預言者の系譜

エレミヤ 22
神さまのくださる賜物を

エレミヤ 18:1−12
ロマ書  6:19−23
T 陶器師の造る器のように

 「立って、陶器師の家に下れ。そこで、あなたに、わたしのことばを聞かせよう」(2)と主に言われ、エレミヤは陶器師と出会いました。今朝のテキスト18:1-12は、陶器師の家で見た光景を思い浮かべながら、エレミヤが聞いた主のことばです。「私が陶器師の家に下って行くと、ちょうど、彼はろくろで仕事をしているところだった。陶器師は、粘土で制作中の器を自分の手でこわし、再びそれを陶器師自身の気に入ったほかの器に作り替えた」(3-4)陶器作りは古くから、どこの土地でも行われていました。アナトテの近くに陶器師がいたことも、不思議ではありません。その辺りの土質はほとんど渇いた赤土ですが、それでも近くに地中海海抜下というエリコもあり、少しは良質の粘土が採取出来たのでしょうか、陶器作りが行われていました。陶器作りが盛んな日本でも、土探しには苦労するようですから、そんなパレスチナの風土で、苦労の多い陶器師を志す人は少なかったかと思われます。聖書にある陶器師の記事は、イザヤ書とエレミヤ書に目立つくらいです。しかし、日常の生活に陶器は欠かせません。そこで数少ない陶器師は、少しでもいいものを提供しようと苦労することになります。エレミヤは、陶器師が器を作り直す様子を一度だけ描いていますが、きっとその回数は、一度や二度ではなかったでしょう。神さまにうながされて彼は、恐らく、陶器師の苦労を初めて目にしたのです。

 「イスラエルの家よ。この陶器師のように、わたしがあなたがたにすることができないだろうか。−主の御告げ。−見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたも、わたしの手の中にある」(6)神さまは、ご自分を陶器師、イスラエルを粘土にたとえ、「この陶器師のように、わたしがあなたがたにすることができないだろうか」と主張されます。それは恐らく、17:14-18にある、エレミヤの祈りに応える形で告げられたものと思われます。「私を恐れさせないでください」(17)とは、災いの日に審判に耐えて神さまのもとに避け所を見出す者は、果たして預言者なのか、それとも預言者に敵対する者なのかと、そのときのエレミヤは弱り果て、「主はわが避けどころ!」と、確信をもって言うことが出来ない状態にあったことを物語っているようです。その不安が、この切ない祈りになったのです。今朝のテキストは、そんな信仰不安に陥ったエレミヤに応え、神さまが指示して見せた出来事でした。陶器師の作業を思い出しながら、エレミヤは神さまのことばを聞き、信仰の確信を取り戻したのでしょう。


U 神さまの前でどちらを?

 「わたしが、一つの国、一つの王国について、引き抜き、引き倒し、滅ぼすと語ったその時、もし、わたしがわざわいを予告したその民が、悔い改めるなら、わたしは、下そうと思っていたわざわいを思い直す。わたしが、一つの国、一つの王国について、立て直し、植えると語ったその時、もし、それがわたしの声に聞き従わず、わたしの目の前に悪を行なうなら、わたしは、それを与えると語ったしあわせを思い直す」(7-10)これは、陶器師の陶器を作り直す姿になぞらえた神さまの宣言です。神さまの決定に、粘土に過ぎないイスラエルは、いかなる異議も唱えることは出来ません。イザヤはより明確にこう言っています。「ああ、陶器が陶器を作る者に抗議するように、自分を造った者に抗議する者。粘土は、形造る者に、『何を作るのか』とか、『あなたの作った物には、手がついていない』などと言うであろうか」(45:9)もしかしたらエレミヤは、イザヤ書を読んでいたのでしょうか。いいえ、イザヤに語られた同じ神さまが、エレミヤにも語られたのです。エレミヤの100年前、その100年後も、イスラエルは、預言者たちに同じ悩みをもたらしていたと言えましょう。創造された者が創造主に向かい、「どうして?」とつぶやく。それは、私たちすべての人間にとって、根源的な問題です。

