預言者の系譜

エレミヤ 11
涙をご覧になるお方は

エレミヤ 8:18−9:1
マタイ  23:37−39
T 主よ、私たちの叫びを

 はじめから難しいことを言うようですが、この段落の区切りを9:1までとしているのは、新改訳が口語訳や文語訳(明治訳)の流れを引いているからです。ソースは分かりませんが、英語・欽定訳から来ているのかも知れません。しかし、新共同訳や岩波訳は、これを8:23として扱っています。ヘブル語マソラ本文もギリシャ語70人訳も、そうなっています。もっとも、ヘブル語本文や70人訳には、細かな章節の区分などなかったのですが。ですから今朝のテキストは、8:18-23としていいところです。

 この箇所では、預言者エレミヤの嘆きが取り扱われています。これまでにもエレミヤの嘆きは何回か出て来ましたが(3:21-22、4:19-21など)、ここに来て彼の嘆きは一層深く、「いやされない」という印象が強くなります。恐らく、エレミヤの目に、イスラエルの破滅は決定的と映り始めたのでしょう。「私の悲しみはいやされず、私の心は弱り果てている。聞け。遠くの地からの、私の民の娘の叫びを。『主はシオンにおられないのか。シオンの王は、その中におられないのか』」(18-19)このエレミヤの悲しみは、20節に「刈り入れ時は過ぎ、夏も終わった。それなのに、私たちは救われない」とありますので、イスラエルを襲った激しい飢饉によるのかも知れません。その様子が13-14節にあります。「しかし、ぶどうの木には、ぶどうがなく、いちじくの木には、いちじくがなく、葉はしおれている。わたしはそれをなるがままにする。どうして私たちはすわっているのか。集まって、城壁のある町々に行き、そこで死のう。私たちの神、主が、私たちを滅ぼす。主が私たちに毒の水を飲ませられる」

 もっとも、この地方で飢饉は珍しいことではありませんでしたから、「城壁のある町々に行って、そこで死のう」と言うほどの嘆きは、単に飢饉が襲ったという以上の、主のご介入があったと見るべきでしょう。それより、「主はシオンにおられないのか」という民の叫びは、主がいないということではなく、主が私たちを顧みてくださらないと言わなければならないのにその認識が抜け落ちている、それが問題なのです。飢饉は、主が起こされたことですから。その意味で、「わたしはそれをなるがままにする」(13)という新改訳は、正しいと言えるでしょう。新共同訳は、「わたしが与えたものは、彼らから失われてしまった」と訳していますが……。

 エレミヤはここで、その嘆きを隠そうとはしていません。それはきっと、その嘆きが神さまの耳に届くことを願っているのでしょう。ですから、「聞け(或いは見よ)」は、「聞いてください」ではないかと思われます。「主はシオンにおられないのか」というそれは、先に述べたように、間違った認識に違いないのですが、そんな悲痛な叫びが、「あなたには聞こえないのですか」という問いかけに聞こえて来るのです。民の苦しみを自分の苦しみとしている、それが21節の「私の民の娘の傷のために、私も傷つく」という嘆きになりました。預言者は、神さまのことばを取り次ぐ者であると同時に、民に寄り添う者であることを、このエレミヤから教えられます。私自身もそうありたいと願わされます。


U 隠れておられるお方に

 ところが、やはり主はシオンにはおられないのです。いや、すぐ近くにおられるのに、民の目からご自分を隠しておられるのです。そしてエレミヤの目にも、主は民から遠く離れていると映っているのです。「聞け。遠くの地からの、私の民の娘の叫びを」は、その意味なのでしょう。何回も繰り返すようですが、主は、本当は、近くにおられるのです。それなのに、遠くに離れてしまったと感じている。それは彼ら自身の問題、彼らが主に罪を犯したという問題のためです。それはエレミヤも、百も承知していました。それなのにここでエレミヤは、主がなぜ遠くなってしまったのかと嘆いているのです。それを主に問いかけるのは筋違いと十分承知しながら、なお問いかけずにはいられない。ここでエレミヤは、愚かで目の見えない、民と同じようになっています。そう聞きますと、「刈り入れ時は過ぎ、夏も終わった。それなのに、私たちは救われない」(20)が、エレミヤの内面にわだかまる、深い深い慟哭に聞こえて来るのです。飢饉は過去にも確かにありました。しかしこれは、この国の存亡に襲いかかる、もうひとつの危機なのかも知れません。もっとも、これまで「飢饉」のことには少しもも触れられていませんから、この飢饉は、バビロニヤ軍が押し寄せて来るときの、収穫が出来ないさまを言っているのかも知れません。

