預言者の系譜

エレミヤ 29
希望と向き合うことを

エレミヤ 27:1−22
Tペテロ  5:6−11
T 寄り頼むものは?

 1節に、「ユダの王エホヤキムの治世の初め」とありますが、27章の内容は、ゼデキヤ王第四年(BC594年)のことで、編集過程で混乱が生じたのであろうとは大方の見解です。

 エドム、モアブ、アンモン、ツロ、シドンなど近隣の国々から、ゼデキヤ王のもとに使者団がやって来ました。バビロン侵攻に対抗する軍事同盟の呼びかけです。神さまはエレミヤに言われました。「あなたはなわとかせとを作り、それをあなたの首につけよ」(2)そんな異様な恰好で、エレミヤは宮殿に向かいました。諸国の使者たちとは、彼らが宮殿に入る前に会ったのでしょう。

 エレミヤが取り次いだ、使者たちへのメッセージです。「わたしは、大いなる力と伸ばした腕とをもって、地と地の面にいる人間と獣を造った。それで、わたしの見る目にかなった者にこの地を与えるのだ。今わたしは、これらすべての国をわたしのしもべバビロンのネブカデネザルの手に与え、野の獣も彼に与えて仕えさせる。……バビロンの王ネブカデネザルに仕えず、またバビロンの王のくびきに首を差し出さない民や王国があれば、わたしはその民を剣とききんと疫病で罰し、彼らを彼の手で皆殺しにする。だからあなたがたは、バビロンの王に仕えることはない、と言っているあなたがたの預言者、占い師、夢見る者、卜者、呪術者に聞くな。彼らは、あなたがたに偽りを預言しているからだ。それで、あなたがたはあなたがたの土地から遠くに移され、わたしはあなたがたを追い散らして、あなたがたが滅びるようにする。しかし、バビロンの王のくびきに首を差し出して彼に仕える民を、わたしはその土地にいこわせる。こうして、その土地を耕し、その中に住む」(4-11)これはイスラエルの神、万軍の主の御告げである。ユダ王国も君たちの王国も、バビロンに滅ぼされる。たとえ軍事同盟を結んでも、それは君たちの国にとって、何の役にも立たない。これは、諸国にとっても、神さまが唯一絶対の主権者であるという宣言でした。そして、バビロンでさえ神さまの手に過ぎないのだから、「首を差し出して彼に仕える民を、わたしはその土地にいこわせる……」と言われるのです。このあわれみは、彼らと向き合う神さまの約束でした。彼らは、異様な格好をした預言者からこんな「託宣」を聞かされ、主君から託された軍事同盟を果たすことが出来なかったようです。


U 聞くべきは?

 次いでエレミヤは、王宮内に入り、ゼデキヤ王に向かって言います。多くの廷臣たち、祭司たちも聞いていました。「あなたがたはバビロンの王のくびきに首を差し出し、彼とその民に仕えて生きよ。どうして、あなたとあなたの民は……、剣とききんと疫病で死んでよかろうか。『バビロンに王に仕えることはない』とあなたがたに語る預言者たちのことばを聞くな。彼らはあなたがたに偽りを預言しているからだ」(12-14)「わたしは彼らを遣わさなかったのに、彼らはわたしの名によって偽りを預言している。それでわたしはあなたがたを追い散らし、あなたがたも、あなたがたに預言している預言者たちも滅びるようにする」(15)メッセージは、12-14節と15節の二つに分けられていますが、別々に語られたものが、編集の段階でここにまとめられたようです。エレミヤはこれを思い出しながら口述し、バルクはそれを書き記しました。預言者たちのことは後に触れますが、「バビロン王に首を差し出し、彼とその民に仕えて生きよ」は、諸国の使者たちに語ったメッセージと同じです。しかし使者たちの時と同様、バルクはここで、王たちの反応を何も記していません。23章には預言者たちの、28章には預言者ハナヌヤの反論が記されていますから、王も廷臣も祭司たちも、黙って聞いているばかりではなかったようですが、バルクは、エレミヤのメッセージだけを記しました。恐らくこの時点でゼデキヤ王は、預言者たちの好戦的な意見より、エレミヤの預言に惹かれていたようです。ある意味で王は、神さまのことばと向き合っていました。バルクはそんな王に好意を持ったのでしょうか。

