預言者の系譜

エレミヤ 19
信実な神さまが

エレミヤ 15:10−21
Tヨハネ 5:18−21
T 母よ。どうして?

 今朝のテキスト(10-11、15-18)は、エレミヤの告白録であり、そこに主の応答(19-21)が加えられるという構成になっています。彼の告白録と呼ばれるものは他にも(12:1-、16:1-、20:7-など)ありますが、今朝のテキストは、その中で最も有名な箇所として知られています。「ああ、わたしは災いだ。わが母よ、どうしてわたしを産んだのか。国中でわたしは争いの絶えぬ男、いさかいの絶えぬ男とされている。わたしはだれの債権者になったことも、だれの債務者になったこともないのに、だれもがわたしを呪う。主よ、わたしは敵対する者のためにも、幸いを願い、彼らに災いや苦しみの襲うとき、あなたに執り成しをしたではありませんか」(10-11新共同訳) 新改訳では、11節は主のことばとされていますが、恐らく、エレミヤの祈りでしょう。念のために付け加えておきますが、13-14は、非常に良く似た17:3-4から組み込まれたものであろうとされていますので、ここでは取り扱いません。

 10-11と15-18は編集過程で一つにまとめられましたが、恐らく、別々の時に語られた告白録ですから、分けて見なければならないでしょう。まず10-11からです。BC597年、押し寄せるバビロニヤ軍の怒濤が聞こえて来る、そんな危機を前に、パニックになった人々は、破滅はエレミヤがもたらしたものだと責め立てています。エレミヤは、人々のそんな激しい非難に耐えることができません。「ああ、わたしは災いだ。わが母よ、どうしてわたしを産んだのか」という彼の嘆きは、痛ましい声として私たちに届きます。彼女はまだアナトテにいるのでしょうか。エレミヤの年齢(当時、多分50才前後)を考えますと、他界していたかと思われます。そうでなくても、80才を超えた老年になっていたでしょう。エレミヤはアナトテに飛んで帰りたいのでしょうが、そこには自分の命を狙う親族たちがいます。すがりつくところのない預言者は、神さまに祈るしか、癒やしの場がありません。「主よ、わたしは敵対する者のためにも、幸いを願い、彼らに災いや苦しみの襲うとき、あなたに執り成しをしたではありませんか」(新共同訳)とは、悲痛なエレミヤの祈りでした。「だれが鉄、北からの鉄や青銅を砕くことができようか」(12)とあります。これを意味不明と切り捨てる注解者もいますが、それは祈りであり、神さまが守ると約束された自分の命の安らぎを願い、その約束を思い出して欲しいと言っているのでしょう。エレミヤの危険が、身近に迫っていることを窺わせてくれます。バビロニヤ軍の到着・攻撃が早いのか、それとも自分の命の消滅が早いのか、それほどまでに、南王国もエレミヤも、ぎりぎりの瀬戸際に立たされていました。預言者として、神さまへの絶対的な信頼を学んで来たはずのエレミヤですが、国中の人たちを相手に、一人で立ち向かっています。そこに彼の弱さが出たからと言って、彼を責めることができるでしょうか。しかしここには、かすかながら、彼の神さまへの信頼が、見え隠れしているようです。


U 緊張の糸が

 エレミヤの、そんなかすかな神さまへの信頼が息を吹き返します。その信頼を思い出すまでに、いくらか時間がかかったようですが、別の、もう一つの告白録が生まれました。「主よ。あなたはご存じです。私を思い出し、私を顧み、私を追う者たちに復讐してください。あなたの御怒りをおそくして、私を取り去らないでください。私があなたのためにそしりを受けているのを、知ってください。私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって、楽しみとなり、心の喜びとなりました。万軍の神、主よ。私にはあなたの名がつけられているからです。私は、戯れる者たちの集まりにすわったことも、こおどりして喜んだこともありません。私はあなたの御手によって、ひとりですわっていました。あなたが憤りで私を満たされたからです。なぜ、私の痛みはいつまでも続き、私の打ち傷は直らず、いえようともしないのでしょう。あなたは、私にとって、欺く者、当てにならない小川のようになられるのですか」(15-18)ここに「復讐」とあるのは、前述したように(メッセージ14・11:15-23)、神さまの尊厳と力の発動を願うエレミヤの祈りであると聞かなければなりません。エレミヤが憎まれ、迫害されているのは、神さまのゆえだからです。

