預言者の系譜

エレミヤ 10
十字架のことばは

エレミヤ  8:8−9
Tコリント 1:18−26
T 持っているつもりなのに

 8章から10章までは、語られた時間がばらばらで、神さまのことばなのかエレミヤのことばなのか、分からない部分があるようです。比較的短いメッセージが、いくつも並べられています。たとえば、注解者によりますと、8:4-13は「立ち返ることのない背き」、9章は「エレミヤの嘆き」といった具合です。なにしろ、一度筆記されたものが、エホヤキム王の怒りに触れて燃やされてしまったのですから(36章)。エレミヤと書記バルクは、それをもう一度文字に表そうとしましたが、恐らく、失われたものも多かったのではないでしょうか。更に、バビロン捕囚時に再度結集され、編集も行われたと思われますが、燃やされ、失われた部分が回復することはありませんでした。現在に伝えられるエレミヤ書に、断片的な部分があるのは当然です。しかし、断片的ではあっても、遺された部分は真性なエレミヤのものとして、ここに収められました。それは確かなことでしょう。ここからいくつかのことを拾い出し、エレミヤのメッセージを聞いていきたいと思います。

 今朝は8:8-9からです。「どうして、あなたがたは、『私たちは知恵ある者だ。私たちには主の律法がある』と言えようか。確かにそうだが、書記たちの偽りの筆が、これを偽りにしてしまっている。知恵ある者たちは恥を見、驚きあわてて、捕らえられる。見よ。主のことばを遠ざけたからには、彼らに何の知恵があろうか」 ここは、8章4-13、もっと細かく,4-12というフレーズの中で見て行かなければなりませんが、今朝は8-9のみを見ることにします。ここで問題なのは、「書記たちの偽りの筆」という箇所です。これを筆記しているのは書記バルクでしたから、よくもまあこんなことをと思いますが、バルクは忠実にこれを書き留めました。それは、バルクも、このことばの意味を理解したからに他なりません。エレミヤが自分だけにしか分からないことを言ったのではではない。心の耳を澄ませて聞くなら、バルクのように理解することが出来るのです。

 エレミヤが責め立てたのは、「私たちは知恵ある者だ。私たちには主の律法がある」と言う人たちに対してでした。確かに主の律法によるなら、イスラエルの人たちが「私たちには(滅びないだけの)知恵がある」と言うのは当然でしょう。エレミヤも「確かにそうだ」と頷きました。しかし、問題は、「知恵」ではありません。そこが間違っているのです。彼らが言う知恵によっては、滅びを免れることは出来ません。なぜなら、その知恵は主の知恵ではないからです。ですから、エレミヤは言いました。「知恵ある者たちは恥を見、驚きあわてて、捕らえられる。見よ。主のことばを退けたからには、彼らに何の知恵があろうか」と。彼らは、「主の律法を持っている」と胸を張りました。しかしその彼らが、「主のことばを遠ざけた」と言われてしまいます。持っているつもりだから、聞こうとはしない。それがイスラエルの問題の中心でした。ここで見なければならないのは、彼らが持っていると言い張る知恵が、主の知恵ではないということです。それが明らかにされなければなりません。


U 別の律法は別の知恵を

 彼らは、自分たちは主の律法を持っているから、知恵があると言いました。では、主の律法によるなら知恵があると言った、先の言い方は間違いなのでしょうか。エレミヤが「確かにそうだ」と言ったことも。いいえ、それは決して間違いではありません。箴言にこうあります。「子どもらよ。今、わたしに聞き従え。幸いなことよ。わたしの道を守る者は。訓戒を聞いて知恵を得よ。これを無視してはならない」(8:32-33)知恵は確かに、主の訓戒を聞くところに宿るのです。訓戒は戒め、主の律法と聞いていいでしょう。詩篇にもこうあります。「あなたの戒めを私に悟らせてください。私があなたの奇しいわざに思いを潜めることができるようにしてください」(119:27)ここから、主の戒めが、悟りや知恵を生むと聞こえないでしょうか。しかし、その知恵はあなたがたにはないと、エレミヤは断じます。すると、彼らが持っていると主張する主の律法が、実は、主の律法ではないという点が考えられなければなりません。主の律法ではない、別の「律法」でしかないなら、その律法が、主の知恵を生み出すことなどあり得ないからです。別の律法は、別の知恵しか生み出さない。そんなごく当然のことに、彼らイスラエルは思い当たりもしません。エレミヤは、「主のことばを退けたからには、彼らに何の知恵があろうか」と言いました。それが彼らの深い深い闇の正体だったのです。初めから持っていなかったわけではない。持っていたなら、主のあわれみがあったでしょう。そうではなく、彼らは、持っていた主の知恵・主のことばを「退けた」のです。