 エレミヤは異様な格好のままです。意外なことに、ゼデキヤはエレミヤに好意をもっており、この頃、廷臣や祭司たちも、エレミヤが神さまに立てられた預言者であることを疑っていませんでしたから、この異様な格好という、普通では考えられないことも可能でした。

 そして、もう一度メッセージが語られました。「祭司たちとこのすべての民に語った」(16)とありますから、祝祭日か礼拝のときに語られたものが、先の2つのメッセージとともに、ここにまとめられたのでしょう。「『見よ。主の宮の器は、今すみやかにバビロンから持ち帰られる』と言って、あなたがたに預言しているあなたがたの預言者のことばに聞いてはならない。彼らはあなたがたに、偽りを預言しているからだ。彼らに聞くな、バビロンの王に仕えて生きよ。どうして、この町が廃墟となってよかろうか。……まことに万軍の主は、宮の柱や、海や、車輪つきの台や、そのほかのこの町に残されている器についてこう仰せられる。これらの物は、バビロンの王ネブカデネザルがエホヤキムの子ユダの王エコヌヤ、およびユダとエルサレムのすべてのおもだった人々をエルサレムからバビロンへ引いて行ったときに、携えて行かなかったものである。まことに、イスラエルの神、万軍の主は、主の宮とユダの王の家とユダの王の家とエルサレムとに残された器について、こう仰せられる。『それらはバビロンに運ばれて、わたしがそれを顧みる日までそこにある。そうして、わたしはそれらを携え上り、この所に帰らせる』」(16-22)ここでも「バビロンの王に仕えて生きよ」と言われ、神さまの約束が語られます。「(やがて、人も器も)この所に帰らせる」と。この3回のメッセージは、目前に迫った破滅を回避する、エレミヤのぎりぎりの努力ではなかったかと思われます。


V 希望と向き合うことを

 2つのことを取り上げたいのですが、一つは、3つのメッセージで中心主題とされている、預言者たちのことです。彼らは、「バビロンに王に仕えることはない」と言いました。使者たちにそれを吹き込んだのは、「あなたがたの預言者、占い師、夢見る者、卜者、呪術者」と言われる、諸国が抱える託宣を語る者たちです。当時の「託宣」は、時代の寵児であり、デルフォイ神殿など、託宣専門の神々が跋扈するところが建てられていました。そんなカナン諸国の「悪しき風習に基づく希望の神学」が、ユダ王国にも入り込んでいたのです。預言者たちも、諸国の託宣と同じレベルになっていたのでしょう。だからエレミヤは、「彼ら偽預言者たちの言うことを聞いてはならない」と厳しく誡め、預言者たちの偽りに与するなら、「剣とききんと疫病で死ぬ」と言ったのです。人々はエレミヤが語る神さまのことばに、聞かなければなりませんでした。神さまのことばは、死と紙一重の瀬戸際でも、望みを聞くことが出来るのです。王も廷臣たちも、祭司もすべての民も、そして現代の私たちも、聞くべきは神さまのことばです。それこそ、「真の希望の神学」と言えましょう。

 もう一つは、主の宮の器のことです。70人訳にその記述が抜けていますので、これを後代の加筆とする人もいますが、恐らくそれは、当時のユダ王国の人たち、特に祭司たちにとって、彼らのヤハウェ信仰の凝縮されたものでした。これはバルクの真筆と思われます。めぼしいものは597年にバビロンに持ち去られていますから、残っている「バビロンに移される」と言われるものは、価値の低いものだったと思われますが、そんなものに頼る以外に救いが見えないほど、彼らの目は神さまから遠く離れていました。しかし、器=物に依存するそれは、極めて現代的なことでしょう。そしてその物さえ、今は、どんどん安っぽくなっています。きっと、「希望」もそうではないでしょうか。向き合うところのピントが、どこかずれているのです。

 希望を見つめることは大切です。現代、そうでなければ押しつぶされそうになる、そんな時代を迎えています。しかしその前に、私たちの求めるものが真の希望なのかどうか、確かめてみなければなりません。まず自分自身のことから始めたいのですが、人を押しのけた欲望に走らなかったか、貧しく弱い人たちを踏みつけにしなかったか、隣人に対して愛を注いだか……等々。自分と向き合うことで、初めて、本当の希望、神さまの希望が見えて来るのではないでしょうか。私たちの一切の思い煩いをご存じのお方に委ね(Tペテロ5:7)、そのお方の語る希望と、真剣に向き合っていきたいと願います。精算の時が近づいているのですから。


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