預言者の系譜

エレミヤ 45
ただ恵みによる

エレミヤ 30:1−24
エペソ 2:1−10
T 封印された希望のメッセージが

 預言者の系譜のエレミヤを、エレミヤ書から聞いて来ましたが、ダビデ王朝最後の王となるゼデキヤへの、メッセージのトーンが変わりました(23:1-8)。しかし、そのトーンには続きがあるようです。聞いていきたいと思います。今朝は30章からです。

 「イスラエルの神、主はこう仰せられる。『わたしがあなたに語ったことはみな、書物に書きしるせ』」(2)とありますが、30-31章は、何らかの条件が整うまで、保存されることが目的で書かれたようです。エレミヤの預言活動の、初期のものと思われます。「見よ。その日が来る。―主の御告げ― その日、わたしはわたしの民イスラエルとユダの捕らわれ人を帰らせると、主は言う。わたしは彼らをその先祖たちに与えた地に帰らせる。彼らはそれを所有する」(3) イスラエルとユダが並んで挙げられていますが、エレミヤがこのメッセージを聞いたのは、ヨシア王の治世の時で、北イスラエルがアッシリヤによって捕らえ移された後のことです。「イスラエルとユダの捕らわれ人を帰らせる」とありますが、そこにはまだ、ユダ王国の捕囚など、誰の視野にも入っていません。アッシリヤ軍がエルサレムに押し寄せましたが、主の助けがあって撤退していましたし、バビロンはまだ、その影さえ見えていません。そんな状況の中で、エレミヤはこのメッセージを封印しました。「何らかの条件」、それは、ユダの捕囚が事実となることではなかったかと思われます。誰の目にもユダ王国の滅亡がはっきりして来たとき、王の使者に託され、このメッセージが公表されたようです。

 その時、ユダ王国は破滅の危機に直面していました。恐らく、ゼデキヤ王の時代だったと思われますが、預言者たちの「希望の神学」が主戦派を動かしていたそんな世相の中で、ユダ王国の危機的状況が次第に決定的になっていきます。エレミヤが初期の段階で、南ユダ王国を北王国に重ね合わせて何度も繰り返して来たメッセージ(3:6-10参照)が、現実のものとなったのです。「ああ。その日は大いなる日、比べるものもない日だ。それはヤコブにも苦難の時だ」(7)と、エレミヤのその嘆きは、まだ見ていないエルサレムの破滅を、まるで見ているかのように描写しています。もしかしたら、その破滅を目撃し、保存されていた文書に手を加えたのかも知れません。その辺りは編集の手が加えられているようで、それがエレミヤによるのか、書記バルクによるのか、または、後代の(複数の)編集者によるのか、全く不明です。しかし、いづれにしても、エレミヤのメッセージは変わらず、ユダ王国の破滅という神さまの審判があり、その後、救いが実現するのです。30-31章では、そのことが繰り返されています。


U 主を忘れた者たちに

 10-11節は、46:28に原型と思われる文章がありますので、そこから引用しましょう。「わたしのしもべヤコブよ。恐れるな。 イスラエルよ。おののくな。見よ。わたしが、あなたを遠くから、あなたの子孫を捕囚の地から、救うからだ。ヤコブは帰って来て、平穏に安らかに生き、おびえさせる者はだれもいない。わたしのしもべヤコブよ。恐れるな。―主の御告げ― わたしがあなたとともにいるからだ。わたしは、あなたを追いやった先のすべての国々を滅ぼし尽くすからだ。わたしはあなたを滅ぼし尽くさない。公義によって、あなたを懲らしめ、あなたを罰せずにおくことは決してないが」これを見ても、30章には、編集の手が加わっているとお分かり頂けるでしょう。「ヤハウェのしもべヤコブ」と繰り返され、イスラエルは、わざわざ「ヤコブ」と言い替えられています。「ヤコブの家とユダ」(5:20参照)とあるのは、ヤハウェ祭儀における、古い契約共同体を指しています。祭儀における契約共同体と難しい言い方をしましたが、それは、ヤハウェが彼らの救いに関わろうとするとき、「あなたはわたしと契約を結んだではないか」、その契約を思い出して欲しい、と言うことのようです。ヤハウェは、イスラエルを、「わたしのもの」と言っておられる。これは祭儀における宣言です。ヘブル語の「しもべ」は「働く者」であり、「子」と同義語と考えていいでしょう。「しもべ」には、ギリシャ語・ドゥーロスのような、侮蔑的「奴隷の」意味はありません。子が父に仕えるように、ヤハウェに愛され、ヤハウェへの奉仕者=礼拝者となる。しかし、「しもべヤコブ」は、ヤハウェに愛されていることを忘れてしまったのです。ヤハウェへの奉仕も、儀式中心の祭儀宗教に陥ってしまい、祭司の家系出身のエレミヤには、その辺りのことが分かっていたようです。だから、「公義によって、あなたを懲らしめ、あなたを罰せずにおくことは決してないが」と、メッセージを取り次ぎました。岩波訳は、「公義をもって、あなたを懲らしめはする。あなたを無罪とはしない」となっています。まず、自分たちがやったことの刈り取りをしなければならない。それが、エルサレム滅亡であり、バビロン捕囚でした。

