預言者の系譜

エレミヤ 31
神さまの息吹を受けて

エレミヤ 23:23−32
Uテモテ 3:13−17
T 夢見る者は夢を、しかし

 今朝のテキストは、23-33節からです。恐らく、ゼデキヤ王の末期に差し掛かっています。ユダ王国を取り巻く情勢が急激に変化している中で、その変化をかぎ取った預言者たちが、なんとか平和な時代が続くよう、懸命な活動を始めました。しかし、その「預言者たち」の、いったい何が問題の根なのか、エレミヤは、その中心点に触れようとしています。

 「わたしの名によって偽りを預言する預言者たちが、『私は夢を見た。夢を見た』と言ったのを、わたしは聞いた。いつまで偽りの預言が、あの預言者たちの心にあるのだろうか。いつまで欺きの預言が、彼らの心にあるのだろうか。彼らの先祖がバアルのためにわたしの名を忘れたように、彼らはおのおの自分たちの夢を述べ、わたしの民にわたしの名を忘れさせようと、たくらんでいるのだろうか。夢を見る預言者は夢を述べるがよい。しかし、わたしのことばを聞く者は、わたしのことばを忠実に語らなければならない。麦はわらと何のかかわりがあろうか。―主の御告げ―」(25-28)「わたしは聞いた」と始まりますが、何を聞いたのでしょう。預言者たちが「私は夢を見た。夢を見た」と誇らしげに言うのを聞いた、と言われるのです。「夢を見た」と二回繰り返されていますが、それは、預言者たちが自分たちの語る預言を、「神さまからのことばだ」と誇っているからです。ところが神さまは、「わたしの名によって偽りを預言する預言者たち」と言われるのです。

 ここで、彼らが見たと主張する「夢」が、厳しく糾弾されています。預言者たちはこれを、神さまの啓示としていますが、エレミヤはそれに、断固「否」を主張しているのです。「夢」と「神さまのことば」、これについては、慎重な議論が必要でしょう。夢が神さまの啓示だった例は、旧約聖書の中に多く見られます。ヨセフやダニエルがそうです。これまで、夢と神さまのことばの関係が論じられるとき、文書化された神さまのことば・聖書が判断の基準とされて来ました。ダニエルの場合には、旧約聖書正典39巻はまだ未完成でしたが、バビロン捕囚の時代で、すでに聖書の結集が行われていましたから、それは時宜を得た判断と思われます。しかし、いつごろ旧約聖書が唯一の権威ある神さまのことばとされたのか、恐らく、正確には、新約聖書の時代を待たなければならなかったでしょう。つまり、新約聖書の時代を迎えるまで、「夢」と「神さまのことば」との区別は、緩やかだったと思われます。ヨセフなど早い時期のケースでは、その傾向が一層顕著でした。


U 聖書と夢の狭間で

 エレミヤの時代も、ダニエルの時代と同様、聖書の結集はまだでしたが、相当部分、旧約聖書は出来上がっていましたから、「夢」と「聖書」の区別は、ある程度されていたと思われます。ところが、エレミヤ書には、古い伝統的な祭儀が、彼の預言形式の至る所に顔を覗かせていて、神さまの啓示は、必ずしも、文書化された聖書だけでというのではなく、伝統的祭儀が、相当の比重で、神さまの啓示と受け止められていました。そこに「夢」があっても、おかしくはありません。「夢」と「神さまのことば」との区別はどこにあるのか、考えてみなければなりません。

 ある注解者が言うように、恐らく、預言者たちが「夢」を神のことばとして、神の名をもって語るとき、そもそも、その神が誰をさしているのか、それが明白にされなければなりません。「わたしの名をもって」とありますから、神さま・ヤハウェの名をかぶせたのでしょうが、それはここで明確に否定されていますから、彼らが用いた実像は、実は他の神々であったと、疑いようがありません。その点で預言者たちは、根本的な間違いを犯していたのです。これまでにも何度も指摘したことですが、ユダ王国には異教の神々が入り込んでいました。ここに「彼らの先祖がバアルのためにわたしの名を忘れた」とあります。彼らが「神のことば」と考えていたのは、それらいづれかの神々の「託宣」でした。もちろん、そんな力のない神々が夢を見させたのではなく、彼らの淡い希望、悪しき霊が「夢」を語らせたと、エレミヤが糾弾したと見なければなりません。

