預言者の系譜

エレミヤ 17
救いの手が?

エレミヤ 13:20−27
ロマ    1:14−17
T 眼を上げて見よ

 今朝のテキストは、20-27節からです。新改訳や新共同訳は18-21節を一括りにしていますが、岩波訳はこれを分けており、そちらの方が適切と思われますので、その分類に従います。18-19節は王と王母に対する叱責で、王は恐らくエホヤキムのことでしょう。20-27節はそれとは独立しており、エルサレムに対して言われたものです。新共同訳はそれを意識しているのでしょうか。18-19節と20-27節を区切ってはいませんが、20節の「あなたがた」を「あなた」と単数にしており(以下27節まではどの訳も単数)、20-27節が一括りであることを示しているようです。

 「あなたがたの目を上げ、北から来る者たちを見よ。−あなたに賜った群れ、あなたの美しい羊の群れはどこにいるのか− あなたは彼らを最も親しい友として、自分に教え込んでいたのに。主があなたを罰するとき、あなたは何と言おうとするのか。苦痛があなたを捕まえないだろうか。子を産む女のように。あなたが心の中で、『なぜ、こんなことが、私の身におこったのか』と言うなら、それは、あなたの多くの咎のために、あなたのすそはまくられ、あなたのかかとがそこなわれたからだ」(20-22)ギリシャ語70人訳では、「眼をあげよ。エルサレム」と20節が始まります。ヘブル語のマソラ本文は、エルサレムと明記してはいませんが、暗示はしているようです。もともと原典にはなかったようですが、27節に「エルサレムよ」とあることから、挿入したのでしょう。主は、「あなたの美しい羊の群れはどこにいるのか」と問いかけます。エルサレムの状況は、「北から来る者たちを見よ」とあるように、極めて深刻になりつつあります。「彼らを最も親しい友として、自分に教え込んでいた」この彼らとは、外国人のことです。イスラエルは、アハズ王の時代からずっと、エジプトや東の両大河流域の強大国に頼って生き延びようとして来ました(イザヤ7章参照)。彼らの異教的習慣を取り入れて来たのも、イスラエルが生き延びるための、必死の知恵だったと言えるのではないでしょうか。しかし、頼みとする外国人たちは、彼らイスラエルが願うように、娘を愛でる父親のような存在ではありませんでした。「自分に教え込んでいた」とあるところを、岩波訳は「彼があなたを訪れる時に、あなたは彼らを、最も親しい友と思い込んでいたのに」と訳しますが、ある注解者はもっと踏み込んで、「これらの情夫に慣れ親しんで来た」と訳しています。意訳ながら、まことに的を射た適訳であると思われます。イスラエルとそれら強国は、そんな関係でしかないのです。「情夫」が聞き苦しいなら、「男友達」とでも言ったらいいでしょうか。強国は女友達を、たちまち奴婢にしてしまうのでしょう。エホヤキム王は、自分を王位に着けてくれたエジプトに頼ろうとしますが、エジプトは彼を奴隷のように扱いました。そして、襲いかかって来るバビロニアは、エジプトより数倍横暴な主人になるのです。


U 罪に慣れ親しんで

 「クシュ人がその皮膚を、ひょうがその斑点を、変えることができようか。もしできたら、悪に慣れたあなたがたでも、善を行なうことができるだろう」(23)エレミヤ書の中で、最も良く知られている箇所の一つです。エレミヤは、当時の格言を引いて、自分のメッセージに代えたと思われますが、この格言がいかなる意味で語られたにせよ、エレミヤが意図したメッセージは、このときのユダとエルサレムの人たちにとって、聞かなければならない、極めて大切な中心主題でした。

 「罪」とは、人間が本来生まれ持って来たものではありません。原罪がアダムによって人間の中に入り込んで来たと言われ、それがキリスト教神学の中で重要な位置を占めていますが、その原罪が私たちの中で大きく膨らんだとしても、私たちは断じて、「罪」を本性とはしていないのです。私たちは神さまに創られた者なのです。宗教が人の心にかくまで深く入り込んで来ているのは、神さまの痕跡を求めてのことであろうと言われていますが、無神論が主張されるのも、同じことであろうと指摘されています。恐らく、その通りでしょう。しかし、あたかもそれが生来の本性でもあるかのように、私たちは悪に走っています。そして咎められると、「原罪があるから」と人ごとのように言って、涼しい顔をしているのです。原罪という認識はユダヤ教神学にはありませんでしたが、恐らく、エレミヤの時代にもそんな感覚があったのでしょうか。自分の罪と向き合って、なお平然としていることは出来ません。まして、その罪を指摘し、断罪してやまない預言者や神さまの前には立ちたくもないと思うのは、エルサレムの人たちばかりではありません。現代の私たちも同じではないでしょうか。

