預言者の系譜

エレミヤ 21
中心にはどんな名が?

エレミヤ 17:1−4
Tペテロ 4:12−19
T 祭儀宗教

 17章では断片的な様々な主題が扱われていますが、その中から一つだけ、1-4節にあるユダの祭儀に関わる問題点を、「ユダの罪と罰」として取り上げていきます。これは、現代人も抱えている中心問題の一つではないかと思われるからです。何が問題なのかも含め、見ていきましょう。

 ユダの祭儀礼拝はこれまでにも何度も扱われてきましたが、エレミヤはここで、ユダの祭壇信仰を描き出しています。「(ユダの罪は)鉄の筆(と金剛石のとがり)でしるされ、(彼らの心の板と)彼らの祭壇の角に刻まれている」(1)とあります。「ユダの罪」「彼らの心の板」「金剛石」を()に入れたのは、それらを省きますと、ユダの祭儀の様子が生き生きと描き出されると思われるからです。エレミヤ当時の祭壇を見ていませんので、想像になってしまいますが、恐らく、祭壇の角には、堅い鉄の筆でヤハウェの名が刻まれていたのでしょう。祭壇の構造については、出エジプト記27章に詳しく記されていますが、ここでは、祭壇の四隅の上につけられた「角」だけが取り上げられています。この角が何を意味しているのか不明ですが、動物の角が力を象徴していることから、神さまの力や権威が象徴されているのかも知れません。角は祭壇の中心部なのでしょう。アモス書に「イスラエルがわたしに犯したそむきの罪を、わたしが罰する日に、わたしはベテルの祭壇を罰する。その祭壇の角は折られて、地に落ちる」(3:14)とあり、「祭壇の角を折る」とは、祭壇が破壊されることを示しています。彼らの神さまへの祈りも涙も祭壇の角に向かっています。それが彼らの信仰でした。エレミヤの託宣は、この祭壇を中心とするユダの祭儀宗教に向かって語られている、と言っていいでしょう。ユダのヤハウェ信仰は、伝統的に祭儀礼拝によって培われていました。彼らの宗教は、基本的に祭儀宗教なのです。

 その祭儀は、もともと非常に素朴なもので、ヤハウェへの感謝の印として、自然石を積み上げ、信仰の現われとしてその岩の上に供物を供えるといったものでしたが、積み上げられ、供物を供えた岩が、やがてそのまま祭壇になりました。そんな素朴な祭壇には、東方文化が色濃くにじみ出ているようです。しかし、ひとたび祭壇が生まれますと、恐らく、カナンなど近隣民族の宗教の影響もあって、祭壇そのものがヤハウェ信仰に直結してしまいました。ユダの人たちは、エルサレムの神殿に詣でて祭壇に供物を献げるなら、自分たちの罪は帳消しになると信じていたのです。この場合の供物は、恐らく、動物の血を祭壇の角に塗るという、贖罪儀式だったのでしょう。確かに出エジプト記やレビ記などを見ますと、そのての規定が、幕屋時代を通して、祭儀宗教の儀式として定着していく様子が見て取れます。エルサレム神殿は、その祭儀儀式を引き継いでいました。


U ヤハウェと神々が

 アブラハムやモーセなどが遺した古い祭儀礼拝は、その時代時代に何らかの意味もあり、神さまに受け入れられていたのでしょうが、エレミヤまで時代が下りますと、祭儀礼拝はヤハウェだけでなく、イシュタル女神やバアル神まで含んだものに広がっていました。いくつもの祭壇が神殿内に並んでいたのか、それとも一つの祭壇が他の神々にまで使い回されていたのか。祭司たちも、それぞれの神々を分担していたのでしょう。今朝のテキストはエホヤキム王末期の時と思われますが、ヨシア王の宗教改革はことごとく無効になっていて、エルサレム神殿は様々な神々の陳列所といった様相を呈し、ヤハウェは他の神々と同列になっていました。「彼らの子たちまで、その祭壇や、高い丘の茂った木のほとりにあるアシェラ像を覚えているほどだ」(2)とあるのは、それを意味しています。アシェラ像とは、カナン宗教を代表する女神で、至るところの高い丘の上に木柱を立て、その周りで作物の豊穣を願うべく、娼婦や男娼との性交渉が行われていたようです。娼婦や男娼はミコだったのでしょうか。そんな風潮がエルサレム神殿にまで入り込んでいました。現代人は、それは古代社会のことでもあり、まして神殿絡みでもあるから、そんなこともあっただろうと、自分たちを枠外に置いてしまいがちです。しかし、「神々への信心など迷信!」とは言えない類似の盲信、それに伴う不道徳、いや、犯罪と言えるほどの深刻な事態が、現代社会を包み込もうとしていると言っていいのではないでしょうか。ここに言われる祭壇の角は、古代ユダヤ人だけのことではなく、現代の私たちにも関わることなのです。祭壇の角は彼らユダヤ人の中心でした。そしてそれは、私たちの中心でもあります。その中心に今、私たちは何を刻みつけようとしているのでしょうか。それが問われていると覚えなければならないでしょう。