 創世記3章に、蛇・悪魔がアダムとエバを誘惑する記事がありますが、そのとき、食べてはならないと神さまから言われていたのに食べた木の実は、「善悪を知る知識の木の実」でした。それが人間の最初の「罪」でしたが、それは非常に単純な出来事のように映ります。ところが、聖書を読み、人間の歴史をなぞっていきますと、その単純な罪が、時代を経るにつれ、次第に複雑化していきます。きっと、人間も悪魔も、知識の木の実を食べ続け、悪事に長けて来たのでしょう。神さまのことばと夢の狭間がどんどん狭められ、区別がつかなくなっています。現代は、その極みではないでしょうか。そして、神さまとの距離が、遠くなっているのです。その狭間に、悪魔が立ちはだかっています。まるで、コンピューターが自分で知識の幅を広げて行く、その図式を見るようではありませんか。

 そのように見ていきますと、23-24節が、この箇所の冒頭を飾るものだとする人たちの見解が頷けます。神さまとの距離を、彼ら預言者たちは、自分自身の思想のことばを神さまのことばと同一視するほど、「近い」と意識しています。そう思い込んでいるのです。それは、神さまの絶対的卓越性を侵害するものではないか。神さまはあなたたちから遠いと、エレミヤは異議を唱えました。


V 神さまの息吹を受けて

 神さまの審判はこうです。「わたしのことばは火のようではないか。また、岩を砕く金槌のようではないか。―主の御告げ―」(29) 神さまのことばは恐ろしい現実となって、彼らに襲いかかってくるのです。「夢」を見続けたい彼らは、聞きたくないと耳を塞ぎますが、叱咤されることも、守られることも、主権者・神さまのなさることです。エレミヤは、彼らの「夢」と神さまのことばがせめぎ合う、その狭間に立ち、メッセージを取り次ぎます。「それゆえ見よ。─主の御告げ。─ わたしは、おのおのわたしのことばを盗む預言者たちの敵となる。見よ。─主の御告げ。─ わたしは、自分たちの舌を使って御告げを告げる預言者たちの敵となる。見よ。わたしは偽りの夢を預言する者たちの敵となる。─主の御告げ。─ 彼らは、偽りと自慢話をわたしの民に述べて惑わしている。わたしは彼らを遣わさず、彼らに命じもしなかった。彼らはこの民にとって、何の役にも立ちはしない。─主の御告げ。─」(30-32)

 定式文「─主の御告げ─」が、4回も使われています。他と比べるとダントツに多く、それは、神さまの審判を強調するものでした。なぜなら、ここに、神さまの息吹が感じられるからです。「……と、わたし・主が語るのだ」と、新共同訳には、いくらかそんなニュアンスがあります。神さまの息吹は、彼らへの怒りの息吹でした。それは、「預言者たちの敵となる」と3度も繰り返される、神さまの怒りです。そんな神さまの怒りを、エレミヤが語りました。彼らの怒りがエレミヤに向かって燃え上がったとしても、おかしくはないでしょう。

 主題に統一性がなく、扱いも乱暴なことから、後代の加筆と思われる33節以下に、そのことが描かれています。「この民、あるいは預言者、あるいは祭司が、『主の宣告とは何か』とあなたに尋ねたら、あなたは彼らに、『あなたがたが重荷だ。だから、わたしはあなたがたを捨てる』と言え。―主の御告げ―」(33)加筆者も、エレミヤと預言者たちの対決が気がかりだったのでしょうか。

 加筆の部分を除き、バルクはそんなことを一切省いています。エレミヤにとって、神さまのことばを語ることだけが、何より大切でした。預言者は、神さまから聞いたことばを、たとえそれがどんなに厳しいことばでも、自分の判断で脚色したり、削除したりせず、そのまま語らなければならない。預言者の系譜に名を連ねた人たちは、そのようにして来ました。エレミヤもそう願ったのでしょう。そして、イエスさまの弟子たちも……。今、私たちの手元には、文書化された旧新約の聖書があります。それは、神さまの息吹を受けて書かれたことばです。これを、これだけを、語り伝えなければなりません。一字一句を大切にしながら。「教えと戒めと矯正と、義の訓練とのために有効です」(Uテモテ3:16)とあるとおりです。悪魔が立ちはだかる、「神さまのことばと夢の狭間」にいる現代の私たちも、悪魔の知恵に与するのではなく、そのみことばに立ち続けようではありませんか。


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