 しかし、ただ一つ、例外があります。それは、時間をかけて「罪」に浸り続けることであり、それに慣れてしまうことです。そうなったら、たとえ預言者に見られ、神さまに詰め寄られても、平気になってしまいます。「クシュ人がその皮膚を、ひょうがその斑点を、変えることができようか」という格言でさえ、反語ではなかったのかと思われて来るほどです。「異教の神さまの祭壇に供犠を献げて何の不都合があろうか。ごちゃごちゃ言うな!」これが彼らの言い分です。しかし、これが罪というものの本質ではないでしょうか。罪に慣れ親しむことで、それが人間の第二の本性になってしまった。その結果、人は罪を犯さずにはいられなくなってしまったのです。「人は罪の奴隷になった(ヨハネ8:34)」と或る注解者が指摘していますが、その通りなのでしょう。その注解者はさらに言っています。「旧約預言者の、このように深い罪認識から、人間の罪の赦しという神よりの救済の必要性が生じてくる。そしてこれは、旧約聖書から新約聖書へと受け継がれていく基本線のひとつとなる」(ATD旧約聖書注解「エレミヤ書上」A・ワイザー) まさに、その通りなのでしょう。


V 救いの手が?

 「わたしは、彼らを、荒野の風に吹き飛ばされるわらのように散らす。これがあなたの受ける割り当て、わたしがあなたに量り与える分である。−主の御告げ− あなたがわたしを忘れ、偽りに依り頼んだためだ。わたしも、あなたのすそを、顔の上までまくるので、あなたの恥ずべき所が現われる。あなたの姦淫、あなたのいななき、あなたの淫行のわざ−この忌むべき行ないを、わたしは、丘の上や野原で見た。ああ。エルサレムよ。あなたはいつまでたっても、きよめられないのか」(24-27)

 悪に慣れ親しんだエルサレムの様子が、「あなたの姦淫、あなたのいななき、あなたの淫行のわざ−この忌むべき行ないを、わたしは丘の上や野原で見た」と、婦人の淫行という伝統的なたとえをもって明らかにされます。「丘や野原で」とは、もはやその淫行は白日のもとで行われているという意味でしょう。「いななき」もそうです。もはや彼女は、淫行にふけるその快楽を隠そうともせず、馬のように高らかにいなないていると。イシュタル女神やバアル神など、異教の神々への祭儀がこんなにまで官能的な光景として描かれているのは、まさにそれらの祭儀そのものが、実際そんなふうだったからでしょう。その淫行の象徴である、彼女の恥部をまくり上げて露わにすると、これは神さまの宣言です。彼女の恥部は、恐らく、侵攻して来るバビロニアや周囲のカナン諸民族など、彼女(エルサレム)が恋い慕う外国人たちの目に曝されます。イスラエルは唯一の神さまヤハウェを信じる者たちだと、その純潔や誠実や一途さなどが、世界の諸民族から賞賛されていました。それが頑固な民族という批判にもなっていたのですが、世界はそのエルサレムを、驚嘆の目で見つめていたのです。それが無残にも崩れ去ってしまいます。「彼らを荒野の風に吹き飛ばされるわらのように散らす」とあります。藁のように世界中に散らされる(ユダヤ人がディアスポラとなる)ことによって、イスラエルが神さまの審判を受けたことが人々に知らされる、と聞いていいのではないでしょうか。「いつまでなのか」(27)と、最後の問いがあります。残念ながらここには、彼らに伸ばされる「救いの手」は、その痕跡さえ見当たりません。聞く耳を塞いでしまった彼らに、神さまの救いは永遠に遮られてしまったのでしょうか。然りとも然らずとも、それを言う資格は私たちにはありません。私たちも、そんなエルサレムと同じだからです。しかし、聞く耳があるなら、パウロのことばに聞いて頂きたいと願います。「(イエスさまの)福音は、ユダヤ人にもギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神さまの力である」のです。


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