 7:23にこうあります。「わたしの声に聞き従え。そうすれば、わたしは、あなたがたの神となり、あなたがたは、わたしの民となる。あなたがたをしあわせにするために、わたしが命じるすべての道を歩め」この神さまの「声」は、律法を指していたようです。こうあります。「この国よ。聞け。見よ。わたしはこの民にわざわいをもたらす。これは彼らのたくらみの実。彼らが、わたしのことばに注意せず、わたしの律法を退けたからだ」(6:19)いろいろと表現は違いますが、エレミヤ書全体を通して神さまが主張しておられる言い分、メッセージは、これに尽きるようです。ここに主張されている「律法」と、彼らイスラエルが持っていると言い張る「律法」はどう違うのか、それが明らかにされなければなりません。それが、「書記たちの偽りの筆が、これを偽りにしてしまった」ということの内容なのです。


V 十字架のことばは

 端的に言いましょう。この二つの「律法」の違いは、神さまのことばと、書き記され文書化されて上から下へと通達された、さまざまな規則との違いです。「上から下へ」とは、古くから、部族長、長老、国が組織化されると、宗教的権威は、王や宗教的権威を纏った上部組織から下部の組織へ、そして民衆へと、しばしば神さまの権威と同等視されてきました。「上から下へ」という通達制度は、人間社会の一般的、通常の形態でしたから、イスラエルにおいても、何の抵抗もなく受け入れられていたようです。まして、それが神さまの権威を纏った宗教的組織からの通達であれば、なおさらのことです。ある注解者はこれを、「契約祭儀伝承」と「供犠規定総体」の対立であろうと言っています。堅苦しい言い方で分かりにくいですが、確かにその通りかと思われます。契約祭儀伝承とは、モーセを通して神さまがイスラエルを「神さまの民」として来た、イスラエル古来の真正な神学を指しています。もっと具体的に言いますと、それは十戒であり、神さまが計画された主の民の救済史が、祭儀という形をとってイスラエルに告知されて来たことを意味しています。それに対して供犠規定総体とは、今もユダヤに残る、儀礼規則全体を指すと考えていいでしょう。タルムードやミシュンナなどが、これに当たります。そこには、口伝を含む真正な神さまのことばさえ、曲解されて紛れ込んでいます。イエスさまが繰り返し指摘されたパリサイ人の戒めは、これに数えられます。それはイエスさまによって明らかにされましたが、イエスさまの時代に突如出て来たものではなく、すでにエレミヤの時代に、いやそれ以前から、じわじわとイスラエルの信仰を蝕んでいたと言えるでしょう。偽預言者のメッセージなど、これに属します。そう見て来ますと、人間の歴史そのものが、神さまの救いのみわざに反対し、絶えず対立軸を生み出して来たと言えるのではないでしょうか。神さまの選びの民イスラエルも、例外ではありません。基本的に、私たち人間は、徹底的に神さまに逆らってきた歴史を歩んで来ました。それが人類史だったと言っても過言ではないほどです。

 もう一歩踏み込んで、端的に言いますと、律法主義に陥り、福音を宗教とする在り方は、すべて「偽りの神のことば」と言っていいのではないでしょうか。宗教というものの本質は、そこにあるようです。気をつけなければならないのは、聖書そのものを、「偽りの神のことば」にしてしまう危険性です。ロボットのように聖書の字句を意味や文脈などお構いなしに、最初からある自分の意見に合わせ、それを権威として用いる。いや、強制するなど、その典型でしょう。イエスさまの福音は、決してそのようなものではありません。神さまのことばとは、間違いなく、イエスさまご自身のことだからです。これは私自身に言えることですが、そのお方を仰ぎ見ながら、謙遜に歩んでいきたいと願います。


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