預言者の系譜
エレミヤ 3
主のことばを!

エレミヤ 2:1−19
ロマ書 1:14−17
T 神さまは変わらないのに

 「ついで、私に次のような主のことばがあった。『さあ、行って主はこう仰せられると言って、エルサレムの人々の耳に呼ばわれ』」(1-2) これがいつのことであったか分かりませんが、エレミヤが召命を受けた初期と思われます。エレミヤの活動はおもに、エルサレム神殿の庭でした。まだアナトテに住んでいたと思われますから、そこから毎日出て来て、主のことばを何回も繰り返し語ったのです。「わたしは、あなたの若かったころの誠実、婚約時代の愛、荒野の種も蒔かれていない地でのわたしへの従順を覚えている。イスラエルは主の聖なるもの、その収穫の初穂であった。これを食らう者はだれでも罪に定められ、わざわいをこうむったものだ。ー主の御告げー」(2-3) 神さまは、イスラエルの歴史を回顧しておられるのでしょうか。それは「婚約時代」(花嫁の時代。新共同訳)であったと、繊細な感覚をもってエレミヤは言います。恐らくそれは、エジプト脱出とそれに続くシナイ山における律法授与という、神さまとの契約の締結であり、イスラエルが後々の時代に向けて、決定的な歴史を刻んだときであると言えるでしょう。それはイスラエルに、救済史とも言える時代を刻印したときでもあります。そんな時代にも、イスラエルに問題がなかったわけではありません。高慢になったり、カナンの高度な文化に惹かれたり、部族間で争いを起こしたりと、いろいろなことがありました。しかし彼らは、神さまを一途に慕い、「われらに敵する者は神さまに敵する者だ」と言ってはばかりませんでした。自分たちは神さまの選びの民であるという、イスラエルにとって最も基本的な神学が、確立した時代と言えましょう。「イスラエルは主の聖なるもの、その収穫の初穂」という言い方は、選民思想や律法神学とともに、彼らの中に祭儀神学が整えられていったことを暗示しているようです。

 しかし、神さまとイスラエルの間に築かれた相互愛の麗しい関係は、崩れ去ったと言われます。「あなたがたの先祖は、わたしにどんな不正を見つけて、わたしから遠く離れ、むなしいものに従って行って、むなしいものとなったのか」(5)と、すでにその時代にも、神さまから離れようとする兆候があったと示唆していますが、問題は現在のことです。彼らはいつも、対神さまということで、問題を抱えて来ました。神さまは変わりません。「わたしはあなたがたを、実り豊かな地に連れてはいり、その良い実を食べさせた」(7)それなのに、「あなたがたは、わたしの国を汚し、わたしのゆずりの地を忌み嫌うべきものとした」(7)のです。祭司たちは「主はどこにおられるのか」と言わず、律法を取り扱う者たちもわたしを知らず、牧者たちもわたしにそむき、預言者たちはバアルによって預言して、無益なものに従って行ったと言われます(8)。


U まだチャンスが

 4節に「ヤコブの家とイスラエルの家」とありますが、これは神さまの選民イスラエルが一枚岩ではなく、各部族の連合共同体(アンフォクチオニー)であったことを物語っています。その連合共同体が、イスラエルと名付けられる何らかの集まり(ある注解者は、それを契約祭であろうとしています)でこのメッセージを聞くのですが、そこで語られたことは、彼らと神さまの麗しい歴史であるとともに、彼らの神さまからの離反でした。そして神さまは、その離反を過去、つまり先祖たちのこととしてではなく、彼らの現在と将来に渡ることとして、咎めているのです。「そのため、わたしはなお、あなたがたと争う。また、あなたがたの子孫と争う」(9)とあります。イスラエルは神さまにとって、ご自分の聖なる民でした。イスラエルの確立と存続は、ただ彼らをご自分のものとした神さまの愛によるご配慮にかかっているのに、彼らはその神さまの愛を見失っていたのでしょうか。イスラエルの存続は神さまによるものではないと、彼らは神さまを切り捨ててしまったのです。6節にはこうあります。「彼らは尋ねることもしなかった。『主はどこにおられるのか。私たちをエジプトの国から上らせた方、私たちに、荒野の荒れた穴だらけの地、砂漠の死の陰の地、人も通らず、だれも住まない地を行かせた方は』と。」

