルのために慣例としている。これらは哀歌にまさしく記されている」とあるヨシア王の名が、「このエーハー(哀歌)」にないなど、多々矛盾する点があるとして、近現代の批評的聖書学者たちの多くは、これをエレミヤのものではないとしています。しかし、それにも少々難点があって、実のところ、「分からない」を正解とする人が多いようです。それなら、ヨシア王のために哀歌を作ったエレミヤが、別にエルサレムのために「哀歌」を作ったとしてもおかしくはない。この哀歌にそんな思いを重ねながら、この最終章を見ていきたいと思います。

 この哀歌には、詩心が溢れています。5章を除く各章は、各節の冒頭の文字がヘブル語のアルファベットで始まっていて、ヘブル語アルファベットの数通り、全体が22節に統一されています。残念ながら4章は、日本語訳からそのニュアンスが失われていますが、美しい詩形のニュアンスがいくらか伝わって来るようですので、1-2節を新共同訳で見てみましょう。「アレフ なにゆえ、独りで座っているのか、人に溢れていたこの都が。やもめとなってしまったのか、多くの民の女王であったこの都が。奴隷となってしまったのか、国々の姫君であったこの都が。ベトゥ 夜もすがら泣き、頬に涙が流れる。彼女を愛した人のだれも、今は慰めを与えない。友は皆、彼女を欺き、ことごとく敵となった」そのレクイエムにも似た美しくも哀しい詩心に惹かれたのでしょうか。16世紀英国のテューダー王朝の4人の王に仕えたオルガニスト、トマス・タリスは、グレゴリアン・チャント収録の作品の主題を引用し、哀歌1:1-5に曲をつけた「エレミヤ哀歌」という、彼の代表作とも言われる作品を遺しています。非常に美しい曲です。ここには、ヘブル語聖書の原詩のニュアンスを踏襲した、ヴルガタ訳と呼ばれる、ラテン語の聖書そのものが用いられています。


U 痛みを共有して

 著者問題にこんなに時間を割くのはどうかと思いますが、エレミヤを語るとき、どうしても大切と思われますので、ご容赦下さい。従来、著者をエレミヤとする人とエレミヤではないとする人との、二者択一の議論が重ねられて来ましたが、もう一つ、別の可能性があるのではないかという点です。エレミヤと別の人との共同作業ではなかったのか、その点から考えてみたいと思います。

 エレミヤがこの歌を歌ったとすれば、それは、いつ? どこで? だったのか。チャンスはそれほど多くはないでしょう。「ユダは悩みと多くの労苦のうちに捕らえ移された」(3)「シオンへの道は喪に服し、だれも例祭に行かない」(4)とありますから、エルサレムはすでに陥落して破壊され、人々は町を逃れ、あるいはバビロンへ捕囚となっていました。すると、王宮の監視の庭に座っていた時ではないし、バビロン兵に二度捕らわれて引き回されていますが、その間にこれほどの詩が書き留められたとも思えません。エジプトに行ってからだったのでしょうか。しかし、これらの詩には臨場感があります。エルサレムの破壊や人々の捕囚を目撃して間もなくのこととすると、エジプトではあり得ません。恐らく、ミツパに滞在していた時ではなかったか。しかし、ミツパでもそれほどの時間があったとは思われません。短いとはいえこれほどの詩です。生まれていたとしても、断片的なものでしかなかったでしょう。最終的に、それがバビロン捕囚の編集者の手に渡り、かなりの手が加えられた……、と想像します。

