預言者の系譜

エレミヤ 35
弱者に寄り添う(2)

エレミヤ 34:1−22
マタイ   6:25−34
T 王の末路は

 ゼデキヤ王に関わる記事の中で、この章は「奴隷解放とその取り消し」という、極めて特殊な内容となっています。バビロン軍によるエルサレム包囲戦の最中のことです。見ていきましょう。

 「バビロンの王ネブカデネザルとその全軍勢、および彼の支配下にある地のすべての王国とすべての国々の民が、エルサレムとそのすべての町々を攻めていたとき」(1)とありますから、これは、ユダ王国に助かる望みがなくなった、その時点で語られたメッセージです。「見よ。わたしはこの町をバビロンの王の手に渡す。彼はこれを火で焼こう。あなたはその手からのがれることができない。あなたは必ず捕らえられて、彼の手に渡されるからだ。あなたの目はバビロンの王の目を見、彼の口はあなたの口と語り、あなたはバビロンへ行く」(2-3)「あなたは剣で死ぬことはない。あなたは安らかに死んで、人々は、あなたの先祖たち、あなたの先にいた王たちのために香をたいたように、あなたのためにも香をたき、ああ主君よと言ってあなたをいたむ。このことを語るのはわたしだ」(4-5)

 エルサレムを取り囲むバビロンの大軍を見て、小心者のゼデキヤは、死への恐怖と、人々が王としての自分の死に敬意を払い、悼んでくれるのか、そのことばかりが気になっているようです。「見よ。わたしはあなたがたの前に、いのちの道と死の道を置く。この町にとどまる者は剣とききんと疫病によって死ぬが、あなたがたを囲んでいるカルデヤ人にくだる者は生きる」(21:8-9)と、できるだけ早い時期にバビロンの軍門にくだるように、それがエレミヤのメッセージでした。しかし、捕らわれるなら、死を覚悟しなければならない。これは戦いの原則です。エレミヤは、王のその恐怖を、取り除こうとしているのかも知れません。「あなたは安らかに死んで」とあります。人々が王の死を悼んで「香を焚く」ことも、「ああ主君よと言ってあなたを悼む」ことも、ゼデキヤにとっては慰めだったのでしょう。しかし、結果的に、王の末路はその通りにはなりません。ネブカデネザルによって目をくり抜かれ、盲目となって青銅の足かせに繋がれ、バビロンに引いて行かれ、そこで死にます。揺れ動いた王の心は、結局、主戦派に傾き、バビロンへの反抗の道を選んでしまったからです。


U 審判への打算が

 主戦派の主張と預言者の勧めに揺れ動いたゼデキヤが、主の憐れみを頂くことが出来るかも知れないと、一つのことを思いつきます。或いは、誰かの入れ知恵だったのかも知れませんが。それが、奴隷の解放でした。「ヘブル人である自分の奴隷や女奴隷を自由の身にし、同胞のユダヤ人を奴隷にしないという契約であった。契約に加入したすべての首長、すべての民は、それぞれ、自分の奴隷を自由の身にして、二度と彼らを奴隷にしないことに同意し、同意してから彼らを去らせた」(9-10)とあります。奴隷と女奴隷を繰り返し並べているのは、奴隷は階層最下位の者であるというより、人間としては見られず、牛やロバと同等の扱いを受けていて、女奴隷はそれよりさらに下とされていたからでしょう。それが当時の、世界の風潮でした。あと何百年か経つと、解放奴隷ということばが使われているように、国家の重要な職にまで上り詰める者が出て来るのですが、一部の例外を除き、まだそんな風潮は生まれていません。「そんな者たちに憐れみをかけてやるべきではないか」と、律法の中で繰り返される神さまのことばが、長続きはしなかったとしても、実行されていたイスラエルの姿勢は、当時の世界から見ると、驚嘆に価します。

