預言者の系譜
エレミヤ 5
心に届くことばを

エレミヤ書 3:19−4:4
ピリピ書   3:17−21
T 愛の復元は

 前回、エレミヤの中心メッセージの枠が広げられたのではと、福音との関連に少しだけ触れました。今朝のテキストでエレミヤは、その新しい枠組みに触れようとしています。

 「わたしはどのようにして、あなたを息子たちの中に入れ、あなたに、慕わしい地、諸国のうちで最も麗しいゆずりの地を授けようかと思っていた。また、わたしは、あなたがわたしを父と呼び、わたしに従って、もう離れまい、と思っていた。ところが、なんと、妻が夫を裏切るように、あなたがたはわたしを裏切った。イスラエルの家よ。ー主の御告げー」(3:19-20) ここでイスラエルは、娘と表現されています。その娘を、「息子たちの中に」組み入れようと言うのです。ここでは、ユダヤ相続法による、息子の優位性が意識されています。相続権を持つ息子・長男は、他の男子たちを合わせたものの二倍を相続する権利を有する、というのがこの国の昔からの定めでした。但し、他の息子たちは、長男が死亡するなど異変が起こったときには相続順位が繰り上がり、相続権が発生する可能性があり、繰り上がらない場合でも、若干の財産分与がありました。ところが、娘の場合には、そんな可能性すらありません。娘は相続法の枠外に置かれていました。稀に財産を分与されることもありましたが、その場合でも、嫁ぐとき、財産を他部族に持ち出すことは許されませんでした。相続財産が土地の場合には、なおさらです。すると娘は、ただ父親の恩恵によって生きるしかありません。ところが神さまの恩恵は、彼女を「息子たちの中に」組み入れると言われるのです。これは恩恵者からの宣言です。受ける側の権利ではありません。父親の愛が、そのような恩恵になったと見るべきでしょう。そして、彼女にその地、慕わしい地、諸国のうちで最も麗しいゆずりの地を与えるのは、その地において彼女が、父に対して愛と誠実をもって応えるようにとの、期待が込められていました。そうすることで、彼女が神さまに従い、神さまの御心を喜ばせるように歩み、そこから離れ出るようなことはしない、という期待が込められていたのです。そのようにして彼女は、神さまの選びの民となるのです。「最も麗しいゆずりの地」は、イエスさまの福音による、御国相続の予型なのでしょうか。

 「ところが……」と言われます。「あなたがたはわたしを裏切った」(3:20)この裏切りは、神さまのこうした愛を覚えることによって、その意味が明らかにされるのでしょう。神さまに育まれた彼らの全人格が、ねじ曲げられました。もはや、心からの悔い改めなしに、修復は出来ません。更に言うなら、神さまご自身のご介入なしに、その愛は復元されないのです。それは、神さまご自身の福音に待たなければならないのでしょうか。それが3:21-4:2節の主題になっています。裏切り(7,8,11・大部分の邦訳は不実と訳される)は、愛の喪失であり、不法への入り口です。現代のように……。


U 逃げ水のように

 「一つの声が裸の丘の上で聞こえる。イスラエルの子らの哀願の泣き声だ。彼らは自分たちの道を曲げ、自分たちの神、主を忘れたからだ。背信の子らよ。帰れ。わたしがあなたがたの背信をいやそう」(3:21-22)ある注解者はこれを、「預言者の極めて繊細な内なる耳は」と表現しています。エレミヤの耳に届いたのは、このような哀願の泣き声でした。彼らは道を見失ったのです。帰りたいのに帰る道が分からない。これまでにも何人もの預言者たちから、「帰れ。わたしがあなたがたの背信をいやそう」と言われ、帰らなければならない、帰りたいと思ったのは確かでしょう。しかしそれは、自分たちを娘と呼んでくださり、「あなたを息子たちの中に入れる」と言ってくださる、神さまの愛を知って初めて言える告白ではないでしょうか。エレミヤの耳に届いた哀願の泣き声は、彼らの悔い改めでした。「今、私たちはあなたのもとにまいります。あなたこそ、私たちの神、主だからです。確かに、もろもろの丘も、山の騒ぎも、偽りでした。確かに、私たちの神、主に、イスラエルの救いがあります。しかし、私たちの若いころから、バアルが、私たちの先祖の勤労の実、彼らの羊の群れ、牛の群れ、息子、娘たちを食い尽くしました。私たちは恥の中に伏し、侮辱が私たちのおおいとなっています。私たちも先祖たちも、私たちの若いころから今日まで罪を犯して、私たちの神、主の御声に聞き従わなかったからです」(3:22-25) 彼らは神さまを「私たちの神、主である」と告白しました。彼らが夢中になっていたカナンの供物宗教バアルは、彼らを食い尽くす、偽りの神々でしかなかった。「私たちは恥の中に伏し、侮辱が私たちのおおいとなっています。私たちも先祖たちも、私たちの若いころから今日まで罪を犯して、私たちの神、主の御声に聞き従わなかった」と、彼らの告白が続きます。「恥」とありますが、これは罪を犯したという思いが彼らの内面に深くしみ渡り、主の前に崩れ折れる姿を示しています。まさにそれは神さまの前における、真の悔い改めでした。

