預言者の系譜

エレミヤ 44
信仰による呼応が

エレミヤ 23:1−8
ルカ 2:13−14
T 注意を払われるお方

 21:1から23:8まではユダの王たちに対するメッセージで、エホアハズ、エホヤキム、エホヤキンと三人の王たちに非常に厳しいことばが投げかけられ、「この家(王家)は必ず廃墟となる」(22:5)と宣告されています。しかし、それは今まで何度も語って来たことですから、今朝は、その締めくくりとも言える、23:1-8だけを取り上げましょう。ゼデキヤ時代のことです。他の王たちの名前が丁寧に並べられているのとは対照的に、その名前は伏せられたままです。エレミヤとバルクは、この記事の中で、ゼデキヤを特別な扱いにしようとしているようです。

 「ああ、わたしの牧場の群れを滅ぼし散らす牧者たち。―主の御告げ― それゆえ、イスラエルの神、主は、この民を牧する牧者たちについて、こう仰せられる。『あなたがたはわたしの群れを散らし、これを追い散らして顧みなかった。見よ。わたしは、あなたがたの悪い行ないを罰する。―主の御告げ―』」(1-2) 「牧者たち」(複数)は、上記の王たちを総括していると考えられていますが、恐らくこれは、ゼデキヤ時代の指導者たちに向けられているのでしょう。「顧みなかった」は、「注意を払わなかった」という意味です。ここを岩波訳は、「報いなかった」と訳し、更に「罰する」も「報いる」としていますが、それは、原典(マソラ本文)で同じ言葉が使われているからです。「あなたがたの悪い行ないに注意を払った」は、日本語としてはあまりにも悪文ですから、「報いた」を用いたのでしょう。原語的には、「注意を払わなかった」「注意を払った」と見ていいところで、行政的に目を行き届かせるということより、むしろ、「民が神さまのことばを聞くことに注意を払わなかった」、と言っているようです。「神さまのことばを聞く」、それは、牧者たちの、何にも勝る重要な任務でした。彼らがその任務を放棄したため、民が散らされると言われるのです。ゼデキヤ王と指導者たちへの神さまの怒りが、爆発したかのようです。エレミヤ書の順番が、37-39章など、その記述が後先になるなど混乱していて、23章をエレミヤ書の順番通りに読むと浮かび上がって来ないのですが、すでに39章までのゼデキヤ王や主戦派を取り上げてきましたので、その辺りのことは理解して頂けるのではと思います。

 そのことを前提に申し上げたいのですが、ここを「注意を払った」と聞くなら、指導者たちが出来なかったことを、「神さまがなさる」と聞こえてくるではありませんか。断罪で終わりなのではありません。神さまの裁きには、続きがあります。厳しい裁きのことばは、希望に変わっていくのです。


U 主は私たちの正義

 「しかし、わたしは、わたしの群れの残りの者を、わたしが追い散らしたすべての国から集め、もとの牧場に帰らせる。彼らは多くの子を生んでふえよう。わたしは彼らの上に牧者たちを立て、彼らを牧させる」(3) 「残りの者(民)」とありますが、これは、捕囚の憂き目に遭わなかった人たちだけ指すのではありません。597年に、ゼデキヤ王が囚われた586年に、そして584年に捕囚とされた民すべてを指し、追い散らされたところから戻って来る、すべての人たちが対象になっています。しかし、それだけではなく、まだまだ続く苦難を通して生き残る人たちをも指し、「残りの民」と言われているのです。この言い方は、聖書中、神さまの救いに与る人たちを指す、重要なキイワードになりました。そこでは、神さまの審判が前提になっています。審判を通し、「牧場=神さまのみ国」に招かれる人たちが残りの民とされ、決して多くはありませんが、そこには、イエスさまを信じる人たちも数えられるのです。

