預言者の系譜
エレミヤ 4
福音の予徴が

エレミヤ書 3:6−18
ヘブル書 10:12−18
T 花嫁への痛みが

 エレミヤはまた、神さまからのメッセージを聞きました。3章の 6節以下、11節までです。散文調ですから、エレミヤはこれを新しいメッセージと考えたようです。冒頭を「ヨシヤ王の時代に、主は私に仰せられた」という定式句で始めたのは、エレミヤのそんな意識を指しているようです。彼が聞いた神さまのメッセージは、南王国だけでなく、すでに分裂し、アッシリヤ軍によって滅亡した北イスラエル王国までも視野に入れています。失われた王国を含めているのは、その地にまだ、自分たちを神さまの選びの民と意識する者たちが残っているからであり、イスラエルは、南王国と北王国の二つをもって神さまの御国であるという、彼の意識があるからでしょう。そして、北王国滅亡の図式は、南王国にも当てはまっていくのです。聞いていきましょう。

 「あなたは、背信の女イスラエルが行なったことを見たか。彼女はすべての高い山の上、すべての茂った木の下に行って、そこで姦淫を行なった」(6) 「高い山」「茂った木」は、いづれも異教の神々を崇める祭壇であり、祭儀です。北王国はそんな神々に走ってしまいました。北王国を「背信の女」になぞらえるのは、その背景に、神さまとイスラエルの間に交わされた契約という思想があるからです。それはエレミヤの基本神学でした。その契約思想に、神さまとイスラエルの婚姻関係が想定されています。2章の「花嫁の時代」という設定もそのためです。それは素晴らしい祝福でしたが、イスラエルはすぐに、異教の神々を自分たちの神とする裏切り行為に走ってしまいました。姦淫です。2:25に「私は他国の男たちが好きです」とありますが、ホセアの場合と同じなのでしょう。姦淫が悪いのは、不道徳であるという意識からですが、それはもっと根本的な、神さまとの契約破棄につながる、「罪」であると理解しなければなりません。ですから姦淫は、婚姻関係の一方の契約者である、神さまから告発されるのです。神さまが告発されるのは、ご自身が当事者だからです。

 「わたしは、彼女がすべてこれらのことをしたあとで、わたしに帰って来るだろうと思ったのに、帰らなかった。また裏切る女、妹のユダもこれを見た。背信の女イスラエルは、姦淫したというその理由で、わたしが離婚状を渡してこれを追い出したのに、裏切る女、妹のユダは恐れもせず、自分も行って、淫行を行なったのをわたしは見た。彼女は、自分の淫行を軽く見て、国を汚し、石や木と姦通した」(7-9) 北王国は「背信の女」、南王国は「裏切る女」と使い分けていますが、「背信」がたんなる離反を意味するのに対し、「裏切り」は秘められた不誠実を指していて、この新しいメッセージの対象は、あくまでもユダ王国なのです。もっとも、この「背信」と「裏切り」は22節に並べて語られていますので(邦訳にはない)、一層全イスラエルの罪が強調されているように思われます。これらのことばを選んだのが、神さまであったのか、エレミヤであったのか分かりませんが、いづれにしても、全イスラエルは厳しい裁きに直面することになります。


U 重ねられた偽りに

 「このようなことをしたが、裏切る女、妹のユダは、心を尽くしてわたしに帰らず、ただ偽っていたにすぎなかった。ー主の御告げー。背信の女イスラエルは、裏切る女ユダよりも正しかった」(10-11)

