預言者の系譜

エレミヤ 15
主がなさることを

エレミヤ 12:1−13
ヘブル書 4:10−13
T なぜ?

 エレミヤが預言者として召されたのは、ヨシア王の治世13年・BC627年のことですが、それからずっと、エレミヤは神さまのメッセージを忠実に語って来ました。今まだバビロニヤ軍は来ていません。恐らくそれは、エホヤキムが一度服従したバビロニヤに背いた601年頃と思われますが、彼が活動を始めて26年ほど経っています。エレミヤが語ってきたメッセージにはさまざまな内容が含まれていますが、一貫して言えるのは、イスラエルの民は神さまに対して罪を犯した、それゆえ彼らは神さまから罰を受けなければならない、というものでした。しかし彼らは、どんなに悔い改めを促しても悔い改めず、エレミヤの警告を聞こうともしません。彼らは、依然として異教の神々を慕い、罪を犯し続け、こともあろうに、神さまのメッセージを伝えるエレミヤの命まで奪おうとしているのです。そんなエレミヤの胸に、一つの疑問が沸きました。「主よ。私があなたと論じても、あなたのほうが正しいのです。それでも、さばきについて、一つのことを私はあなたにお聞きしたいのです。なぜ、悪者の道は栄え、裏切りを働く者が、みな安らかなのですか」(1)エレミヤにとって、神さまの裁きは中断していると映ったのでしょうか。これは彼の内面に生じた、信仰の苦悩とでもいうべき、彼の根本に関わる問題でした。彼はここで、自分の正しさを主張しているのではありません。「悪者」と断じているのも、自分の判断からではなく、これまでに語られた託宣と神さまのメッセージに基準を置いてのことでした。彼はこう問いかけました。「神さま、あなたは悪者と断じた者たちを、なぜいつまでも放置しておられるのですか?」

 「あなたは彼らを植え、彼らは根を張り、伸びて、実を結びました。あなたは、彼らの口には近いのですが、彼らの思いからは遠く離れておられます。(4b:人々は、『彼は私たちの最後を見ない』と言っているのです。=元来ここにあったとする注解者がいる)主よ。あなたは私を知り、私を見ておられ、あなたへの私の心をためされます。いつまで、この地は喪に服し、すべての畑の青草は枯れているのでしょうか。そこに住む者たちの悪のために、家畜も鳥も取り去られています」(2-4、3bは11:20に移したので省き、4bも2節に続けている。そのほうが自然) 神さまに絶対の信頼を置いているエレミヤの、深い深い悩みが聞こえて来るようです。


U 預言者の信仰が

 しかしそれは、その人と神さまとの事柄であって、自分が関わることではないとエレミヤは承知していました。しかしエレミヤには、神さまのメッセージを語った責任があります。「彼らを、ほふられる羊のように、引きずり出して、虐殺の日のために取り分けてください」(3b)、これは報復の祈りのように聞こえますが、エレミヤが神さまのなさることにすべてを託した、神さまの尊厳と御力が実行されることを願ったものである、と前回触れました。エレミヤは、彼らが罰を受けることを願っているのではなく、むしろずっと、彼らの赦しを神さまに願って来ました。しかし彼らはいつも、自分たちのしたいように気ままに生き、しかも安らかで平安なのです。その平安は、神さま、あなたが与えたものですか? そうした問いかけは、現代の私たちにもしばしば沸き上がってくる、信仰者ゆえの疑問ではないでしょうか。その問いかけに答えを見いだせないまま、信仰から離れてしまった方たちを何人も見て来ました。きっとエレミヤも、そんな信仰の危機とでもいうべきところに突き当たり、苦しんでいたのだろうと思われます。

