預言者の系譜

エレミヤ 16
聞こえて来ますか?

エレミヤ 13:1−14
使徒  3:17−26
T 神さまとの契約に

 この13章で語られる帯と酒壺の二つの物語は、エレミヤの預言形態という意味で興味深いものです。この二つは、恐らく別々のときに語られたものですが、編集過程でここにまとめられたと思われます。ですから、一緒に取り扱っていいものかどうか迷うところですが、特異な預言形態ということで、この二つを一緒に取り上げることに致します。最初は「帯」のメッセージ(1-11)からです。

 まず、非常に単純な、この物語の経過をなぞって見ましょう。「行って、亜麻布の帯を買い、それを腰に締めよ。水に浸してはならない」(1)エレミヤはその通りにしました。「あなたが買って腰につけているその帯を取り、すぐユーフラテス川へ行き、それをそこの岩の割れ目に隠せ」(4)エレミヤは言われた通りにしました。多くの日を経て後、神さまはまた言われました。「すぐユーフラテス川へ行き、わたしが隠せとあなたに命じたあの帯を取り出せ」(6)取り出すと、その帯は腐っていて、使い物になりませんでした(1-7)。物語は以上です。エレミヤがユーフラテス川まで、1000q近くの距離を二回も往復しているのは、何らかの表象か黙示であって、バビロニヤ捕囚と帰還が語られているのだろうと考える人たちもいますが、恐らく、これは実際にあったことだろうと思われます。なぜなら、それは神さまから出たことだからです。ところで、この帯の出来事は、なぜ必要だったのでしょう。余計なことかも知れませんが、考えてみたいと思います。ここでは何も触れられていませんので想像だけですが、エレミヤは、何度も神さまからのメッセージとしてバビロンによる滅亡を語ったのに、誰も本気にしません。彼らに本気で聞いてもらうために、恐らく、一年近くもの時間をかけて、二回もユーフラテス川に出かけて行く必要があったのでしょう。このメッセージは、そんな神さまとの取っ組み合いによって生まれたものなのです。現代の私たちにとっても、毎週の礼拝で語られ、聞かれるメッセージが、これほどまでの時間と労力が重ねてられているかと、問われてしかるべきでしょう。せめて、預言者の費やした時間と労力に迫っていきたいと思います。

 さて、帯はイスラエルの民にとって、男性の服装の飾りであり、戦闘時に身を引き締めるためのものでした。恐らく、それは神さまとの契約を指しているのでしょう。その帯が長い捕囚期間にぼろぼろに腐り、役立たずになってしまった。帰還時にエレミヤはもういませんから、役立たずになったということが何を意味しているのか、それに対する記述は一切ありませんが、その長い期間を、神さまは、イスラエルの犯した罪にもかかわらず、イスラエルを忍耐し、担って来られたと言っているのかも知れませんし、或いは、イスラエルが長い間に何度も襲って来た滅亡の危機を、神さまの支えで切り抜けることが出来たと言っているのかも知れません。いづれにせよ、「長い期間」と「帯が腐る」という表象が、イスラエルと神さまとの契約に関わっているのは間違いないでしょう。


U 腐った帯のように

 エレミヤがユーフラテス川を二度も往復したということは、神さまから出たことでした。ですから、その表象が何を意味するのか、それは重要でした。そのことに関し、神さまが語られます。「主はこう仰せられる。わたしは、ユダとエルサレムの大きな誇りを腐らせる。わたしのことばを聞こうともせず、自分たちのかたくなな心のままに歩み、ほかの神々に従って、それに仕え、それを拝むこの悪い民は、何の役にも立たないこの帯のようになる。なぜなら、帯が腰に結びつくように、わたしは、イスラエルの全家とユダの全家をわたしに結びつけた。−主の御告げ−それは、彼らがわたしの民となり、名となり、栄誉となり、栄えとなるためだったのに、彼らがわたしに聞き従わなかったからだ」(9-11) 「ユダとエルサレムの大きな誇りを腐らせる」とありますが、大きな誇りとは、「ヤハウェの民となり、名となり、栄誉となり、栄えとなる」ことに他なりません。ユダとエルサレムは、神さまの民でした。「ユダとエルサレム」という言い方は、北の10部族連合と比べた言い方なのでしょう。北イスラエル王国は、ダビデによって統一イスラエル国家に組み込まれましたが、もともとはヤハウェを王とする伝統のアンフォクチオニーの一員でした。ダビデへの神さまの契約、聖所エルサレムを中心とする聖なる民とするという契約に納得し、統一王国加盟に同意したのです。ところが、ソロモンとその子レハベアムによってその契約が反故にされて統一王国を離脱、以前のアンフォクチオニーにも戻らず、彼らは聖所を定めることができません。北イスラエル王国はそのままずるずると、ヤハウェ信仰からカナンの神々を祀る異教の祭儀宗教へと変身し、ついに滅亡へと突っ走ってしまいました。ユダとエルサレムは、そんな北王国を反面教師にしなければならなかったのに、「自分たちは栄光あるダビデ王国の末裔」という、ダビデ契約による選びの民という、うわべだけの栄光にしがみつき、それを誇りにしながら、しかし、内実は北王国と同様、異教の神々を祀る供犠宗教に堕していきました。そこではもはや、「ヤハウェの民となり、名となり、栄誉となり、栄えとなる」という大きな誇りなど、ユーフラテス川の水に漬かって腐った帯のようになっていました。

