預言者の系譜

エレミヤ 46
新しい愛の契約に

エレミヤ 31:1−40
マタイ 26:26−29
T 誠実を?

 30-31章は別々のものではなく、一括りに語られたエレミヤのメッセージです。これは「希望のメッセージ」であると、30章で触れました。31章になって、それがいよいよ鮮明になります。これは、かなり経ってから集められた断片的なメッセージを、エレミヤとともにバルクが巻物に仕上げ、公表したものと思われます。エレミヤ書のクライマックスと言っていいでしょう。

 「その時、―主の御告げ―。わたしはイスラエルのすべての部族の神となり、彼らはわたしの民となる。主はこう仰せられる。『剣を免れて生き残った民は、荒野で恵みを得た。イスラエルよ。出て行って休みを得よ』」(1-2)この部分は導入句ですが、イスラエルとあります。このメッセージは、ヨシア王時代のかなり早い時期のものでしたから、北王国をも包括した、イスラエル全部族へのメッセージになっています。しかし、「剣を免れて生き残った民は、荒野で恵みを得た」という表現は、エジプトを出て来たイスラエルの苦難に、今、アッシリヤやバビロンによって直面しようとしている、南北両王国の苦難に重ね合わせているのでしょうか。そうではありません。北王国の末裔たちは帰還することなく、イスラエルの北部地方は、アッシリアの政策によって、混合民族になってしまったからです。「荒野で恵みを得た」とは、全く別のことを指しているようです。

 「誠実を尽くし続けた」(3)とありますが、神さまはもともと誠実なお方ですから、わざわざそれを言う必要はありません。それなのに、あからさまにこう言われたのは、このメッセージが、「誠実」を忘れた人たちに向けられているからです。とりわけ、北王国で混合民族となった末裔たちは、混合民族であるがゆえに、一層、誠実ということから遠くなっていたのでしょう。3節が「主は遠くから私に現われた」と始まるのは、一つには、その意味においてと聞かなければなりません。「誠実」は、神さまによりも、恵みを聞こうとする、私たち人間の側にこそ求められるものです。神さまが遠くにおられるのではなく、人が神さまから遠く離れているのです。それなのに、神さまは、「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた」と言って下さるのです。

「主は遠くから私に現われた」の、もう一つの意味を探ってみたいと思います。多くの聖書学者たちから、「遠く」は、古い救済(シナイ契約)の枠内で起こった出来事を指しているであろうと言われています。その古い伝承は、イスラエルの祭儀という記憶の中に保持されていました。今、新しく神さまの愛が語られるのは、その祭儀の中で彼らに刻まれた、神さまの恩寵の記憶に訴えてのことなのです。預言者を通して語られたメッセージを聞き、恩寵の神さまを思い出して欲しいと願っているのでしょうか。


U 溢れ出るように

 「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた」、この美しい不朽のことばは、エレミヤとバルクの、ぬくもりある信仰を見せてくれるようです。きっとこれは、たくさんの厳しい審判のことばを取り次いで来た彼らが、そこに、神さまのイスラエルに対する暖かいぬくもりある思いを汲み取り、だからこそ出て来たことばなのでしょう。特に書記バルクに、心惹かれます。想像してみました。たまたま出会った預言者エレミヤから招かれ、預言のことばを巻物に筆記しているバルクですが、今まで民衆の側から聞いていたエレミヤのメッセージを、今度はエレミヤの側から聞くという訓練を受け、神さまのことばの筆記者になりました。一度書き上げた巻物は、エホヤキム王の怒りに触れて燃やされ(36章)ましたが、再度筆記したそこに「書記バルクは、さらにこれと同じような多くのことばをそれに書き加えた」(36:32)とあります。30-31章は、それに該当するのでしょう。エレミヤ書は全体を通し、厳しい神さまの審判のことばで溢れています。バルクはそれらのことばを、いやと言うほど筆記して来ました。もう聞きたくない、筆記したくもないと思ったとしても、おかしくはないでしょう。45章は、それを雄弁に物語っています。しかし、悩むバルクの内に、エレミヤの祈りもあり、預言者と同じ信仰が育っていくのです。そんな彼が、これほどに溢れ出る神さまの恩寵のことばに出会いました。堰を切ったように、彼の筆は止まりません。神さまは、ユダの民たちを、もう一度このエルサレムに帰されると聞きました。彼の目にもユダ王国の滅亡は時間の問題とはっきりしている中で、この恵み溢れる希望のことばが、彼の内に溢れたのではないでしょうか。彼は、その溢れたことばがこぼれ落ちるかのように、書き連ねました。