 しかし彼らは、泣き叫びます。かつて、エジプトから連れ出されたイスラエルも、同じでした。12-14節の、「あなた」を「私」に代えてみますと、彼らの嘆きが浮かび上がって来るようです。「私の傷はいやしにくく、私の打ち傷は痛んでいる。私の訴えを弁護する者もなく、はれものに薬をつけて、私をいやす者もいない。……」 しかし、ここでは、「あなた」と皮肉な言い方になっています。そして彼らは、言われます。「なぜ、あなたは自分の傷のために叫ぶのか。あなたの痛みは直らないのか。あなたの咎が大きく、あなたの罪が重いため、わたしはこれらの事を、あなたにしたのだ」(15)と。人間というものは、原因が自分にあっても、辛く悲しいことには耐えられないのでしょう。私自身のことを考えて見ても、自分の中からその原因を取り除くことより、自分の身に起こった痛みだけに心が奪われていたようです。このときのゼデキヤが、そうでした。思いがけなく王とされ、有頂天になったのも束の間、なぜ王になどなったのかと、王になったこと自体を呪ったのではないでしょうか。主戦派の人たちからバカにされ、「王といえども、あなたがたに逆らっては何もすることはできない」(38:5)とまで、無力感を味わっています。彼は孤独でした。しかし、実は、神さまが彼を見つめておられたのです。


V ただ恵みによる

 公表されたエレミヤのメッセージは、ゼデキヤ王の使者に託されたようですが、先に挙げた3節のように、5-6節にも「おののきの声をわれわれは聞いた。恐怖があって平安はない。男が子を産めるか、さあ、尋ねてみよ。わたしが見るのに、なぜ、男がみな、産婦のように腰に手を当てているのか。なぜ、みなの顔が青く変わっているのか」とあり、「その日になると、―万軍の主の御告げ― わたしは彼らの首のくびきを砕き、彼らのなわめを解く。他国人は二度と彼らを奴隷にしない」(8)、「見よ。わたしはヤコブの天幕の捕らわれ人を帰らせ、その住まいをあわれもう。町はその廃墟の上に建て直され、宮殿は、その定められている所に建つ。彼らの中から、感謝と、喜び笑う声がわき出る。……」(18-22)と繰り返されています。31章は次回取り上げますが、30-31章は、神さまのあわれみに満ちたことばで溢れています。先に、イスラエルは、自分たちに原因があって、神さまからその実を刈り取らされると言いました。エレミヤ書全体を通して、エレミヤのメッセージは、ただその一点につきると言えるでしょう。しかし、そのメッセージは一度も聞かれずに、預言者とユダの民は、ずっと平行線を辿って来ました。それなのに、王国滅亡という事態を目の当たりにし、彼らは青くなっています。神さまと人間との関係は、ずっとそのようではなかったでしょうか。それは現代人も同じです。いくら青くなって右往左往しても、事態は変わりません。「主の燃える怒りは……、終わりの日に、あなたがたはそれを悟ろう」(24)とあることばは、暗示的です。

 しかし、神さまの恵みだけが、人の痛みを癒やすのです。たとえ、私たちが不従順であっても、神さまはその恵みを、一方的に行使して下さるのです。パウロのことばを聞いて下さい。「あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、―あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです」(エペソ2:4-5)この恵みはイエスさまの十字架によると、もうお分かり頂けるでしょう。イエスさまによる以外に、救いはないのです。この時点でエレミヤには、バビロンからの帰還しか分からなかったでしょうが、この希望のメッセージは、イエスさまを指し示していたと聞かなければなりません。現代の私たちにも、聞くべき価値あるものとして。


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