預言者の系譜

エレミヤ 32
心を尽くして

エレミヤ 29:1−32
マタイ   7:7−14
T 主が見ておられるところで

 29章は、エレミヤがバビロンの捕囚の民に書き送った二通(4-23、25-32)の手紙です。1-3節に、ゼデキヤがバビロン王に使者を遣わしたとき(594年?)、その使者に託したものであるとの説明があります。今、主戦派がバビロンに反抗しようとしていますが、ゼデキヤは、その釈明のためにバビロンに使者を送ったのでしょうか。捕囚となった人たちの動揺を抑えるため、王はエレミヤの手紙(第一)を託しました。第二の手紙(25-32)は、それを読んだシェマヤが主戦派に送った手紙(25-28)への反論で、エレミヤがシェマヤに書き送ったものです。編集上の粗雑さが目立ちますが。

 まず、第一の手紙(4-23)からです。「エルサレムからバビロンへわたしが引いて行かせたすべての捕囚の民に。家を建てて住みつき、畑を作って、その実を食べよ。妻をめとって、息子、娘を生み、あなたがたの息子には妻をめとり、娘には夫を与えて、息子、娘を産ませ、そこでふえよ。減ってはならない。わたしがあなたがたを引いて行ったその町の繁栄を求め、そのために主に祈れ。そこの繁栄は、あなたがたの繁栄になるのだから」(4-7)ここに、「イスラエルの神、万軍の主はこう仰せられる」(4)とあります。この章で何回も用いられていることばですが、これは神さまのフルネームであり、捕囚の民に向かい、そのフルネームで読み上げられた宣言なのです。彼らは神さまのそのお名前を、エルサレム神殿の祭儀で聞き慣れていました。それは、遠い外国の地で、外国の神々に囲まれながら、厳しい労働を続ける彼らに浴びせられるあざけりの中で、何にも勝る励ましでした。さらにこれは、エレミヤとバルクの、神さまへの絶対的信頼を示しており、神さまのことばは必ず成就するという、彼らの確信だったのでしょう。ヤハウェは、バビロンの神々に勝るお方なのです。彼らは、異教の地に置かれた今、一層ヤハウェへの信仰を守り続け、その力と恵みのもとに歩むように、と勧められています。祈れとあり、働いて、結婚し、息子や娘たちをもうけ、繁栄しなさいと言われます。そのような歩みを二代三代続けよと言われるのは、そうした地道な歩みは、主に支えられることよって初めて可能であり、信仰の歩みとはそういうものなのだと、これがエレミヤの第一の勧めです。異教の地バビロンにおいても、あなたがたの誠実な歩みは主に見られていると、それがエレミヤのメッセージだったのでしょう。バビロンの繁栄はあなたがたの繁栄であり、それは、主の助け、祝福があってのことだと、彼らは聞かなければなりませんでした。


U 主のご計画は?

 「家を建てて住みつき、畑を作って、その実を食べよ。妻をめとって、息子、娘を生み……」(5-7)と、遠く離れたバビロンにあっても、しっかりと大地に足をつけて歩むよう勧めたエレミヤは、捕囚の民に、神さまからのもう一つの「幸いな約束」を告げます。「バビロンに70年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。―主の御告げ― それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。わたしはあなたがたに見つけられる。―主の御告げ― わたしは、あなたがたの捕らわれ人を帰らせ、わたしがあなたがたを追い散らした先のすべての国々と、すべての場所から、あなたがたを集める。―主の御告げ― わたしはあなたがたを引いて行った先から、あなたがたをもとの所へ帰らせる」(10-14)

 「バビロンに70年の満ちるころ」は、25章で「バビロン王が三代続いたときに」と触れましたが、その通りバビロンは、まるで神さまの手となって、神さまのことばを聞かなかった者たちを滅ぼすためだけに出現したかのように、わずか60数年で消えていきます。しかし捕囚の民は、夢にまで見た恋しい国に帰って来るのです。そして、それが神さまの、捕囚の民に平安と希望を与える計画であると言われるのです。繁栄と帰還、それは決して別々のことではありません。それは、ご自分が依然、彼らの神であるという、アブラハム以来の契約が、ユダ王国の滅亡によっても破棄されることなく続くという宣言であり、これまで以上に彼らの神でありたいという、神さまの強い願いが溢れているように感じられます。繁栄も帰還も神さまの救いのご計画でした。


