預言者の系譜

エレミヤ 37
神もし我らの味方ならば(2)

エレミヤ 38:1−28
ロマ   8:31−39
T 死刑執行と救出と

 先週の37章は、「エレミヤは監視の庭にとどまっていた」(21)で終わっていました。38章は、その続きです。庭とありますが、これは、王宮敷地内の一角を獄舎にしていたので、その名が付けられただけです。エレミヤはその獄舎に拘留されていました。これでゼデキヤは、エレミヤを地下牢から助け出したという、主戦派の非難を交わしたのです。勿論、監視付きでしたが、さほど厳しい監視ではなかったようで、出入り自由だったのかも知れません。エレミヤは、いつものように「すべての民に」語っています(1)。「この町にとどまる者は、剣とききんと疫病で死ぬが、カルデヤ人のところに出て行く者は生きる。……」(2-3)このメッセージを、主戦派の人たちが聞きました。彼らは、囚人がまだそんなことを言っているのかと、かんかんに腹を立て、王にねじ込みます。「どうぞ、あの男を殺してください。彼はこんなことばをみなに語り、この町に残っている戦士や、民全体の士気をくじいているからです。あの男は、この民のために平安を求めず、かえってわざわいを求めているからです」(4)この人たちは、主戦派の主要メンバーだったのでしょうか。気弱な王は、逆らうことが出来ません。「今、彼はあなたがたの手の中にある。王は、あなたがたに逆らっては何もできない」と、王は自らを守ります。(5)そこで彼らはエレミヤを、「王子マルキヤの穴」に投げ込みました。ここで剣を使わなかったのは、人目に触れては厄介という、心配のためと思われます。エレミヤを真の預言者と見ていた、民衆の目を恐れたのでしょう。井戸の跡だったのか、穴の底には泥が溜まっていて、「エレミヤは泥の中に沈んだ」(6)とあります。それは、密かに企まれた処刑と言っていいでしょう。王の命令で、エレミヤにある程度の自由を認めていた衛兵たちも、もはや、死刑執行人でしかありません。

 ところが、その様子を見ていたエチオピア人の宦官・エベテ・メレクが、王に告げます。「あの人たちが預言者エレミヤにしたことは、みな悪いことばかりです。彼らはあの方を穴に投げ込みました。もう町にパンはありませんので、あの方は飢え死にするでしょう」(9)パンのことがなくても、穴の中に沈んだエレミヤのいのちは、風前の灯火です。このとき王は、ベニヤミンの門にいました(7)。そこは激戦区でしたから、主戦派の要請があって、視察に出向いていたのかも知れません。


U どちらの道を

 預言者エレミヤを穴から救出するように命じられ、エチオピア人の宦官は、王がつけてくれた30人と共に、エレミヤを助け出します(10-13)。「命じた」とありますが、ここから、王としての権威などすでに吹き飛んでいるのに、なおもその地位にしがみつこうとする、王の惨めな有様が見えるようです。王は、宦官の勇気に触発されながらも、なお主戦派の目を恐れ、助け出したエレミヤを解放しようともせず、監視の庭に拘束したままです。何日か経って、ゼデキヤはエレミヤを呼び、またもやひそかに尋ねました。これで三回目です(一回目・37:3-、二回目・37:17-)。「私はあなたに一言尋ねる。私に何事も隠してはならない」(14)王は、体面を保つことに必死です。偉そうなこの言い方は、哀れな懇願にも聞こえます。しかし、エレミヤは慎重です。「もし私があなたに告げれば、あなたは必ず、私を殺すではありませんか。私があなたに忠告しても、あなたは私の言うことを聞きません」(15)そう言われて王は、エレミヤに懸命に誓います。「私たちのこのいのちを造られた主は生きておられる。私はあなたを決して殺さない。また、あなたのいのちをねらう人々の手に、あなたを渡すことも絶対にしない」(16)そこは神殿第三の入り口にある部屋ですが、そこには、密かに会ったというニュアンスが込められているようです。もはや王宮も、王にとって安全ではなかったのでしょうか。王のこの誓いは、面子のためだけであって、ここに第三者が加わっていたら、王は決してこんな誓いを口にしなかっただろうと、バルクの皮肉が伝わって来ます。しかし、進退窮まったゼデキヤは、預言者の前で、誠実でなければならないと思ったのでしょう。エレミヤも誠実に答えました。

