預言者の系譜

エレミヤ 42
主の慰めは……

エレミヤ 45:1−5
ピリピ 3:16−21
T バルクへの使信

 今朝のテキスト45章は、「ネリヤの子バルクが、ヨシヤの子ユダの王エホヤキムの第四年に、エレミヤの口述によってこれらのことばを書物に書いたときに、預言者エレミヤが彼に語ったことばはこうである」(1)と始まります。「エホヤキム王の治世第四年(BC605)」と、わざわざ表題がつけられていますが、これは、エレミヤとバルクが出会い、エレミヤの口述でバルクがエレミヤ書を筆記した36章と同じ年です。第一の書物はエホヤキムによって火で焼かれ、その後、もう一度、新しい巻物に神さまのことばが筆記されますが、そこに、「さらにこれと同じような多くのことばもそれに書き加えた」(36:32)とあります。45章はその追記の部分にあたるのですが、なぜか36章とは切り離され、エジプトに着いてからのことのようになっています。これはバルク個人への神さまのことばですが、直接バルクには語られず、預言者エレミヤを通して、神さまからのメッセージとして語られています。なぜそれがここに付記されたのか、考えてみる必要があります。見てみましょう。

 まず、45章が置かれた位置を考えてみたいと思います。44章はエジプトにおけるエレミヤの活動の収録ですが、それは40-43章で、舞台がエジプトに移ったことによります。37-44章は、ユダ王国滅亡の軌跡を辿っており、滅亡したユダ王国から舞台がエジプトに移って行く部分をも含め、エレミヤ書全体の流れを引き継ぎ、エレミヤのメッセージとしては、中心主題に沿ったものと言えるでしょう。そして46章からは、エジプトやモアブ、バビロンなど、周辺諸国へのメッセージが語られます。これは全く別のジャンルですから、エレミヤ書は、45章で終わりと見ていいでしょう。つまり、37-44章に続く最後を、この短い章が飾っているのです。するとこれは、もう追記などという付録ではなく、バルク個人へのメッセージでありながら、個人という枠を超えて現代の私たちにまで語りかけて来る、預言者エレミヤの重要なメッセージと見なければなりません。バルク自身が、そう見ているようです。「預言者エレミヤがバルクに語ったことば」と始まるのは、そうした意味によります。この37-44章、そして45章へとつながる構成は、後代の編集によるものではなく、エレミヤとバルク自身によるものであると考えていいでしょう。短いフレーズながら、それだけの重みがある章のようです。


U 我が心のうちに

 エレミヤは言います。「バルクよ。イスラエルの神、主は、あなたについてこう仰せられる。あなたは言った。『ああ、哀れなこの私。主は私の痛みに悲しみを加えられた。私は嘆きで疲れ果て、いこいもない』」(2-3) このバルクの深い嘆きは、神さまのことばを語っても語っても誰ひとりそれを聞こうとしないと嘆いた、預言者エレミヤの痛みであり、悲しみでした。ユダの人々は、王から民衆まで、聞きたくないと耳を塞ぎ、エレミヤに対し、恨み辛みや憎しみさえもぶつけようとしています。そんなエレミヤの預言活動に、書記バルクも、重要な部分を担いながら加わって来たのです。誰もが神さまの敵になってしまったという預言者エレミヤの痛みと悲しみ、その同じ痛みと悲しみを、バルクもまた共有していたと言えるでしょう。バルクは預言者として召されてはいませんが、きっと優秀な書記だったのでしょう。まだ若く、瑞々しい感性を持っていました。エレミヤより20歳ほど若かったと想像しますが、このとき33歳前後だったでしょうか。その瑞々しい感性が、恐らく、エレミヤの口述により神さまのことばを筆記しながら、神さまのことばと向き合ったのでしょう。しかもバルクは、エレミヤに代わって、筆記したばかりの神さまのメッセージを人々の前で読み上げていますから(36:8,10)、神さまのことばに聞こうとしない人々の頑なさにも向き合い、「なぜ?」と沸き上がった、これは彼の信仰の問題だったのでしょう。それは、預言者と同じ痛みだったと言えるのではないでしょうか。

