預言者の系譜

エレミヤ 24
恵みの日のために

エレミヤ 25:1−14
Uコリント    6:2
T 主のことばに聞け

 エホヤキム王に関わる記事が、残り少なくなって来ました。今朝のテキスト25:1-14は、エホヤキム王へ直接ということではありませんが、その治世第4年にユダの民に告げられた、エレミヤの最も中心的なメッセージです。まず、そこから取り上げていきましょう。エレミヤ書はこの辺りから時間的順序が混乱して来て、今朝のテキストも、前後の文脈とはつながらず、形式的にも内容的にも文脈を乱している(と注解者たちは言う)ので、注解者の多くは、これは原本の末尾にあったものであろうと推測しています。なぜそれが編集過程でここに挿入されたのかは不明ですが、多くの人たちは色々と想像しているようです。見ていきましょう。

 エホヤキム王の治世第4年は、BC604~605年のことで、新バビロニヤのネブカデネザル王が、カルケミシュでエジプトのファラオ・ネコを破った年です。これによってネブカデネザルは、古代オリエント及び、パレスティナ、シリヤの覇者となりました。1節の「ネブカデネザルの元年」とは、そういう意味です。凡庸なエホヤキムも、もはやネブカデネザルに逆らうことはできません。これまで何度もエレミヤによって語られた「北からの脅威」は、バビロニヤ軍によるものだとはっきりしてきたからです。エホヤキムは、自分をユダの王としてくれたネコへの従属を、ネブカデネザルに切り替えました。が、まだエジプトに未練があるのか、3年後に再びエジプトに鞍替えするのですが、それは、世界情勢の実態を把握しきれない彼の凡庸さによるのでしょうか。エレミヤのメッセージが始まります。「アモンの子、ユダの王ヨシヤの第13年から今日まで、この23年間、私に主のことばがあり、私はあなたがたに絶えず、しきりに語りかけたのに、あなたがたは聞かなかった。また、主はあなたがたに、主のしもべである預言者たちを早くから送ったのに、あなたがたは聞かず、聞こうと耳を傾けることもなかった。主は仰せられた。『さあ、おのおの、悪の道から、あなたがたの悪い行ないから立ち返り、主があなたがたと先祖たちに与えた土地で、いつまでも、とこしえに住め。ほかの神々に従い、それに仕え、それを拝んではならない。あなたがたが手で造った物によって、わたしの怒りを引き起こしてはならない。そうでないと、わたしもあなたがたにわざわいを与える。それでも、あなたがたはわたしに聞き従わなかった。──主の御告げ。── それで、あなたがたは手で造った物でわたしの怒りを引き起こし、身にわざわいを招いた』」(3-7)


U 真剣に向き合って

 ここに語られていることは、決して目新しいものではありません。エレミヤが言っているように、預言者として召されて23年間、彼がずっと語り続けて来たことです。「あなたがたは聞かなかった」「あなたがたはわたしに聞き従わなかった」と何回も繰り返し、「絶えず、しきりに語りかけていた」と言っているのも、同じメッセージが繰り返し何度も語られたことを指しているのでしょう。通常、預言者の活動は、弟子たちを連れて街角に立ち、そこで人々に話す。すると、聞いていた弟子たちが方々に分かれて「先生」の話を中継し、「先生」もまた、別のところで話をする。そのようにして、預言者・「先生」の名が広がっていくのです。それはユダに限ったことではなく、ラジオもテレビもない古代社会では、自作の詩など文学作品も、そのように宣伝されました。古代ギリシャ・ホーメロスの「イーリアス」や「オデゥセイア」の叙事詩も、そのように街角で朗読されたのです。

 ところがエレミヤには弟子がいません。彼は名を上げるために預言活動をしていたわけではなく、弟子をとって預言者学校を開こうとも考えていなかったようです。ただ、神さまから「語れ」と言われたメッセージが、ユダの命運に関わることでしたから、なんとしても聞いてもらわなければなりません。何度も何度も繰り返し語ったのは、彼の自発的行為だったと思われます。さらに、「取り次げ」と命じられた神さまご自身も、内容的に同じメッセージを、エレミヤに何度も語られました。ここに、目新しいことでもないのに、まるで新しいメッセージのように語られているのは、そうした神さまとエレミヤの、やむにやまれぬ心情があってのことと聞かなければならないでしょう。神さまのことばは、マンネリ化し、うんざりしながら聞くものでは、断じてありません。毎週の礼拝で語られ、聞かれることばにも、そのような真剣勝負が求められているのではないでしょうか。