 神さまの前からその飾りが取り去られてしまったのに、彼らはその生き方を変えようとはしません。そんなユダヤ人のありようは、現代にまで続いているようです。それはユダヤ人だけではなく、私たち現代人も、創造主の最高傑作として造られたのに、まるで腐った帯のように、動物や植物など、あらゆる自然界の被造物の上に君臨し、好き勝手に絶滅危惧種等を増やし続けています。創造主を恐れなければならないのは、私たち現代人ではないでしょうか。


V 聞こえて来ますか?

 もうひとつのことです。恐らく、別のときにエレミヤにあった主の託宣と思われます。
「あなたは彼らにこのことばを伝えよ。『イスラエルの神、主は、こう仰せられる。すべてのつぼには酒が満たされる。』彼らはあなたに、『すべてのつぼに酒が満たされることくらい、私たちは知りぬいていないだろうか。』と言うが、あなたは彼らに言え。『主はこう仰せられる。見よ。わたしは、この国の全住民、ダビデの王座に着いている王たち、祭司、預言者、およびエルサレムの全住民をすっかり酔わせ、彼らを互いにぶつけ合わせて砕く。父も子とともどもに。−主の御告げ−わたしは容赦せず、惜しまず、あわれまないで、彼らを滅ぼしてしまおう』」(12-14) これは宴会の模様です。恐らくその宴会は、何らかの祝祭日に行われていたのでしょう。もしかしたら、神殿内庭での光景だったのかも知れません。昔から行われていたヤハウェの祝祭祭儀では、飲めや歌えといったどんちゃん騒ぎはありませんでしたから、ここにもイシュタル女神やバアル神といった異教の祝祭が顔を覗かせているようです。その宴会を覗いたエレミヤが、皮肉たっぷりに言います。「酒壺は酒が満たされるためのものなんでしょうね」「そうよ。おれたちは酒壺なんだから、もっともっと飲まなきゃ!」 酒飲みにとっては、もう飲めないというところまで飲みたいし、酔っ払いたいものなのでしょうか。それも次第に際限がなくなっていきます。ヨハネの福音書にある「カナの婚礼」(2:1-11)では、一週間も飲み続け、それなのに、ぶどう酒が足りなくなるのは恥ずかしいという意識が見え隠れしていますが、きっと、イスラエルの現状がそうだったのでしょう。彼らは今、酒飲み特有の甘美なエクスタシーに陥っています。もはや自己分裂と内部崩壊の危機に直面しているのですが、それを預言者から指摘されると、「そんなことくらい知っているさ」と言いながら、その泥沼からますます抜けられなくなっています。その状態が酒壺のたとえで言われているのでしょう。

 しかし彼らは、「知っている」と言いながら、神さまの審判にまで思い至りません。これも現代に重なります。腐った帯のように、大切なものを見失ってうろうろしていることも、自分を酒壺にして狂おしいまでに自己崩壊に陥って行くことも、神さまから遠く離れていることなのです。このイスラエルの問題は、私たちの問題でもあります。私たち自身の問題が私たちの前に立ちはだかっていることを認めようではないかと、エレミヤと、そこに重なるペテロのメッセージが聞こえて来るではありませんか。「あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい」(使徒3:19)と。


Topページへ