 これは、かつて、エレミヤが嘆いた告白録にも見られるものです。「ああ、悲しいことだ。私の母が私を産んだので、私は国中の争いの相手、けんかの相手となっている。私は貸したことも、借りたこともないのに、みな、私をのろっている」(15:10)「主よ。あなたが私を惑わしたので、私はあなたに惑わされました。あなたは私をつかみ、私を思いのままにしました。私は一日中、物笑いとなり、みなが私をあざけります。……私は、主のことばを宣べ伝えまい、もう主の名で語るまいと思いましたが、主のことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて、燃えさかる火のようになり、私はうちにしまっておくのは疲れて耐えられません」(20:7-9) この20:9節の強烈な告白は、伝道者に召されて以来、55年間、預言者から私自身に対するエールとして聞き、私の伝道者としての原点のようなものになっていました。恐らく、バルクも、預言者エレミヤと同じところに立たされ、神さまの助けを何度も経験しながら、しかし、その助け、救いがないまま滅んで行こうとする人たちがいると、エレミヤと同じように堂々巡りをしながら、疲れて、哀しくなってしまったのでしょう。エレミヤも、バルクの哀しみを理解していました。エレミヤはそんなバルクのために祈っていたから、神さまは、バルクへの解答を、「主のことば」としてエレミヤに語られたのではないでしょうか。


V 主の慰めは……

 だから神さまはあなたにこう言われると、エレミヤは続けました。「見よ。わたしは自分が建てた物を自分でこわし、わたしが植えた物を自分で引き抜く。この全土をそうする。あなたは、自分のために大きなことを求めるのか。求めるな。見よ。わたしがすべての肉なる者に、わざわいを下すからだ」(4-5) バルクの嘆きは、ある意味、エレミヤがそうだったように、神さまに対する異議申し立てでした。彼は、神さまの前に立たされている自分を感じていました。この国民に対する厳しい神さまの審判は、それを告知したことで、自分が招き寄せたことでもあると。エレミヤもその同じところで苦悩し、神さまの全権に一切を委ねることを学んだのですが、今バルクは、エレミヤと同じ、信仰の試練とでもいうべきところに立たされ、もがいているところだったのでしょう。

 ユダ王国への審判は、神さまの主権のもとで行われる。バルクはそのことを、徹底的に知らなければなりませんでした。エレミヤもそうでしたが、18章でエレミヤが見た「陶器師の仕事」は、まさに神さまの主権を覚えさせる絶好の素材でした。バルクはその辺りのことも筆記していましたから、鮮明な記憶があったのでしょう。筆記した時、それはエレミヤに対するものであると思っていたかも知れませんが、それが、今、自分に向けられています。「わたしは自分が建てた物を自分でこわし、わたしが植えた物を自分で引き抜く」とは、バルクにそのことを覚えて欲しいと願う、神さまとエレミヤの思いがぎっしりと詰まったことばに聞こえます。「自分のことを求めるな」と言われます。バルクが陥った落とし穴は、そこでした。バルクばかりではありません。エレミヤもそうでしたし、現代に至るまですべての信仰者の、それは共通の問題ではないでしょうか。もし、神さまの主権に異議を唱えるなら、そこには、私たちの信仰の問題が生じます。バルクが陥った問題も同じでした。

 彼には悩む時間が必要でした。―主の御告げ―という定式文が、奇妙なところに入っています。「しかし……」以下のところは、少し時間をおいて語られたのでしょう。悩み抜いて、そして、エレミヤがそうしたように、バルクもまた、神さまの主権の前に沈黙しました。そして、その主権の前にひれ伏したバルクに、「わたしは、あなたの行くどんな所ででも、あなたのいのちを分捕り物としてあなたに与える」との約束が与えられました。「あなたの行くどんな所ででも……」それはエレミヤが聞いた、「あなたを青銅の城壁とする」(1:18、15:20)と同じ意味です。神さまがバルクとともにいてくださる。それはバルクにとって、十分すぎるほどの解答ではなかったでしょうか。「分捕り物」から連想される戦いと危険は、きっと、現代の私たちにもついてまわるのでしょう。そんな中でも、主は守ると言われます。それは、エレミヤとバルク、そして私たちへの約束、慰めであると聞こえて来ます。「私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます」(ピリピ3:20) 天の国籍、それは、主が私たちを、ご自分のものとしてご自分の場所に招いてくださることを意味します。招かれている者らしく、歩みたいではありませんか。


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