これまでにもエレミヤ書の中で、たくさんの編集され加筆された箇所を見て来ました。これはそうした編集者?によるのでしょうか。彼もまた、ダビデ王朝の終焉やエルサレムの破滅を目撃した一人だったのでしょうか。「恋人の裏切り」(哀歌1:2、エレミヤ30:12-14)、「エルサレムの汚れ」(哀歌1:8-9、エレミヤ13:23)、「預言者の目が涙で溢れ」(哀歌1:16、エレミヤ9:1)、「私の民の娘の傷」(哀歌2:11、3:48、エレミヤ8:11)、「神さまに復讐を訴える」(哀歌3:64-66、エレミヤ11:20)、「冠が落ちた」、(哀歌5:16、エレミヤ13:18)等々、エレミヤが用いた表現が、哀歌のあちこちに見られます。それは、エレミヤ著作説を否定する聖書学者によっても、支持されていることです。エレミヤの真筆がどこからどこまでだったのか、たとえ半分以下か、それよりずっと少ないメモ程度のものだったとしても、それを踏襲し、編集者はこれをエレミヤに帰すべく、何カ所もエレミヤ書に類似した表現を用い、エレミヤの感性をここに込めました。この哀歌は、エレミヤを語っていると聞こえて来ます。


V 居ずまいを正されて

 「哀歌(エーハー)」原詩の記者であろうエレミヤはもちろんのこと、知られざる著者、編集者、70人訳の記者たちは、この詩を通して預言者エレミヤを語りました。1:1に戻ります。「ああ、人の群がっていたこの町は、ひとり寂しくすわっている。国々の中で大いなる者であったのに、やもめのようになった。諸州のうちの女王は、苦役に服した」 エレミヤ書には女王という表現はありませんが、エレミヤはしばしばイスラエルを愛しい娘に例えており、エルサレムが国々の女王、姫君(新共同訳)であっても、少しもおかしくはありません。他国の人々からも慕われていたという点では、エルサレムはまさしく女王であり、姫君でした。それほどにエルサレムは慕わしく、輝かしい都だったのです。寒村アナトテに住むエレミヤにとって、「人の群がる」エルサレムはきっと、まぶしかったのでしょう。アナトテからエルサレムに上る道は、通常、ベニヤミンの門に続く北西からでしたが、ほんの少し遠回りすれば、オリーブ山頂から下るエリコ街道につながります。オリーブ山頂から見渡すエルサレムの眺めは、まことに見事なものです。街なかに入りますと、どこからこんなに人がと驚くほどの雑踏ですが、それでも生き生きと輝いています。そんな情景は、昔も今と変わらないと言われます。イエスさまも弟子たちも、そんなエルサレムが好きでした。きっとエレミヤも、そうだったのでしょう。その輝かしいエルサレムが、バビロンの軍勢によって蹂躙されました。エレミヤだけでなく、目撃者だったこの編集者にも、それはどんなに悲しく痛ましいことだったでしょう。神戸に住んで大好きになった街が、大震災でずたずたに引き裂かれ、炎上した時、我が身を削られたようで、涙が止まりませんでした。編集者がエレミヤに自分の痛みを重ね合わせたことに、共感を覚えます。

 王宮の庭に座り、街が破壊されていく様を呆然と眺めている。エレミヤ書には、その様子が詳細に記録されていますが、そんな時、果たして、目の前で起こっている出来事を、平然と観察し記録することが出来るのでしょうか。もう一箇所、読みましょう。「シオンの娘の城壁よ。昼も夜も、川のように涙を流せ。ぼんやりしてはならない。夜の間、夜の見張りが立つころから、立って大声で叫び、あなたの心を水のように、主の前に注ぎ出せ。主に向かって手を差し上げ、あなたの幼子たちのために祈れ。彼らはあらゆる街頭で、飢えのために弱り果てている」(3:18-19)こんなことを記録し得たのは、恐らく、ミツパに落ち着いてからではなかったかと思われます。ミツパ滞在三ヶ月弱として、その間にエルサレム破壊の記録と哀歌……とは、とても時間が足りなかったでしょう。哀歌が断片的であることも、不思議ではありません。しかし、そこには、エレミヤの痛み、哀しみ、そして神さまの怒りまでも凝縮されていると、編集者は感じたのです。70人訳の翻訳者たちも、「ああエルサレム、エルサレム」(マタイ23:37)と嘆かれたイエスさまも、そして後世の今に至るまでの哀歌の読者たちも……。痛みを覚えつつこの詩を読む時、神さまの前で居ずまいを正されるではありませんか。


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