預言者の系譜

エレミヤ 30
キリストを着て

エレミヤ 28:1−17
ロマ   13:11−14
T 儚い希望はどこから

 エレミヤは27章で、諸国の使者に、ゼデキヤ王に、祭司と民衆にと、三回に渡って主のことばを語ってきました。中心メッセージは、彼らの耳に心地よい「希望の神学」・預言者たちが語った偽りの預言を粉砕するものでしたが、エレミヤと預言者たちの戦いが続きます。今朝のテキストは、まだゼデキヤ王の治世第4年のことですが、27章の続きです。エレミヤは首にかせをつけたままです。

 神殿の庭で語るエレミヤの前に、預言者ハナヌヤが立ちました。バルクは彼のことを「ギブオンの出の預言者、アズルの子」と呼んでいます。名前だけでなく、その素性までここに加えたのも、恐らく彼は、当時、多くの民衆から支持されていた預言者だったからでしょう。ギブオンは、ベニヤミンの地ですが、アナトテと同じレビ人の48の町の一つ(ヨシュア21:17)で、聖所があったシロがペリシテ軍によって陥落した(サムエルの没後?)後に、聖所が建てられ、イスラエルの重要な町として知られていました。その著名な預言者ハナヌヤが、確信をもって言います。「イスラエルの神、万軍の主はこう仰せられる」この預言の形式は、エレミヤと全く同じです。だからでしょうか。エレミヤのハナヌヤに対する答えは非常に丁寧で、「アーメン」と同意までしています(6)。逆に言うなら、ハナヌヤにとっても、エレミヤの預言は信憑性があったと考えてもおかしくはないでしょう。しかしハナヌヤは、エレミヤと正反対のことを述べ、それは必ず実現すると確信しているようです。一体どこに、そんな彼の確信の根拠があるのでしょうか。

 「わたしは、バビロンの王のくびきを打ち砕く。二年のうちに、わたしは、バビロンの王ネブカデネザルがこの所から取って、バビロンに運んだ主の宮のすべての器をこの所に帰らせる。バビロンに行ったエホヤキムの子、ユダの王エコヌヤと、ユダのすべての捕囚の民も、わたしはこの所に帰らせる。―主の御告げ― わたしがバビロンの王のくびきを打ち砕くからだ」(2-4) こう見ますと、彼の依って立つところが、「希望の神学」であることがお分かり頂けるでしょう。


U 戦いに偏る者たち

 彼の強気なメッセージの根拠は、「バビロンの王ネブカデネザルのくびきを打ち砕く」というところにあるようです。それをここで二回繰り返しています。そして、エレミヤの反論にいきり立ち、猛々しくエレミヤの首にあったかせを取って砕いたとき(10)、それをもう一度言っています。「主はこう仰せられる。『このとおり、わたしは二年のうちに、バビロンの王ネブカデネザルのくびきを、すべての国の首から砕く』」と。ここではなぜか、「すべての国の首から砕く」と、ユダ王国以外の国にまで言及しています。先に、エレミヤのメッセージを聞いた、諸国の使者たちのことを見ました。14節のエレミヤの言い方を見ますと、このとき、彼らはまだユダ王国内に留まっていたようです。ハナヌヤは、「すべての民の前で」(1、11)と、その使者たちにも聞こえるように言いました。どうもハナヌヤは、近隣諸国を巻き込んで(軍事同盟)、バビロニアへの反抗を企てようとしていたと思われます。彼が主戦派の一人だとすると、彼はここで、エレミヤに語っているのではなく、神殿に集まって来た民衆に、檄を飛ばしているのです。「君たちが立ち上がるなら、バビロニア軍など恐れことはない。我々が勝利を得るには、二年もあれば十分である。我々の神・主も、エルサレムが滅びることなど望んでおられないのだから、必ず助けて下さるだろう。捕囚となった人も聖なる器も返される。バビロンのくびきは砕かれるだろう」こう聞きますと、彼が神さまのことを大げさに、「イスラエルの神、万軍の主」と呼んだことも頷けます。彼の確信は、神さまから出たことではなく、反乱軍立ち上げにあったと見ていいでしょう。奇妙なことに彼は、ゼデキヤ王のことに全く触れていません。それはゼデキヤが、バビロンによって王位につけられたからであり、進行しつつあった反乱計画に、消極的であったからです。恐らく、この反乱計画は、王国内の民族主義者によって進められていました。民衆が立ち上がり、反乱軍が諸国で旗を揚げるなら、王ゼデキヤも立ち上がってくれるだろう。彼の確信は、そんな計算の上にあったのです。

