預言者の系譜

エレミヤ 28
主の視線を感じつつ

エレミヤ 23:9−24
マタイ  28:18−20
T 希望の神学を語る者たち

 これからしばらく、「預言者たち」と呼ばれる人たちを取り上げていきたいと思います。ユダ王国の命運に関し、彼らの役割は、決して小さくありません。彼らは王の周りに群がり、エレミヤが語った神さまのことばとは裏腹なことを、王たちに吹き込んでいました。それは「希望の神学」とでも言うべきメッセージで、危機に直面した王たちが、まさに聞きたいと願っていたものです。エレミヤは彼らに戦いを挑んでいますが、その戦いの奥底を覗いてみましょう。

 「希望の神学」とは、近代自由主義神学の旗手・モルトマンの代表作ですが、その内容はともかく、ゼデキヤ王とユダの人たちは、刻々と迫るバビロンの脅威を前に、心底から慰め、励ましを聞きたいと願っていました。ここに出て来る預言者たちは、その要望に応えたのです。「あなたがたに預言する預言者たちのことばを聞くな。彼らはあなたがたをむなしいものにしようとしている。主の口からではなく、自分の心の幻を語っている。彼らは、わたしを侮る者に向かって、『主はあなたがたに平安があると告げられた』と、しきりに言っており、また、かたくなな心のままに歩むすべての者に向かって、『あなたがたにはわざわいが来ない』と言っている」(16-17)と。彼らがエレミヤと対決したことで、私たちはいとも簡単に彼らを「偽預言者」と断定してしまいますが、果たしてそうでしょうか。エレミヤは、「いったいだれが、主の会議に連なり、主のことばを見聞きしたか。だれが、耳を傾けて主のことばを聞いたか。見よ。主の暴風、―憤り― うずを巻く暴風が起こり、悪者の頭上にうずを巻く。主の怒りは、御心の思うところを行なって、成し遂げるまで去ることはない。終わりの日に、あなたがたはそれを明らかに悟ろう。わたしたはこのような預言者たちを遣わさなかったのに、彼らは走り続け、わたしは彼らに語らなかったのに、彼らは預言している。もし彼らがわたしの会議に連なったのなら、彼らはわたしの民にわたしのことばを聞かせ、民をその悪の道から、その悪い行ないから、立ち返らせたであろう」(18-22)と主のことばを語りますが、彼ら偽預言者たちと預言者エレミヤの区別は、一体どこにあるのでしょうか。残念ながら、それは、客観的に判断されるものではありません。エレミヤは、この神さまの叱責を、自分に語られたものとして聞かなかったでしょうか。そうでないと言い切ることは出来ません。自分にも当てはまることだと聞いたとしても、不思議ありません。


U 託宣に飲み込まれて

 それでは、なぜ彼らの中に「希望の神学」が生まれたのか、考えてみたいと思います。預言者集団は古く、エリヤのときにすでに存在していました。ほとんどの場合、その集団にはスポンサーがついていて、彼らの活動を支えていました。エリヤはしばしば単独で行動していますが、預言者の活動としてそれは特殊であって、集団で行動するほうが人々から受け入れられました。それは、その神学が、国家神学とも言えるまでに、認定されていたからです。イスラエルでは、民衆も高い知的レベルを有し、預言の真偽を見抜く力を持っていました。神さまから出た預言者とは、大雑把に言うと、モーセの律法等、イスラエルが神さまのことばとして来た「聖書」に基づくものであるかどうかが、判断の基準になります。そして、その判断基準に合格したからこそ、彼らは受け入れられたのです。なぜなら、旧約聖書に語られている神さまも恵みの主であって、決して厳しい裁きばかりを語るお方ではなかったからです。「わたしの命令を守るならば」という条件はついていますが、「あなたがたの幸いを願った」(エレミヤ3:19-20参照)という、父親のような方なのです。その意味で、「希望の神学」は、イスラエルの伝統神学と言っていいでしょう。イスラエルは、その神学に根ざして、前途洋々たる王国を建て上げて来た、と言っても過言ではありません。