 そんなに苦しみながら、なぜ信じているのか?と不思議に思われるかもしれませんが、イエスさまを信じる者には、それは地球より重い問いかけなのです。しかし現代人には、ここまで悩んで神さまのなさることに疑問を感じると、もう神さまなんていらない、神さまなんていないのだと、あっさり教会から離れてしまう傾向があります。けれども、エレミヤの前には、疑いもなく生きて御力を行使される神さまがおられ、彼に語りかけていました。「あなたは徒歩の人たちと走っても疲れるのに、どうして騎馬の人と競争できよう。あなたは平穏な地で安心して過ごしているのに、どうしてヨルダンの密林で過ごせよう」(5)(6節は11:18のあとに移行) 神さまの答えは、エレミヤが期待したものとは違っていました。エレミヤが期待したのは、想像でしかありませんが、彼が今直面している、神さまへの信仰と内面に芽生えた人間不信との間に生まれた、葛藤と緊張を解きほぐして欲しいということではなかったかと思われます。なのに神さまは、彼の疑問と嘆きをこともなげに却下されました。「もし、あなたが大人と一緒に歩く子どものように、すぐに疲れて、歩くことが出来なくなったり、安全なところにいるときだけ安心できるなら、もっと事態が深刻になったとき、一体どうしようというのか」 ここに、神さまとエレミヤの根本的思考の違いが浮き出ているのでしょうか。いや、むしろ対立していると言っていいのかも知れません。きっと神さまは、彼らの悪に対し、何かをなさるのでしょう。しかし、それは神さまのことであって、エレミヤの関知することではないのです。ですからエレミヤは、「なぜ?」と問わなくてもいいのです。人間的思惟によってではなく、ただ神さまのなさることに、神さまの決断に信頼することが要求されているのです。エレミヤは、それを覚えなければなりませんでした。「なぜ?」は、神さまへの信仰には不要なことです。「人」への関わりは、神さまのメッセージを伝えることだけで十分だったのでしょう。エレミヤは、その問いを放棄することを求められました。それがエレミヤが確立しなければならない信仰だったのです。3bで「エレミヤは神さまのなさることにすべてを託したのであって、神さまの尊厳と御力が実行されることを願っている」と触れましたが、それがここでも確立されなければなりませんでした。現代の私たちへの、答えのようにも思われます。


V 主がなさることを

 「私は、私の家を捨て、私の相続地を見放し、私の心の愛するものを、敵の手中に渡した。私の相続地は、私にとって、林の中の獅子のようだ。これは私に向かって、うなり声をあげる。それで、私はこの地を憎む。私の相続地は、私にとってまだらの猛禽なのか。猛禽がそれを取り巻いているではないか。さあ、すべての野の獣を集めよ。連れて来て、食べさせよ。多くの牧者が、私のぶどう畑を荒らし、私の地所を踏みつけ、私の慕う地所を、恐怖の荒野にした。それは恐怖と化し、荒れ果てて、私に向かって嘆いている。全地は荒らされてしまった。だれも心に留める者がいないのだ」(7-11)

 新改訳では、一人称を「わたし」(神さま)と「私」(人間)に区別し使い分けているのですが、こここの「私」は、エレミヤであるという意思表示なのでしょう。これは古くから議論のあるところで、宗教改革者・ツヴィングリはこれをエレミヤとしているようですが、この一人称は「わたし」、つまり、神さまと聞くほうがいいでしょう。なぜなら、これは神さまの嘆きであって、預言者の「なぜ畑の青草が……」(4)という嘆きに応じた、神さまの怒りと嘆きであると聞こえてくるからです。恐らく、今朝のテキストは、エホヤキムが一度服従したバビロニヤを裏切ったときのことで(U列王記24:1、601年)、エホヤキムの背反を怒って侵攻して来たバビロニヤ軍に歩調を合わせ、近隣の諸民族がユダの町々を略奪しに侵入して来る、その様子が語られているのでしょう。それはイスラエル自身が招いたことであり、ここでエレミヤと神さまの嘆きと怒りが共鳴しています。それは必ず起こるとエレミヤは確信し、預言者のことばが神さまのことばに重ねられています。「荒野にあるすべての裸の丘の上に、荒らす者が来た。主の剣が、地の果てから地の果てに至るまで食い尽くすので、すべての者には平安がない。小麦を蒔いても、いばらを刈り取り、労苦してもむだになる。あなたがたは、自分たちの収穫で恥を見よう。主の燃える怒りによって」(12-13) この出来事は597年に訪れる破局の前触れで、実際にはバビロニヤは侵攻せず、先遣隊としてアラム、モアブ、アンモンといった略奪者たちを送り込んだようです。しかしエレミヤは、神さまがなさろうとすることを理解しました。神さまは、美しいイスラエルの国土・神さまご自身がお与えになった相続地を略奪者たちに踏み荒らさせ、滅亡への一歩を刻もうとされています。預言者は口をつぐむほかない。それが彼の信仰でした。


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