 今のエレミヤは、神さまのことばのただ中にだけ喜びや楽しみがあるという、他の人たちとは全く異なる世界に生きる者となっています。神さまのことばを聞くということが、日々の食事をとることと同じになっていたのです。裏を返すとそれは、他の人たちが楽しみ集う場所は、もはやエレミヤの場所ではなくなっていたと言うことです。彼は、まるでユダ王国の一員ではないかのように、白い目で見られています。イスラエルの預言者は、伝統的に、「預言者学校」と呼ばれる預言者集団に属していました。一人の預言者に何人もの弟子たちがついていて、「先生」が語る託宣を弟子たちは学びながら方々に伝えるのです。エリヤ以来、それがイスラエルの預言者の伝統でした。ときにはその預言者集団にスポンサーがつき、そのスポンサーのために、神さまの祝福のことばを語ることもありました。そんな集団はしばしば「偽預言者」と呼ばれていましたが、恐らく、厳しいことばを語る預言者には、スポンサーも付きません。スポンサーどころか、エレミヤには、従う弟子たちもいませんでした。若干のシンパはいましたが、弟子は書記のバルクだけだったようです。

 この告白録で神さまのことばを喜んでいると言いながら、エレミヤは傷つき、迫害者たちの前で緊張の糸が切れそうになっていたと、鈍感な私たちでも想像出来るではありませんか。


V 信実な神さまが

 そんなエレミヤに、神さまの応答がありました。「もし、あなたが帰って来るなら、わたしはあなたを帰らせ、わたしの前に立たせよう。もし、あなたが、卑しいことではなく、尊いことを言うなら、あなたはわたしの口のようになる。彼らがあなたのところに帰ることがあっても、あなたは彼らのところに帰ってはならない。わたしはあなたを、この民に対し、堅固な青銅の城壁とする。彼らは、あなたと戦っても、勝てない。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い、あなたを助け出すからだ。−主の御告げ−また、わたしは、あなたを悪人どもの手から救い出し、横暴な者たちの手から助け出す」(19-21)

 エレミヤは、自分の命を付け狙う者たちにおびえ、神さまのことを忘れていました。たとえ祈っていても、彼は神さまの近くにはいなかったのです。「かすかだった神さまへの信頼を取り戻した」というのは、そんな中で、神さまと共にある喜びや楽しみを思い出したということなのでしょう。彼の信仰は、どん底まで陥ちていたのでしょうか。しかし、再び預言者として立つために、そのどん底は必要だったのかも知れません。悩みと苦しみが極限にまで来て、神さまの応答が聞こえたのではと想像します。神さまと私たちは余りにもかけ離れていて、私たちの理性や経験など、神さまの御旨を知るために、何の役にも立ちません。しかし、祈りにさえならない苦悩のうめきが、神さまの耳に届いていくのです。私たちはそのことを知らなければなりません。

 そんな絶望の淵にあったエレミヤに、神さまのことばが届きました。「あなたが、卑しいこと(を語らず)」「あなたは彼らのところに帰ってはならない」とあるのは反語であって、それは、エレミヤが知らず知らずのうちに、彼らイスラエルの側に立とうとしていたことを意味しています。少なくとも、神さまの目にはそう映っていたのです。しかし、厳しい表現ですが、それは拒否ではありません。神さまはエレミヤに、愛の手を差し出してくださったのです。以前にも聞いた約束(1:18)が語られました。「あなたを青銅の城壁とする」 それは決して単なる繰り返しではありません。なぜならそれは、弱り果てたエレミヤの祈りを、今、「聞いた」と応えてくださった、神さまの約束だからです。たとえ私たちが不信実であっても、信実である神さまが私たちの神さまであると覚えたいではありませんか。ヨハネのことばを聞きましょう。「私たちは、真実な方に、すなわち神の御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです」(Tヨハネ5:20)十字架におかかりになったイエスさまが、私たちの希望の約束となってくださったのです。そのお方につくことを願いましょう。私たちの弱さを知り、祈りを聞き、愛し、私たちを立ち上がらせてくださるお方に!


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