 根源的な問題。そのことを少し考えてみたいのですが、ここには、陶器師の決定とは全く違う要因が上げられています。ここに救いと破滅という二つのことが語られていますが、どちらを選択するのか、神さまはその選択をイスラエルの意志に委ねています。悔い改めるなら、彼らに下した破滅という決定を翻す、しかし、悔い改めず悪の道を歩み続けるなら、救いの道を閉ざすというのです。「悔い改め」と「悪を行なう」と二つ並べられているのは、神さまの目に叶う道を選択するか否か、その選択を彼らに迫っている、ということなのでしょう。つまり、アダムから始まり、モーセやアブラハムまで遡って、彼らをご自分の民とされた時からずっと、彼らの主・ヤハウェであり、神さまであり続けたお方を、彼らが神さまとするのか、それとも認めようとしないのか、という問いかけです。これがイスラエルの中心問題でした。これまでにもイスラエルは、何回も、数え切れないほどその問いかけを聞いて来ました。ほとんどの場合、彼らは答えて来なかったのですが、今、彼らはかつてない岐路に立たされ、神さまの前に立たされて、答えなければなりませんでした。「問いかけに答える」「神さまに応える」、それ自体、彼らの、いや私たち人間の、根源的な問題です。なぜなら、神さまが問いかけておられるからです。


V 神さまのくださる賜物を

 神さまの問いかけと私たちの応答。これについては、もう一歩踏み込まなければなりません。本来、神さまの私たちへの問いかけも、それに対する私たちの答えも、神さまにとって、全く必要ないものです。なぜなら、神さまは、私たちが「あなたは私たちの神さまである」と認定しなくても、神さまだからです。神さまが神さまであるために、私たちの認定など、全く必要ないのです。それにもかかわらず、神さまは、私たちに応答することを求めておられるのです。神さまが陶器師のように、一方的に私たちを造り、壊すことに「どうして?」と問う前に、そのことを考えてみなければなりません。

 神さまは私たちに、「あなたは私の神さまです」と認めることを望んでおられるのです。それは、私たちを創造された神さまの深い愛である、と言っていいでしょう。ここに、救いと破滅という二つの事柄を並べ、どちらを選択するかと問いかけながら、破滅を回避しようとしておられる神さまのお姿が見られます。ここには、イスラエルを救いたいという思いに傾いている、神さまの憐れみ、愛、期待が、色濃くにじみ出ているように感じられてなりません。人間同士でも、愛してくれる人の愛に応えることは極めて大切であるのに、まして、愛してくださるのは神さまであり、その神さまが、応えて欲しいと願っているのです。私たちは、人間同士のとき以上に、そのお方に誠実でなければなりません。しかし、その対応は、イスラエルだけでなく、いついかなる時代の民族も、極めて不誠実でした。

 陶器師になぞらえて言われた神さまのことばに、そんな思いを感じたのでしょうか。エレミヤは、こう聞きました。「さあ、今、ユダの人とエルサレムの住民に言え。『主はこう仰せられる。見よ。わたしはあなたがたに対してわざわいを考え、あなたがたを攻める計画を立てている。さあおのおの悪の道から立ち返り、あなたがたの行ないとわざとを改めよ』」(11)このテキストは、恐らくエホヤキム王末期の時代でした。「攻める計画」とは、すでに一部分実行されています。601年のバビロニヤ軍の侵攻は、まだエルサレムに届いてはいませんが、バビロンの手先となったカナン諸国の敵対者が、ユダの土地を荒らし回っていました。ユダは、ぎりぎりのところに立たされていたと言っていいでしょう。それなのに神さまは、「攻める計画」を撤回すると言われ、彼らユダの神さまでありたいと願っておられるのです。しかし、ユダは言います。「だめだ。私たちは自分の計画に従い、おのおの悪いかたくなな心のままに行なうのだから」(12)「これはいくら何でも当事者の言い分とは思われない。後代の付加だ」と見る人たちも多いのですが、これを預言者の代弁と見るなら、エレミヤの揺らいでいた信仰の確信が回復した、と言えるではありませんか。エレミヤは、再び真っ正面から、神さまと彼らの前に立ったのです。彼自身も陶器師の手になる器ですが、神さまにもユダにも有益な器でありたいと願っているのでしょうか。パウロが、「罪から来る報酬は死です。しかし、神のくださる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」(ロマ6:23)と言ったように。



Topページへ