預言者の系譜

エレミヤ 12
創造主の力を!

エレミヤ 10:6−16
Tペテロ 4:12−19
T 伝統の祭儀賛歌が

 先に、8章〜10章は、いつ書かれたものか分からず、神さまのことばなのかエレミヤのことばなのかはっきりしない部分もあり、比較的短いメッセージがいくつも並べられている、と言いました。そして繰り返しますが、このエレミヤ書は、王の怒りに触れて一度燃やされているのです(36章)。書記バルクは、それをもう一度書き直しますが、おそらく、失われたものも多かったのではないかと思われます。バビロン捕囚時に再度結集され、編集も行われたと思われますが、失われた部分が回復することはありませんでした。そんな時代に翻弄された預言書ですから、現在に伝えられるエレミヤ書に、断片的な部分があって当然です。しかし、断片的で、時も背景も不明のまま、無造作に並べられているとしても、遺された部分は真性なエレミヤのものとして、ここに収められました。この中からこれまで8:8-9、8:16-9:1の二カ所を取り上げて来ましたが、今朝は、そのもう一カ所の、「神さまへの賛歌」と呼ばれているところを取り上げ、この部分を終えたいと思います。神さまへの賛歌、それは6-7、10、12-16と三つ並べられています。恐らくこれらは、祝祭で歌われたものと思いますが、この三つの賛歌は、その形式、内容においていくらか異なりますので、式順のそれぞれのところに分け、会衆が声を上げて歌ったものなのでしょう。或いは、神殿賛美担当のレビ人聖歌隊が歌ったのかも知れません。

 「主よ。あなたに並ぶ者はありません。あなたは大いなる方。あなたの御名は、力ある大いなるものです。諸国の民の主よ。だれかあなたを恐れない者がありましょうか。それは、あなたに対して当然なことです。諸国の国のすべての知恵ある者たちの中にも、そのすべての王国の中にも、あなたと並ぶような者はいないからです」(6-7) この賛歌は祈りなのでしょう。特に前半の部分6節は、神さまの唯一無比の卓越性を歌っており、イスラエルはこのような賛歌をずっと歌い続けて来たのだと言わんばかりに、これが伝統的な祭儀における神賛歌であることを示しています。エレミヤは祭司の家に生まれ育ちましたから、そんな賛歌が、まるで子守歌のように、彼の身体を流れる血の中に刻み込まれていたのではないでしょうか。後半の7節にある、諸国民の上に立つヤーヴェの王権という思想は、「古代オリエントの王の祭儀がほのかに埋め込められている可能性がある」と指摘する注解者がいますが、そうかも知れません。神々の否定が全面的に打ち出されていないからです。10節になりますと、そういった点がいっそう浮かび上がっているようです。「主はまことの神、生ける神、とこしえの主。その怒りに地は震え、その憤りに国々は耐えられない」この思想は、意外に早くイスラエルに入って来たと思われます。恐らく、カナン宗教を通して……。


U 渾身の心を込めて

 さて、今朝一番見たいところは12-16節ですが、まずその前半です。「主は、御力をもって地を造り、知恵をもって世界を堅く建て、英知をもって天を張られた。主が声を出すと、水のさわめきが天に起こる。主は地の果てから雲を上らせ、雨のためにいなずまを造り、その倉から風を出される。主は万物を造る方。イスラエルは主ご自身の部族。その御名は万軍の主である」(12-13、16)ここに歌われているのは、創造主たる神さまに対する告白であり、その創造はあらゆる自然現象にも及び、神さまは自然界の主であるという告白でした。この告白が、選びの民イスラエルの原点なのです。それは恐らく、口伝として伝えられた創世記一章以来、語り継がれて来た原点です。しかしこの賛歌は、モーセ五書や王の記録には、全くないとは言いませんが、あまり多くはありません。この告白が聖書に現われるのは、かなり時代が下ってからで、詩篇や預言書に多いのが特徴となっています(類似の箇所は詩篇96:4-6、135:1-8、イザヤ40:12-17、28、45:18など多数)。詩篇104篇を見てみましょう。「わがたましいよ。主をほめたたえよ。わが神、主よ。あなたはまことに偉大な方。あなたは尊厳と威光を身に纏っておられます。あなたは光を衣のように着、天を、幕のように広げておられます。水の中にご自分の高殿の梁を置き、雲をご自分の車とし、風の翼に乗って歩かれます。風をご自分の使いとし、焼き尽くす火をご自分の召使いとされます」(1-4以下参照)。彼らイスラエルの主・神さまがそのようなお方であることにいささかの疑念も差し挟まなかった時代には、当然のように、このような告白は必要ありませんでした。しかし、族長時代や建国の時代を通り過ぎますと、イスラエルにとって神さまが遠くなり、彼らはその原点を忘れてしまいました。そして危機の時代を迎え、預言者たちが、その原点をイスラエルの民に教える必要があるとして生まれたのが、この祭儀賛歌ではなかったかと思われます。ですから、エレミヤもまた、その祭儀賛歌をここにそのまま書き加えたのでしょう。これがエレミヤのものではないとする見解が近代批評家たちにあるのは、そうした事情によるものと思われます。しかし、これもまたエレミヤのメッセージであると聞かなければなりません。