 「彼らは二度と恐れることなく、おののくことなく、失われることもない。―主の御告げ― 見よ。その日が来る。―主の御告げ― その日、わたしは、ダビデに一つの正しい若枝を起こす。彼は王となって治め、栄えて、この国に公義と正義を行なう。その日、ユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。その王の名は、『主は私たちの正義』と呼ばれよう」(4-6) 4節が「牧者たち」と複数になっているのは何故なのか。1-2節に、民を誤った方向に導いた牧者たちのことが語られていますので、その対比なのかも知れません。人々を神さまのみ国に導く宣教者たちと考えていいでしょう。その中心に、新しい支配者(単数)が考えられているようです。それがダビデの末、「若枝」に凝縮されているのです。端的に言うなら、これはメシア預言と言われるもので、イエスさまを指し示しています。そして、それが5-6節の中心主題になっているのです。「主は私たちの正義」と呼ばれる王の名、これは、ゼデキヤの名前の意味「ヤハウェは義」でした。しかし、ゼデキヤは、優柔不断で、我が身の安全しか考えず、王としてのユダ王国統治の責任を放棄し、お世辞にも「正義」などと呼ばれる王ではありません。彼は、ダビデ王朝最後の王となりました。22章に、シャルム(エホアハズ)、エホヤキム、エコヌヤ(エホヤキン)と王の名前が列記されていますが、ゼデキヤの名前だけが省かれていて、その任務は新しい王に引き継がれると、このメッセージは語っているのです。新しい王は、列記された王たちとゼデキヤが持ち合わせなかった義、公義と正義を行使するのだと。そのとき、「ユダは救われ、イスラエルは安らかに住む」、と言われます。ここに、ユダとイスラエルの統合が語られています。エレミヤは、イスラエルの伝統的契約神学に従ってそれを語ったのでしょうが、ここでは、新しいイスラエルが語られていると聞くべきではないでしょうか。


V 信仰による呼応が

 「主は私たちの正義」と呼ばれる新しい王のことを、もう少し考えてみたいと思います。ゼデキヤという名は、ネブカデネザルによって付けられました。彼の元の名はマタヌヤ(U列王24:17)ですが、ネブカデネザルは、ゼデキヤの時代が、バビロン王の正義として立つことを願ったのかも知れません。ところが、そうはなりませんでした。ユダ王国とダビデ王朝は、徹底的に蹂躙され、滅亡してしまいます。イスラルの歴史に、ピリオッドが打たれたのです。以後、バビロンからの帰還、神殿再建やエルサレムの城壁の再建も行われ、ハスモン王朝の樹立もあって、いかにもイスラエルは存続しているかのように見えますが、そこに見えて来るのは、争いと混乱です。ピリオッド以前と以後は、神さまの救済計画において、はっきり区別されているのです。「主は私たちの正義」と呼ばれる、メシアが待ち望まれるようになったのは、ピリオッド以後の、混乱の中からであると言えるでしょう。エレミヤとバルクがどんなに願っても聞かれなかった主への期待が、このピリオッドを迎え、ようやく姿を現わし始めます。その期待が実現するまでには、まだまだ混乱の何百年かを待たなければなりません。しかし、非常に遅い反応ながら、人々が期待して呼んだ「主は私たちの正義」は、預言者エレミヤの呼びかけへの呼応でした。それは、彼らの信仰告白と言っていいでしょう。そこに、救い主イエスさまを迎えたクリスチャンたちの思いが重なってきます。彼らが呼んだ名前は、はからずも、バビロン王の思惑をはるかに超えた、神さまへの賛美でした。「いと高き所に、栄光が神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように」(ルカ2:14)と高らかに歌い上げた、天の軍勢の賛美が聞こえて来るではありませんか。

 その新しい歌が、繰り返されます。「それゆえ、見よ、このような日が来る。―主の御告げ― その日には、彼らは『イスラエルの子らをエジプトの国から上らせた主は生きておられる』とはもう言わないで、『イスラエルの家のすえを北の国や、彼らの散らされたすべての地方から上らせた主は生きておられる』と言って、自分たちの土地に住むようになる」(7-8) 「エジプトの国から」というのが、これまでのイスラエル伝統の信仰であり、神学でした。祭儀と律法は、その中心であったと言えましょう。それがこの時代に、異邦の神々を取り込んだことにより、もはや、「主は生きておられる」とは言えない状況になり、告白そのものが失われていました。ところが、彼らがしがみついていたダビデ王国は終焉を迎え、信仰の拠り所であったエルサレム神殿は、破壊されてしまいます。それに替わる新しい信仰告白が生まれるのですが、それは、バビロン帰還後すぐにとはいかず、長い模索の時が必要でした。その混乱と模索の時代をくぐり抜けた残りの民の中に、メシア信仰が燃え上がって来るのです。イエスさまご降誕への、備えが始まります。「主は私たちの正義」と呼んだかすかな信仰、その芽生えが、私たちのうちにもと願わされます!


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