 「裏切り」は、秘められた不誠実を指すと言いました。秘められたとは、二枚舌的ユダの、虚偽を指しています。ユダの聖所はもちろんエルサレム神殿ですが、そこはヤーヴェの聖所であり、エルサレム自体が、ヤーヴェ祭儀に彩られた聖なる都でした。ユダは、このエルサレムと神殿をもって、自分たちは北王国よりもより神さまに近いと、優越意識を持っていたと言えましょう。だから北王国は滅ぼされたのだという、彼らのゆえなき優越感には、自分たちは北王国のようには滅びないという、根拠のない確信が見え隠れしています。そしてユダは、その上に別のものを打ち立てたのです。あたかもヤーヴェを礼拝するかのように、そこに別の「主」を盛り込んだのです。その「主」とは、バアルであり(2:23)、町の数ほどいると言われた、カナンの神々(2:28)でした。それが彼らの不誠実でなくて何でしょう。しかもその不誠実は、秘められているのです。しかしその秘め事は、神さまに知られないではいませんでした。その不誠実は、エレミヤの目にもはっきりと映っていました。破壊され、滅亡した北王国のほうがユダよりも正しかったと、そこには、彼自身もその一員だったユダに対する、エレミヤの怒りが込められているように感じられてなりません。ですから彼は、主のことばを理解しました。「背信の女イスラエル。帰れ。ー主の御告げー わたしはあなたがたをしからない。わたしは恵み深いからだ。ー主の御告げー わたしは、いつまでも怒ってはいない」(12)滅亡したとはいえ、北王国は神さまの民だったのです。それは今も変わりません。このことばの背景には、恐らく、残りの民がそこにもいるとの、前提があるのではないでしょうか。北王国の残りの民は、それを聞かなければならなかったのです。ですから次のことばは、実に生き生きと語りかけられています。「ただ、あなたは自分の咎を知れ。あなたは自分の神、主にそむいて、すべての茂った木の下で、他国の男とかってなまねをし、わたしの声を聞き入れなかった。ー主の御告げー」(13) これはユダへの警告でもありました。しかし、ユダは頑固に、これを自分たちに向けられたものとは聞きませんでした。


V 福音の予徴が

 「背信の子らよ。帰れ。ー主の御告げー わたしがあなたがたの夫になるからだ。わたしはあなたがたを、町からひとり、氏族からふたり選び取り、シオンに連れて行こう。また、あなたがたに、わたしの心にかなった牧者たちを与える。彼らは知識と分別をもってあなたがたを育てよう。その日、あなたがたが国中にふえて多くなるとき、ー主の御告げー 彼らはもう、主の契約の箱について何も言わず、心にも留めず、思い出しもせず、調べもせず、再び作ろうともしない。そのとき、エルサレムは『主の御座』と呼ばれ、万国の民はこの御座、主の名のあるエルサレムに集められ、二度と彼らは悪いかたくなな心のままに歩むことはない。その日、ユダの家はイスラエルの家といっしょになり、彼らはともどもに、北の国から、わたしが彼らの先祖に継がせた国に帰って来る」(14-18)

 この箇所は、後世のものであろうという見解があります。内容が、捕囚期以後を指しているからです。しかし、エレミヤが神さまのことばを語っているなら、それは過去も現在も未来も、時間と空間を超えているのは当然で、要は、何を中心としているかが聞かれなければなりません。「契約の箱」が問題にされています。これは神さまから与えられた十戒を刻んだ石の板が納められた箱のことですが、奇妙なことに、ソロモンの神殿に安置されたT列王記8:6以降、それに関する記事は全くないのです。恐らく南北両王国の間で、エルサレムかゲジリム山かというその安置場所の問題や、それは失われているのではないかという議論もあったと思われますが、そんな議論も必要なくなるというのが、このところの宣言です。彼らが最も大切にして来た契約の箱も、些細なこと、無用のことになる。つまり、神さまの選びの民、イスラエル民族にとって、彼らが何よりも大切にして来た祭儀宗教、律法を中心とする契約神学そのものが、新しい信仰形態に席を譲ることになると聞いていいのではないでしょうか。両王国を含む全イスラエルは、ヤーヴェへの祭儀と律法を大切にして来ましたが、実際には、祭儀から他の神々への崇拝が生まれ、律法からは「規則主義信仰」とでもいうべき、信仰の動脈硬化が生まれていました。新しい神学も神さまとの契約に基づいたものに違いありませんが、それは北王国が消滅したように、ユダもまた滅びなければならないという、バビロンによる滅亡が前提にされた、捕囚からの帰還という契約なのです。すると、捕囚と捕囚からの帰還というエレミヤの中心メッセージも、それはまだ隠されていますが、その先があるという、枠の広がりが暗示されているではありませんか。ここに、すでに滅亡した北王国を加えているのは、神さまが計画された一連の救済の出来事は、エレミヤの時代から現代の私たちにまで続くものであると、聞かなければならないでしょう。その新しい約束は、あたかも罪の悔い改めに基づく、福音のようでした。ここに語られた神さまのことばは、イエスさまの福音の予徴と言えるのではないでしょうか。



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