 「イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。『もし、あなたがバビロンの王の首長たちに降伏するなら、あなたのいのちは助かります。この町も火で焼かれず、あなたも、あなたの家族も生きのびる。あなたがバビロンの王の首長たちに降伏しないなら、この町はカルデヤ人の手に渡され、彼らはこれを火で焼き、あなたも彼らの手からのがれることができない』」(17-18)神さまのことを、「イスラエルの神、万軍の主」とフルネームで呼んだのは、これは主の宣言であるとの思いが込められていたからでしょう。いのちの道、それとも、死の道を? この問いかけは、エレミヤの誠実でしたが、それは現代の私たちにも問われている、と聞かなければなりません。


V 神もし我らの味方ならば

 しかし、王はなおも優柔不断で、「私はカルデヤ人に投降したユダヤ人たちを恐れる。カルデヤ人が私を彼らの手に渡し、彼らが私をなぶりものにするかもしれない」(19)と言いつのります。王らしくないばかりか、一人の男、人間として、土壇場でこれほどまでの姿をさらすのは、たとえ昔の、ユダヤという別世界のことであっても、見たくないという思いに駆られます。しかし今は、戦いの真っ最中で、何が起こっても不思議ではないのです。これは、王の精一杯の本音であると聞こえてきます。「彼らはあなたを渡しません。どうぞ、主の声、私があなたに語っていることに聞き従ってください。そうすれば、あなたはしあわせになり、いのちは助かるのです」(20)と、ここでもエレミヤは、王の不安を本気で受け止めて、答えました。しかし、ここで、もう一つのメッセージが語られます。「しかし、もしあなたが降伏するのを拒むなら、これが、主の私に示されたみことばです。『見よ。ユダの王の家に残された女たちはみな、バビロンの王の首長(将軍)たちのところに引き出される。聞け。彼女らは言う。―あなたの親友たちが、あなたをそそのかし、あなたに勝った。彼らはあなたの足を泥の中に沈ませ、背を向けてしまった。― あなたの妻たちや、子どもたちはみな、カルデヤ人のところに引き出され、あなたも彼らの手からのがれることができずに、バビロンの王の手に捕らえられ、この町も火で焼かれる』」(21-23)これは、エレミヤに示された幻のようです。泥の中に沈むとは、エレミヤの体験を踏まえた、これから始まろうとする、王と王の親友(高官)たち(そして、女たち)の、過酷な運命を言っているのでしょう。自分たちはリブナの司令部にいるネブカデネザルのもとに送られると、彼女たちは歌うのです。詩の形式になっていますが、その歌は、彼女たちが宮殿で見た光景だったに違いありません。王たちはここを逃げ出そうとしている。彼らが戦いを引き起こしたのに・・・、その責任を負おうとはせず、自分たちだけは助かりたいと、そんな彼ら、王・高官たちの人間性を見抜いての証言だったのではないでしょうか。弱い女たちの証言だけに、それは、戦いに巻き込まれ、犠牲にされようとしていることへの、怨嗟の声とも聞こえます。そして、そのような声は、現代にも充満しているのではないでしょうか。しかし、身勝手な王たちの耳には、届いていきません。私たちの耳には、どうでしょうか。

 24節以下は、エレミヤが戦争終結まで監視の庭に拘留される事情を説明する、バルクの追加記事と思われますが、それは、神さまのことばが実現する39章で、エレミヤが証人としてそれを見届けることになる、という記事への布石なのでしょう。主戦派は、再び監視の庭でエレミヤを見つけましたが、危害を加えようとはしていません。「彼らは黙ってしまった」(27)と、それはその暗示と思われます。神さまのメッセージを語った者が、そのメッセージ成就の証人となるために、神さまがエレミヤの青銅の城壁となってくださったと、これは、前にも増して、はっきりして来るではありませんか。エレミヤとバルクの苦難は、これで終わりではありません。やがてエジプトに連れて行かれ、しかし、そこでも、預言者として神さまのことばに仕えるのです。先週に続いて、もう一度パウロのことばに耳を傾けて頂きたいと思います。「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。……神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです」(ロマ8:31-39)神もし我らの味方ならば、誰か我らに敵せんや……、そんな状況に向かいつつある現代、私たちも、エレミヤとバルクの生き方に倣いたいではありませんか。


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