 1節から先ほどの括弧をはずしますと、「ユダの罪は鉄の筆と金剛石のとがりでしるされ、彼らの心の板と彼らの祭壇の角に刻まれている」となり、ヤハウェの名が刻まれた祭壇の下で行われているユダの罪がどんなに厳しく断罪されているか、はっきりして来るではありませんか。金剛石はダイヤモンドです。祭壇の角には、ヤハウェの名の隣に、イシュタルやバアルやアシェラなど別の神々の名が刻まれていました。ヤハウェの選びの民であると、それを世界に誇っていたユダに、あり得ないことが起こっていたのです。世界の宗教志向はほとんどそうした方向ですが、イスラエルを知っている人たちにとって、それは退廃としか映りません。「彼らの子たちまで、その祭壇やアシェラ像を覚えているほどだ」と言われるのは、彼らの罪が、その時代の人々に、そして後の世の人々にも、露わになるということなのでしょう。その通り、ユダの民のバビロン捕囚は、神さまの刑罰として、全世界の人たちに、現代の私たちにまで知れ渡ることになりました。


V 中心にはどんな名が?

 世界中に知れ渡ったユダヤ人の不幸は、バビロン捕囚という大昔の出来事によってだけでなく、近年の、ナチによるアウシュビュッツの虐殺によって世界中に知られています。ユダヤ人たちは、そんなすべての不幸を、祭壇の角にヤハウェの名を刻むことをないがしろにした、自分たちの罪であると嘆いています。エルサレムの嘆きの壁の前に行くと、今も、涙を流しながら胸を叩いている人たちを見ます。しかし、祭壇の角に違う名を刻んだのは、ユダヤ人だけではありません。

 私たちの中心にある祭壇の角にどんな名が刻まれているのか、恐らく、個々人それぞれ違うでしょう。はたまた、その名が刻まれた中心部は、祭壇の角という特定宗教であったり、疑似宗教であったりすることは少なく(今、雨後の筍のように発生している「スピリチュアル」は、現代人の宗教への回帰を物語っているようですが)、恐らく、その大半は、何らかの現代思想や、もしかしたら自我であるかも知れません。しかし、その中心部に刻まれた名が、神さま・ヤハウェに敵対しているのです。ヤハウェという名は、昔からユダヤ人が大切にして来た神さまの名前ですが、ヤハウェは、ユダヤ人だけの神さまではないのです。その方は、天地万物を創造され、人間をお造りになった、唯一全能の、私たちに恵みを与えようとしておられる神さまです。私たちの中心に刻まれた名が、私たちにいのちの息を吹き込まれた神さまの名前でないことが、現代人の問題なのです。しかし覚えて頂きたいのですが、救いはその方から来るのです。私たちが主と呼び、キリスト(救い主)と呼ぶ、十字架に掛かって私たちの罪のために血を流されたイエスさま、と言い換えてよいでしょう。「キリスト者(クリスティアノス・キリストに似た者)」は、その名前を心の中心に刻み込んだ人々を指して言われて来ました。

 今、エレミヤがそこまで言っているわけではありませんが、「わたしはあなたの財宝、すべての宝物を、獲物として引き渡す。あなたの国中にある高き所の罪のために。あなたは、わたしが与えたあなたの相続地を、手放さなければならない。また、わたしは、あなたの知らない国で、あなたを敵に仕えさせる。あなたがたが、わたしの怒りに火をつけたので、それはとこしえまでも燃えよう」(3-4)とあるように、現代、「混乱=破滅」がますます広がることが懸念されるその背景には、私たちの中心に刻まれた名が神さま(救い主)でない、ことが挙げられるのではないでしょうか。それは私たちの罪に他なりません。罪に向かって燃え上がる神さまの怒りを、今、覚えて頂きたいのです。



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