 「契約」とありますが、それは、この奴隷が貧しさのために借金をした、「債務奴隷」だったからです。彼らを解放するには、その借金が肩代わりされなければなりませんが、そのことには触れられていませんので、ここでは、ヨベルの年の解放(レビ記25章)が考えられているのでしょう。「ヨベル」は雄羊の角を意味し、その年が来たことを角笛を吹き鳴らして知らせたことから、そう呼ばれるようになりました。こうあります。「わたしが、あなたがたの先祖をエジプトの国、奴隷の家から連れ出した日に、わたしは彼らと契約を結んで言った。7年の終わりには、各自、自分のところに売られて来た同胞のヘブル人を去らせなければならない。6年の間、あなたに仕えさせ、その後、あなたは彼を自由の身にせよ」(13-14) ここに「すべての首長、すべての民」とありますが、実際のところ、解放されたのは、宮殿にいた少数の高官たちの奴隷だったと思われます。しかし、王と彼らが取り交わした契約は、王の私法的契約ではありますが、ヨベルの年が念頭に置かれていることは確かでしょうから、その契約の中心は、神さまということになります。ところが、イスラエルでこれが行われたのはほんの数回?にすぎず、神さまが定められた事柄であるにもかかわらず、形骸化していました。その長く行われなかったヨベルの年の奴隷解放を、今、こんなにせっぱ詰まった中で行なったのは、ゼデキヤ(と一部の貴族たち)に、そんな姿勢(悔い改め)を示すことによって、神さまの怒りを和らげることが出来るかも知れないという、淡い思いがあったからではないかと思ってしまいます。ゼデキヤの打算が、透けて見えるではありませんか。それはもはや、「神さまとの契約」というイスラエル伝統の様式から、著しく離れたものと言わざるを得ません。事実、彼は、この契約をたちまちのうちに撤回します。「あなたがたのところから退却したバビロン軍」(21)とあるのは、エジプト軍が救援に駆けつけて、バビロン軍が一時的にエルサレムの包囲を解いたからです。ですからこれは、心底神さまの意に適うようにとの意図からではなく、ただ窮地を乗り切るための、便宜的に思いついた「奴隷解放」にすぎません。ゼデキヤ王だけでなく、奴隷所持者の貴族たちは、自分たちがエルサレムから逃げ出すことを考え、奴隷を解放している場合などではないと考えたのでしょうか。


V 弱者に寄り添う

 バルクはこれを、重く見たのでしょう。「彼らは、そのあとで心を翻した。そして、いったん自由の身にした奴隷や女奴隷を連れ戻して、彼らを奴隷や女奴隷として使役した」(11)「あなたがたは心を翻して、わたしの名を汚し、いったん自由の身にした奴隷や女奴隷をかってに連れ戻し、彼らをあなたがたの奴隷や女奴隷として使役した」(16)と、二度も繰り返しています。神さまがそれを咎めました。「あなたがたはわたしに聞き従わず、各自、自分の同胞や隣人に開放を告げなかったので、見よ。わたしはあなたがたに―主の御告げ― 剣と疫病とききんの解放を宣言する。わたしは、あなたがたを地のすべての王国のおののきとする」(17)神さまもエレミヤもバルクも、かんかんに怒っているのです。「わたしの前で結んだ契約のことばを守らず、……」(18-20、21-23)と、ここで、オリエント、ギリシャ、ローマ辺りでよく知られていたそうですが、契約締結時に執行された古い儀式(創世記15:17参照)に触れ、契約を破った者たちが、厳しい刑罰に遭うと語られています。虐げられる奴隷たち、社会の底辺に苦しむ貧しい人たちの悲しみもさることながら、「この民はわたしのものなのに」という、神さまの悲しく口惜しい思いが伝わって来るではありませんか。エレミヤとバルクの思いが、そこに重ね合わされているのでしょう。

 先週、21 章から、弱者に寄り添うのが預言者、王、祭司といった神さまに立てられた者たちの、重要な務めであると触れましたが、バルクはそれを、自分の信仰のことがらであると受け止めました。貧しく、弱い者に優しい目を注ぐ。それはイエスさまの目でもありました。しかし、もう一歩踏み込んで、しばしばイエスさまを信じる私たちは、自分を弱者の一段上に見てはいないだろうかということです。それは断じて、あってはならないことでしょう。なぜなら、私たち自身が弱者としてイエスさまのあわれみを頂いたのですから……。「自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりも大切なもの、からだは着物より大切なものではありませんか。空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。……だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」(マタイ6:25-34)とイエスさまは言われました。この祝福を、私たち自身に向けられたものとして、覚えたいではありませんか。


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