 神さまはイスラエルに、ご自分だけがあなたの唯一の神さま・主であると、そのことを切に求めておられます。ですから、バアル神やイシュタル女神など、異邦人の神々に走る、今風の流行に堕してはならないと、戒めておられるのです。イスラエルに厳しいのは、そんな神さまの、イスラエルを慕うあまりの裏返しではなかったかと思われます。


V 恵みの日のために

 「それゆえ、万軍の主はこう仰せられる。『あなたがたがわたしのことばに聞き従わなかったために、見よ、わたしは北のすべての種族を呼び寄せる。──主の御告げ。── すなわち、わたしのしもべバビロンのネブカデネザルを呼び寄せて、この国と、その住民と、その回りのすべての国々とを攻めさせ、これを聖絶して、恐怖とし、あざけりとし、永遠の廃墟とする。わたしは彼らの楽しみの声と喜びの声、花婿の声と花嫁の声、ひき臼の音と、ともしびの光を消し去る。この国は全部、廃墟となって荒れ果て、これらの国はバビロンの王に70年仕える』」(8-11)

 「北のすべての種族」を呼び寄せると、今まで語って来たメッセージが繰り返されます。「すべての種族」とありますが、恐らくこの時点でバビロンは、シリヤやパレスチナの諸民族も含む、辺り一帯の国々を傘下に治めていましたから、これは大げさな表現ではなかったでしょう。ネブカデネザルは、まず諸民族からなる先遣隊を派遣し、先遣隊はゲリラのようにその辺り一帯を荒らし回り、そこにバビロニヤ軍本隊が侵攻する、という戦法を常としていました。そのようにして敵を圧倒するのです。すると、「これを聖絶して、恐怖とし、あざけりとし、永遠の廃墟とする。わたしは彼らの楽しみの声と喜びの声、花婿の声と花嫁の声、ひき臼の音と、ともしびの光を消し去る。この国は全部、廃墟となって荒れ果て」という表現も、頷けます。バビロニヤ軍は、ユダの人々の生活すべてを根こそぎ消滅させてしまった、と聞かなければなりません。「わたしは、この国について語ったすべてのことは、すなわち、エレミヤが万国について預言し、この書にしるされている事をみな、この地にもたらす」(13)とある通りです。12節と14節は結語と聞いたほうがいいでしょう。

 「70年の終わりに、わたしはバビロンの王とその民、──主の御告げ。── またカルデヤ人の地を、彼らの咎のゆえに罰し、これを永遠に荒れ果てた地とする。多くの国々と大王たちが彼らを奴隷に使い、わたしも彼らに、そのしわざに応じ、その手のわざに応じて報いよう」(12,14) ここで初めて、捕囚の期間が70年であると言及されますが、この70年の期間は、エレミヤ書では他に29:10にあるだけで、事実とは違うと言われています。史実では、およそ50数年後にペルシャのクロス王によって帰還命令が出されていますから。しかし、これは概数であって、27:7には三代の期間バビロンの支配が続くとあり、70年はその意味と思われます。その通り、強大なバビロニヤ帝国は三代の王だけで、新たに台頭したメディア・ペルシャ帝国によって滅ぼされてしまいます。まるでバビロニヤ帝国は、ユダ王国を滅ぼすためだけに出現して来たようではありませんか。神さまはネブカデネザルを「わがしもべ」(9)と呼んでいますが、その通り、彼は神さまの器として働いたと言わざるを得ません。ユダ王国のバビロン捕囚、それはユダの人々にとって神さまの裁きでした。しかし、たとえそれが70年であっても、期間は限定されているのです。それは、彼らが悔い改め、神さまの民として立ち帰ることを願ってのことでした。神さまが彼らを惜しんでいるからに他なりません。先に触れた通り、厳しい裁きはその裏返しなのでしょう。「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です」(Uコリント6:2)とパウロが言う通り、神さまの審判は、ある意味で、恵みであり、救いを待ち望む日々なのです。その恵みの主、救いの主を、今、覚えたいではありませんか。 


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