 「諸国の民よ。主のことばを聞け。遠くの島々に告げ知らせて言え。『イスラエルを散らした者がこれを集め、牧者が群れを飼うように、これを守る』と。主はヤコブを贖い、ヤコブより強い者の手から、これを買い戻されたからだ。彼らは来て、シオンの丘で喜び歌い、穀物と新しいぶどう酒とオリーブ油と、羊の子……」(10-14)神さまのことばへの信頼と誠実さを感じるではありませんか。そのバルクが筆記した神さまの希望のメッセージは、本当に、北王国と今滅亡しようとしている南王国の地に再び沸き上がる、帰還の民の喜びや主への賛美となるのでしょうか。イスラエルは、忘れていた神さまへの誠実=信頼を取り戻すのでしょうか。「荒野で恵みを得た」とは、それとは全く別のことを指しているようだと言いました。そのことをはっきりさせなければなりません。


V 新しい愛の契約に

 「ヤコブ」という表現が出て来ました(7)。それは「ヤハウェのしもべヤコブ」(46:27)という意味ですが、先週、これは〈ヤハウェの『あなたはわたしのもの』という宣言であって、ヘブル語の『しもべ』は『働く者』の意で、『子』と同義語と考えられ、ギリシャ語ドゥーロスのような侮蔑的『奴隷』の意味はなく、子が父に仕えるように、ヤハウェに愛されてヤハウェへの奉仕者=礼拝者となることである〉と聞きました。神さまとイスラエルが、父と子のように愛でつながり、そして、その愛は、イスラエルの愚かさで破棄されるようなものではないと。恐らく、「帰還」は、その愛の一つなのでしょう。しかし、31章には、もっと違うレベルのことが語られているようです。「休みを得よ」(2)、新共同訳はこれを「安住の地」としていますが、北王国や南王国が栄えた時でさえ、見られなかった表現です。そこには、パラダイス・神さまの御国への招きが語られていると聞こえて来ます。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した」(3)も、それを裏付けてくれるようです。神さまは、ご自分の「誠実」(3)にかけて、彼らを永遠の御国へ導いてくださる。それはもはや、エジプトからカナンへという、古い契約に重ね合わせられるものではありません。

 「新しい契約」(31)と言われていますが、「愛の契約」と呼んでもいいでしょう。そして、その「新しい愛の契約」は、イスラエルだけのものではありません。「諸国の民よ。主のことばを聞け。……わたしの民は、わたしの恵みに満ち足りる」(10-14)と、バルクは筆記しました。イスラエルの主は、全世界の人々の主でもあるのです。残念ながら、イスラエルにはそれが分からず、ペルシャのキュロス王のもとでユダヤに帰還することになっても、彼らは、その愛に応えることが出来ません。激しい闘争が繰り広げられる中で、イスラエルの混乱は、以前にも増してひどくなっていきます。そんな中で、メシア信仰がユダヤ全土に広がっていくのです。そして、神さまの忍耐があって、イエスさまのご降誕となるのです。「聞け。ラマで聞こえる。苦しみや嘆きの声が。ラケルがその子らのために泣いている。……」(15)、これはメシア預言として知られます。「新しい契約」は、イエスさまによって定められました。「イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取って食べなさい。これはわたしのからだです』また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。『みな、この杯から飲みなさい。これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはやぶどうの実で造った物を飲むことはありません』」(マタイ26:26-29)しかし、現代の私たちは、聖書から遠く離れ、それはまるで、神さまへの誠実を忘れたイスラエルのようではありませんか。イエスさまの十字架が何のためであったか、もう一度思い出す必要があります。この聖なる晩餐の席に、私たちも与りたいではありませんか。


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