 イスラエルの主・神さまが天地を創造されたという告白には、そのお方がイスラエルを造ったのであり、イスラエルはそのお方によって造られたという告白が込められています。彼らイスラエルはそのことを忘れてしまった。だから平気で神ならぬ神々に走り、イスラエルの神信仰が世の宗教に堕してしまったのだと。エレミヤの嘆きは、そこに起因しているのです。先にカオスの世界を描き出し(4:23-26)、今また雄大な天地創造を描き出しているのは、イスラエルの主こそまことの神さまであり、彼らが拝んでいる神々などその足下にも及ばないと、これはエレミヤの渾身を込めたメッセージなのでしょう。10-11節から、そんなエレミヤの思いが伝わって来るようです。


V 創造主の力を!

 ただ、奇妙なことに、この祭儀賛歌には、偶像崇拝への警告が付け加えられています。「すべての人間は愚かで無知だ。すべての金細工人は、偶像のために恥を見る。その鋳た像は偽りで、その中に息がないからだ。それは、むなしいもの、物笑いの種だ。刑罰の時に、それらは滅びる。ヤコブの分け前はこんなものではない」(14-15) これは確かに非常に古い形の祭儀賛歌なのでしょう。詩篇には、そのようなものがそのまま保存された形で、たくさん残されているようです。たとえば、詩篇135篇にはこうあります。「主よ。あなたの御名はとこしえまで、主よ。あなたの呼び名は代々に及びます。まことに、主はご自分の民をさばき、そのしもべらをあわれまれます。異邦の民の偶像は、銀や金で、人の手のわざです。口があっても語れず、目があっても見えません。耳があっても聞こえず、また、その口には息がありません」(13-17)これなど、主への賛歌と偶像崇拝への戒めが並び歌われた、典型的な賛歌でしょう。詩篇にあるこうした偶像否定が付加された賛歌では分かりませんが、エレミヤが加えたこの賛歌には、11節に、「あなたがたは、彼らにこう言え」、「天と地を造らなかった神々は、地からも、これらの天の下からも滅びる」と言えとありますので、もしかしたら、「天の女王(イシュタル女神)」への賛歌が歌われていた中で、イスラエル民族が行なうべき祭儀礼拝の意識改革を目指したのではないかと、密かに期待が膨らんで来ます。それなら、10章の記事が、イスラエルへの厳しい神さまの裁きが基調になっていることも、頷けます。

 天の女王は偶像でした。しかし、偶像崇拝はあらゆる地域で非常な勢いで広まっており、中でも天の女王は力ある神として崇められていました。木や石を崇拝する宗教なんて力がないと思うなら、それは大きな間違いです。たとえ人間の思い込みであったとしても、その力は非常に大きいのです。まして古代社会でのことですから……。現代でも、全財産ばかりか、自分の命さえそこにつぎ込む人がいるほどです。それは紛れもなく、真の神さまの力ではなく、「別の力」なのですが、それは神さまが否定されるところに働いていると、覚えておかなければならないでしょう。では、真の神さまの力はどこにあるのか?と問わなくてはなりません。創造された世界の、あらゆるところで、その創造主の力は働いているのですが、創造主を否定する者たちにはそれが分かりません。そして神さまは、そのような者たちにご自分の力・別の力とは比較にならない力を隠しておられるのです。目を開いてその力を見つめなければなりません。エレミヤはそのために、この賛歌を自分自身のメッセージとして語ったのではないかと思われます。現代人も、心して聞かなければならないでしょう。


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