 そこではまだ過去のこととして語られているようですが、10節以降を見ますと、それがエレミヤのメッセージを聞いている者たちのことであると分かります。「わたしの民は二つの悪を行なった。湧き水の泉であるわたしを捨てて、多くの水ためを、水をためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘ったのだ」(13)二つの悪とは、いのちの源である神さまからの離反であり、さらに人間が自分で造った偶像を神さまに代え、それにしがみつこうとしていることです。エレミヤは断固異邦人の神々を神とは認めていませんが、異邦人が彼らの神に対して抱く畏怖については、これを尊重しています。それは、イスラエルの神信仰となんら変わるものではないと。彼らは神さまの本質を知りません。しかし彼らは、「神々を神々でないものに取り替え」(11)ることはありません。キティムの島々はキプロス島を中心に西側全体を指し、ケダル人はパレスチナからメソポタミヤに至る砂漠地帯の遊牧民を指していますから、西から東まで、異邦人全体という意味であると思われます。それなのにイスラエルは、異邦人もしなかった愚を犯したと、神さまは嘆き、エレミヤはそれを語っているのです。

 しかし、この段階で神さまは、まだイスラエルをご自分の聖なる民として惜しんでいます。ここに語られているのは、決定的な破滅ではなく、悔い改めのすすめなのでしょう。悔い改めて、ご自分の民として立ち返えることを、神さまは期待しておられるようです。まだチャンスがあると。


V 主のことばを!

 それなのに、イスラエルは聞く耳を持ちません。「イスラエルは奴隷なのか。それとも家に生まれたしもべなのか」(14)と神さまは、いかにも不思議に堪えない問いかけを発しています。なぜなら彼らは、エジプトの奴隷の家から解放された者たちだったからです。それなのに彼らは、つい先頃、若獅子(アッシリヤ)に襲いかかられ、北イスラエル王国は獲物にされてしまったではないか。それを忘れてしまったのか。エジプトもアッシリヤも、同じなのです。15-17節はアッシリヤによる北王国滅亡の事実を述べていますので、「住む者もいなくなる」(15)「このことがあなたに起こるのではないか」(17)は、新共同訳のように、「住む人もなくなった」「あなたの身に及んだのではないか」と過去形に訳すべきでしょう。そのことに思いを馳せるなら、彼らにはまだチャンスがあるというのが、このメッセージの真の目的だったと分かるでしょう。「(それなのに)今、ナイル川の水を飲みにエジプトの道に向かうとは、いったいどうしたことか」(18)彼らは危機に際して、何度も何度もエジプトに頼ろうとして来ました。今、新バビロニヤ軍が押し寄せようとしているとき(この時点で、まだその気配はない)、またもやエジプトに援軍を要請しようとしています。もはや彼らの目に、神さまは映っていないのでしょうか。それが結果的に、バビロン捕囚になってしまうのです。「ユーフラテス川の水を飲みに、アッシリヤの道に向かうとは、いったいどうしたことか」(18)と、神さまは嘆き、エレミヤはあきれ果てています。すでにエレミヤは、同胞の民がどのような状況下にあるのかよくよく承知しており、神さまのメッセージがこの民になぜこんなに厳しいのかも、よく理解していました。1章の初めから何度も繰り返されている、一つのことばがあります。「ー主の御告げー」です。ここまでに6回、エレミヤはそれを書き加えました。おそらく、民衆に話しているときに、そのことばを加えることで、それを神さまのことばの締めくくりとしていたのでしょう。それがここでは、「ー万軍の神、主の御告げー」(19)となっています。「あなたの悪が、あなたを懲らし、あなたの背信が、あなたを責める。だから、知り、見きわめよ。あなたが、あなたの神、主を捨てて、わたしを恐れないのは、どんなに悪く、苦々しいことかを」(19)と、この厳しい判決をエレミヤは主からのメッセージとして語りながら、自分のメッセージもそこに重ねているように感じられてなりません。もはやエレミヤは、預言者として立てられたこの務めに躊躇することなく、一身を献げようとしているようです。恐らく、ひどい仕打ちをうけるでしょう。しかし、この使信を伝えなければならないと、エレミヤの覚悟が伝わって来るようです。現代の私たちも、状況は違っているかも知れませんが、そのエレミヤの覚悟を……、と思わされます。「主のことば語り続ける!」と、心したいものです。



予言者の系譜・目次