 しかしこれは、もはや飢饉に対する恐怖などというものではありません。それは、「なぜ、彼らは自分たちの刻んだ像により、外国のむなしいものによって、わたしの怒りを引き起こしたのか」(19)という、神さまのことばに起因しているからです。そしてこのことばは、今、このときだけに語られたものではなく、恐らく、以前から何回も繰り返されていたと、預言者は思い当たりました。ですからこのことばも、エレミヤのことば、彼のつぶやきなのです。これを記す時、このことばだけを前後から分離させたのは、これが「民の耳には届いていない」という思いがあったからではないでしょうか。文の形から言っても、内容的にも、ここだけ前後の文脈から浮き出ています。これが神さまのことばとして聞かれたのは、7章で取り扱われた「天の女王」の文脈の中ではなかったのでしょうか。


V 涙をご覧になるお方は

 「私の民の娘の傷のために、私も傷つき、私は憂え、恐怖が、私を捕らえた。乳香はギルアデにないのか。医者はそこにいないのか。それなのに、なぜ、私の民の娘の傷はいやされなかったのか。ああ、私の頭が水であったなら、私の目が涙の泉であったなら、私は昼も夜も、私の娘、私の民の殺された者のために泣こうものを」(21-9:1)預言者エレミヤの深い深い嘆きは、果てることを知りません。彼はこの嘆きを、神さまに向けているのでしょう。神さまの前で彼は、自分を滅ぶべきイスラエルの民の中に置いているのです。かつてエレミヤは、神さまに食ってかかりました。「主よ、あなたの目は、真実に向けられていないのですか」(5:3)と。しかしここではもう、神さまにたてつき、民のごくかすかな「真実」を主張しようとはしていません。もはやそんなかけらさえ、民は持ってはいないからです。エレミヤはまるで、民と神さまとの間に盾となって、災いが民に襲いかかるのを防いでいるかのようです。彼の深い悩みは、そこまで行き着きました。

 以前、神さまはイスラエルを娘と呼びました。しかも、「相続財産を受けることの出来る息子に加えた」(3:19)とまで言われ、愛を注いだのです。今、エレミヤは、その神さまと同じように、イスラエルを「私の娘」と呼んでいます。娘が傷つくなら、それは私の傷だとさえ。かつてイスラエルは、神さまにとって花嫁のようでした。娘とはいとしいもの、それが花嫁であるなら尚更でしょう。父親というものは、ほとんど例外なく、理屈抜きでそうなのです。娘が不幸ならば一層、自分が盾になってその不幸を防いでやりたいと思うのです。神さまの怒りは、その愛情の裏返しではないでしょうか。エレミヤの愛も、そうなのです。いや、このときのエレミヤは、娘に怒ってはいません。責めてもいないのです。「預言者の系譜・エレミヤ」に取りかかってこれが11回目ですが、今までのところを読み直してみました。日本の現代社会を念頭に置いているのですが、「神さまを見ていない」と責めることばかりで、私にはエレミヤの深い愛情が欠けていると反省させられます。エレミヤのように、神さまの怒りの盾になりたい、いや、ならなければと願わされます。神さまの目は、今、厳しく現代の私たちに注がれていると思うからです。

 乳香には強い殺菌力があり、中世西欧でペストが大流行した時、乳香を薫じて死を免れたと伝えられますが、ギルアデの乳香は、その薬効が大きかったようです。恐らく、医者も含め、「いない」と嘆いているのは、神さまのことなのでしょう。こんなにも痛み、苦しんでいるのに、神さま、あなたはここにいらっしゃらないのですか。私の涙をご覧にならないのですか。このエレミヤの涙は、「ああエルサレム、エルサレム……」(マタイ23:37)と嘆かれた、イエスさまの悲しみを思い起こさせます。エレミヤの涙をご覧になる方は、その方に他ならないのです。


予言者の系譜・目次