 エレミヤもバルクも、それを見抜いていたのでしょうか。丁寧に、同意までして……、言いました。「アーメン。そのとおりに主がしてくださるように。あなたが預言したことばを主が成就させ、主の宮の器と、すべての捕囚の民がバビロンからこの所に帰って来るように」(6)と、まずハナヌヤに同意を表明します。そうなったらいいなと、エレミヤもバルクも心底思っていたのでしょう。彼らの民を愛する思いは、決してハナヌヤに劣るものではありません。しかし、神さまがエレミヤに語られたことは、ハナヌヤのメッセージとは全く違っていました。それを語らないわけにはいきません。


V キリストを着て

 ハナヌヤへのメッセージは、3つあります。(1)「しかし、私があなたの耳と、すべての民の耳に語っていることばを聞きなさい。昔から、私とあなたの先に出た預言者たちは、多くの国と大きな王国について、戦いとわざわいと疫病とを預言した。平安を預言する預言者については、その預言者のことばが成就して初めて、ほんとうに主が遣わされた預言者だ、と知られるのだ」(7-9) (2)「主はこう仰せられる。あなたは木のかせを砕いたが、その代わりに、鉄のかせを作ることになる。まことに、イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。『わたしは鉄のくびきをこれらすべての国の首にはめて、バビロンの王ネブカデネザルに仕えさせる。それで彼らは彼に仕える。野の獣まで、わたしは彼に与えた』」(13-14) (3)「ハナヌヤ。聞きなさい。主はあなたを遣わされなかった。あなたはこの民を偽りに依り頼ませた。それゆえ、主はこう仰せられる。『見よ。わたしはあなたを地の面から追い出す。ことし、あなたは死ぬ。主への反逆をそそのかしたからだ』」(15-16)

 バルクは、エレミヤもハナヌヤのように、「すべての民の前で」語ったと記しています。古代の地方の貧しい民衆は、無知と相場が決まっているように思われていますが、イスラエルの民衆はそうではありませんでした。聖なる文書を自分で読むことが出来るよう、昔から教育されていたのです。ですからエレミヤは、先の預言者たち(アモス、イザヤ、ミカなど)が語ったことばが、決して耳当たりの良いものではなかったことに言及しています。「預言者」と呼ばれた人たちは、おおむね、そのように立てられた人たちであり、そのような警告が必要とされた時代に、出て来た人たちだからです。民衆は、そんな預言者たちが街角で語るメッセージを聞き、文書化されたものを読んでいたのでしょう。いづれにしても、イスラエルの人たちは、預言者とともに生きて来ました。預言者のメッセージが、決して耳当たりの良いものでないことも十分知っていましたから、エレミヤは、自分のメッセージが、その預言者の系譜に属するものであると証言したのです。

 (2)と(3)の説明は、不要でしょう。「預言者ハナヌヤはその年の第七の月に死んだ」(17)とあります。「今年あなたは死ぬ。主への反逆をそそのかしたからだ」、その通りになりました。

 ところで、現代の日本に、預言者と呼ばれる人たちがいるわけではありません。しかし、預言者のように、時折、世情を騒がす人たちがいます。また、隣人愛だの、平和だの、心の静寂だのと……、まるでハナヌヤのように「希望の神学」だけを語る宗教が、キリスト教も含め、多いことも事実です。キリスト教系と言われるカルト宗教にも、そんな人たちがいます。しかし、聞いてください。イエス・キリストが私たちへの「幸い」(真の希望の神学)になってくださったことは確かです。しかし、現代、そのイエスさまの希望と向き合うために、こうした警告を聞くことも必要ではないでしょうか。パウロが言っていることを聞いて下さい。「あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。夜はふけて昼が近づきました。ですから、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、妬みの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。」(ロマ13:11-14) 神さまの手が、現代の私たちにどう働かれようとしているのか、その時が近づいています。見たいところではありませんか。


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