V 心を尽くして

 しかし、二通の手紙には、祝福だけでなく、厳しい警告も語られています。その警告の部分、第一の手紙の順番は、恐らく、15、8-9、21-23でしょう。16-20節は、後代の付加と見られるので省きます。まとめると、こうです。「あなたがたは、『主は私たちのために、バビロンでも預言者を起こされた』と言っているが、あなたがたのうちにいる、預言者たちや、占い師たちにごまかされるな。あなたがたが夢を見させている、あなたがたの夢見る者の言うことを聞くな。なぜなら、彼らはわたしの名を使って偽りをあなたがたに預言したのであって、わたしが彼らを遣わしたのではないからだ。イスラエルの神、万軍の主は、わたしの名によってあなたがたに偽りを預言している者であるコラヤの子アハブと、マナセヤの子ゼデキヤについて、こう仰せられる。見よ。わたしは彼らを、バビロンの王ネブカデネザルの手に渡す。彼はあなたがたの目の前で、彼らを撃ち殺す。バビロンにいるユダの捕囚の民はみな、のろうときに彼らの名を使い、『主がおまえをバビロンの王が火で焼いたゼデキヤやアハブのようにされるように』と言うようになる。それは、彼らがイスラエルのうちで、恥ずべきことを行ない、隣人の妻たちと姦通し、わたしの命じもしなかった偽りのことばをわたしの名によって語ったからである。わたしはそれを知っており、その証人である」

 そして、第二の手紙(25-32)は、捕囚の民の中にいるシェマヤが、エルサレムの祭司たちに、〈あなたたちは、捕囚の民に一生懸命に働けという手紙を送ったエレミヤを放任している。彼をなぜそのままにしておくのか〉という手紙を書き、それを聞いたエレミヤが、シェマヤ宛てにこの手紙を書き送ったのです。その内容は、シェマヤが偽りの預言をして捕囚の民を惑わしたので、神さまは彼とその子孫とを罰する、というものでした。

 23章から続いた偽預言者たちとの戦いが、持ち越されています。アハブ、ゼデキヤ、シェマヤ、28章のハナヌヤといった預言者たちが、捕囚の民の中に混じっていました。そのメッセージは、「いくらも経たないうちに(二年後?)エルサレムに帰されるだろうから、バビロンで家を建てたり、バビロニア人のために一生懸命働いたりする必要はない」というものです。きっと捕囚の民は、何の根拠もないその託宣に、しがみついたのではないでしょうか。そんな中で、落ち着いた生活など望むべくもなく、辛い労働に打ち込めるはずもありません。それはすぐに、彼らの信仰に関わってきます。預言者たちは、捕囚の民に、害毒を流し込んだと言っていいでしょう。シェマヤはエレミヤを、「狂って預言をする者」とまで誹謗していますが、それは、神さまを誹謗するに等しいものでした。預言者たちと、その声に聞き従った人たちは、神さまの約束である繁栄と帰還に与ることは出来ません。

 神さまは、彼らの罪を「よく知っている。(だから必ず罰する)」(23)と言われ、また、「あなたがたのために立てている(平安と希望を与える)計画をよく知っている」と言われます。神さま、或いは私たちは、そのどちらを選ぼうとするのでしょうか。残念ながら、帰還したユダヤ人たちは、平安と希望から遠く離れ、まるで偽りの預言に聞き従ったかのようでした。以前にも増して、憎しみや欲望がむき出しになり、策謀と抗争に明け暮れるようになります。しかし、繰り返し神さまに逆らう者たちに、新しい救いの計画が動き始めます。「あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。わたしはあなたがたに見つけられる」とあります。呼びもせず聞きもしない者たちのために、救い主の出現が必要だったのでしょう。「求めなさい。そうすれば与えられる……」(マタイ7:7)とありますが、私たちも、心を尽くして十字架の主に聞きたいではありませんか。