 しかし、本当に彼らは、このような悔い改めをもって神さまの前にひれ伏したのでしょうか。それは、こうあって欲しいと願う神さまの、そしてエレミヤの、希望ではなかったかと思われてなりません。その希望は、残念ながら叶えられず、ユダ王国は、北から攻め寄せて来たネブカデネザルの軍勢によって遠いバビロンに捕囚となってしまいます。そのときになって初めて、彼らはこの告白をするのです。現実にはなかった主への告白を、逃げ水のように描き出して見せたエレミヤの、これも民衆への警告ではなかったかと想像するのです。預言者の奥深い傷口が、痛々しく見えているではありませんか。


V 心に届くことばを

 「イスラエルよ。もし帰るのなら、ー主の御告げー わたしのところに帰って来い。もし、あなたが忌むべき物をわたしの前から除くなら、あなたは迷うことはない。あなたが真実と公義と正義とによって『主は生きておられる』と誓うなら、国々は主によって互いに祝福し合い、主によって語り合う」(4:1-2) 彼らの悔い改めには、救いの約束という神さまの応答が与えられます。それはいかなる意味においても、イスラエルの願望から出るものではありません。どんなに切ない哀願の涙を伴っていたとしても……。それは神さまの愛に基づくものなのです。ホセアのことばを聞いてください。「さあ、主に立ち返ろう。主は私たちを打ったが、また、包んでくださるからだ。主は二日の後、私たちを生き返らせ、三日目には私たちを立ち上がらせる。私たちは御前に生きるのだ。私たちは知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現われ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される」(6:1-3)エレミヤは、預言者の系譜を引き継いでいます。預言者たちはいづれも、イスラエルへの神さまの愛を感じつつ、そのメッセージを取り次いで来ました。エレミヤも例外ではありません。こんなにも厳しい断罪を取り次ぎながら、そこには神さまの愛があると、繰り返し語りかけています。きっと、私が感じている神さまの愛が、たとえわずかな者であっても、愛されている者たちに伝わらないはずがないと、懸命に語っているのでしょう。

 聞いて頂きたいのです。神さまの愛を。必要なことはたった一つ。「神さまを認めて、その神さまの前から自分たちの悪を取り除ける」、ただそれだけが求められているのです。何よりも神さまを認めることです。それは現代の私たちにも通じることでしょう。現代の日本人は、未だに神さまを、キリスト教の神、外国から持ち込まれて来た神としか聞くことができません。「生きておられる神さま」のことを聞いて欲しいのに、認めて欲しいのに、そこに大きな壁を立てているのです。エレミヤの悩みが聞こえて来るようです。神さまの選民であったはずのイスラエルが、私たち日本人と同じところに立って、生きておられる神さまを見失っていました。「まことに主は、ユダの人とエルサレムとに、こう仰せられる。『耕地を開拓せよ。いばらの中に種を蒔くな。ユダの人とエルサレムの住民よ。主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け。さもないと、あなたがたの悪い行ないのため、わたしの憤りが火のように出て燃え上がり、消す者もいないだろう』」(4:3-4)心に届くはずなのに、そこに厚い壁を立てて、神さまのことばが届いていかない。「ああエルサレム、エルサレム……」(マタイ23:37-39)と嘆かれたイエスさまの声に、重なって来るようです。不毛の時代なのでしょうか。しかしエレミヤのように、諦めず、神さまのことばを語っていかなければと願います。



預言者の系譜・目次