 ところが、時代を経るにつれ、その「希望の神学」の中身が希薄になり、祭儀宗教に偏って、神さまのことばが忘れられていきます。非常に厳しい神さまのことばを語る、記述預言者と呼ばれる人たちが出現して来たのは、そんな背景の中ででした。伝統的預言者集団を志す人たちは、そんな背景がイスラエルに生まれていたことに気づかなかったのか、もしくは、スポンサーのことにばかり目が行って、神さまのことばを語る預言者であるという、肝心のことがおろそかになっていたのかも知れません。そうした背景の中で、バアル神やイシュタル女神など、外国の宗教がじわじわと入り込んできました。「サマリヤの預言者たちの中に、みだらな事をわたしは見た。彼らはバアルによって預言し、わたしの民イスラエルを惑わした。エルサレムの預言者たちの中にも、恐ろしい事をわたしは見た。彼らは姦通し、うそをついて歩き、悪を行なう者どもの手を強くして、その悪からだれをも戻らせない。彼らはみな、わたしには、ソドムのようであり、その住民はゴモラのようである。それゆえ、万軍の主は、預言者たちについてこう仰せられる。『見よ。わたしは彼らに、苦よもぎを食べさせ、毒の水を飲ませる。汚れがエルサレムの預言者たちから出て、この全土に広がったからだ』」(13-15)とあるのは、そのことを指しています。彼らはもう、立派な偽預言者でした。「主の口からではなく、自分の心の幻を語っている」(16)からです。当時、神々の託宣が、デルフォイ神殿を代表格に一世を風靡していましたが、神々が乗り移ったように振る舞うそれは、ペテン師まがいの託宣でした。ヘロドトスの「歴史」には、どこの託宣がいいだろうかと、右往左往する諸国の様子が描かれています。ユダの王たちに群がった預言者たちも、初めは伝統神学だったのでしょうが、ここではすでに、ここあそこの託宣風景を取り入れています。エレミヤは、「国は姦通する者で満ちているからだ。地はのろわれて喪に服し、荒野の牧草地は乾ききる。彼らの走る道は悪で、正しくないものをその力とする。実に、預言者も祭司も汚れている。わたしの家の中にも、わたしは彼らの悪を見いだした。―主の御告げ―」(10-11)と、そうしたことに戦いを挑んだのです。


V 主の視線を感じつつ

 「預言者たちに対して。―私の心は、うちに砕かれ、私の骨はみな震える。私は酔いどれのようだ。ぶどう酒に負けた男のようになった。主と、主の聖なることばのために」(9)エレミヤは、身体が震えるほどの衝撃、怒りと嘆きに見舞われます。同僚であり、尊敬する先輩でもある預言者たちが、自分とは全く別のことばを語っていたからです。それを知らせてくれたのは、神さまのことばでした。王たちの耳にむなしい希望を語り、ユダの地を荒廃に導いた彼らの悪は、断じて許されるものではありません。「地はのろわれて喪に服し、荒野の牧草地は乾ききる」と言われたその荒廃の責任は、彼らが負わなければならないものでした。神さまのことばは、そのことを指摘してやみません。

 もう一つ付け加えておきたいのですが、「わたしは近くにいれば、神なのか。―主の御告げ― 遠くにいれば、神ではないのか。人が隠れた所に身を隠したら、わたしは彼を見ることができないのか。―主の御告げ― 天にも地にも、わたしは満ちているではないか。―主の御告げ―」(23-24) これは恐らく、25節以降に続く導入部なのでしょう。しかし今回は、偽預言者たちへ審判を告げなければならない、神さまの悲しみの声と聞きたいのです。これを、15-22と25-32の間に挟まれた、独立句と見る人たちもいます。70人訳は「わたしは近きにいます神であって、遠き神ではない」、マソラ本文は「わたしは近き神であろうか。遠き神ではないのであろうか」となっているなど、古くから議論の多いところです。しかしその中で、新改訳の訳は秀逸と思われます。新改訳のように聞くなら、それ以上の説明は不要でしょう。私たちのすぐ側におられる神さま・主を見つめているなら、偽預言者たちのような間違いを犯さなくても済むのだと……。いや、それ以上に、そのお方が、「あなたがたとともにいる」(マタイ28:20)と言っていてくださるのです。私たちが主を見つめるより先に、主が私たちを見つめていてくださる……。そのお方の視線を感じつつ、預言者を預言者たらしめるものが欠如していないか、神さまの召命とみことばの委託を本当に受けているのか、本当に真心を込めて聖書を読んでいるのかと、私自身もその問いかけを繰り返し聞かなければならないと、肝に銘じさせられます。そして、この問いかけを、信仰者のすべてにも聞いて頂きたいと願います。今、真摯にイエスさまと向き合うことが問われています。


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