コリント人への手紙Ⅰ



主の喜ぶところに
コリント第一 3:1-9
エレミヤ 9:23-24
Ⅰ 完全な者を目指して

 前回パウロは、「生まれながらの人間」という表現を用いて(2:14)、そういう人は、永遠のいのちをつぐむ神さまの思いに行き着くことはなく、他の人を思いやることも、他の人から思いやられることもないと触れました。「生まれながらの人間(プシュキコス・魂の人)」とは、人間のいのちそのものを指すヘレニズムの中心思想で、偶像や天の星々を神々とし、プシュキコスをその印影とする、グノーシスの異端思想に毒された一面を持つ人のことを言っていますが、その「生まれながらの人間」は、唯一、全能の神さまに敵対し、挑戦して止まないのです。もともとギリシャ思想界には、プラトンのイディア論に代表される、そんな密儀宗教的な神秘思想を受け入れる下地がありました。このグノーシスとの戦いは、コリント教会へのパウロ書簡、特に第一書全体の、一つの中心主題になっています。恐らくそこには、パウロが伝えようとしている、イエスさまの福音に類似する部分があったと思われますが、それは現代思想にも重なり、この講解説教でも何度も触れることになります。ただ、ここでは、グノーシスの教えを取り上げることが本題ではありませんので、重要な主題であるとだけ覚えて頂ければと思います。特に、霊、知識、知恵といった教えは、グノーシス主義がもたらす密儀宗教を指すことがありますので、気をつけたいところです。

 パウロは、コリント教会の人たちに、イエスさまの福音に立って欲しいと願っています。彼は、コリント教会の分裂分派の争いが、グノーシス主義の教えから出ていると見抜いていたのでしょう。それを念頭にパウロは、「さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するように話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。私はあなたがたには乳を与えて、堅い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。あなたがたは、まだ肉に属しているからです」(1-3a)と、更に一歩踏み込んでいます。今朝のテキストは、ここから始まります。彼は、コリント教会の人たちを「肉に属する人」と呼びました。それは、グノーシスの教えに囚われた「生まれながらの人間」を指している、と聞かなければなりません。しかし、そんな彼らも、かつてパウロの教えを聞いてイエスさまを信じ、受け入れたのです。それなのに彼らは、福音の本質に踏み込むところまでは成長せず、キリスト者として成熟した、完全な者「おとな」にはなっていませんでした。それがパウロをして、「キリストにある幼子」と呼ばせたのでしょう。しかし、パウロが、「あなたがたは、まだ肉に属している」と言いながら、「キリストにある幼子」と呼んでいるのは、コリント教会の人たちを、イエスさまにある者として、根本的なところで、「この世に属する者」とは区別していたからなのではないでしょうか。


Ⅱ 罪を知る

 パウロは、彼らコリント教会の人たちに、堅い食物ではなく、乳児が飲むような乳を与えることから始めようとしています。第一に、彼らが、教会という枠組みをその行動半径としながら、依然として「肉に属する者」「生まれながらの人間」のように考え、争っていることを問題にし、その是非を判断して欲しいと願いました。「乳」とはその意味で言われています。「あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたには肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。ある人が、『私はパウロにつく。』と言えば、別の人は、『私はアポロにつく。』と言う。そういうことでは、あなたがたは、ただの人たちではありませんか。」(3-4)とあります。「ただの人」とは「人間そのもの」というニュアンスで、パウロは、「罪」に絡めて、それを「人間」と言っているのです。ですから彼は、何度も、「(きみたちは)肉に属する者ではないか」と繰り返しました。「肉なる者」、それは罪が主座を占めるところです。

 「肉の誘惑」と言う表現には、その根底に、メソポタミヤの宗教がグノーシス主義とともにギリシャ世界に持ち込んだ密儀宗教特有の、性的乱れがあったようです。その誘惑に囚われると、人はその罠から逃れることが出来ず、とことん罪に走ってしまうのです。5章には、不品行、高慢、悪意、不正、貪欲などが上げられ、それは「以前にも書き送った」(5:9)と言われていますが、ガラテヤ書には、「肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです」(5:19-21)と、まとめられています。「きみたちは肉に属する者である」と断定したパウロは、コリント教会の人たちに、その罪を覚えて欲しいと願ったのではないでしょうか。「罪」を「罪」と本当の意味で認めることが出来るのは、神さまの律法に照らされた時だけで、そこでは、「罪」は神さまに逆らうことであると、「罪」の本質まで見抜くことが求められています。しかし、それが求められるのは、イエスさまの十字架に罪を贖われたと聞いて、信じ、受け入れた者たちにです。パウロがコリント教会の人たちに求めたのは、それよりかなり手前の、コリントというギリシャ社会の常識であり、倫理としての罪の認識だったのです。まさにそれは、堅い食物ではなく、乳児が必要としている乳だったのではないでしょうか。


Ⅲ 主の喜ぶところに

 分裂分派の争いを肉に属する者の「罪」と聞いたなら、もう一つのことにも触れなければなりません。それは、コリント教会の人たちからすっぽりと抜け落ちていた中心点ですが、パウロはその中心点にまで踏み込んで言っています。「ある人が、『私はパウロにつく。』と言えば、別の人は、『私はアポロにつく。』と言う。」(4)「アポロとは何でしょう。パウロとは何でしょう。あなたがたが信仰にはいるために用いられたしもべであって、主がおのおのに授けられたとおりのことをしたのです。私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。それで、たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです。植える者と水を注ぐ者は、一つですが、それぞれ自分自身の働きに従って自分自身の報酬を受けるのです。私たちは神の協力者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。」(5-9)と。「パウロが植えて、アポロが水を注いだ」とパウロは、教会を農作物になぞらえています。この譬えは、大商業都市・コリントにはふさわしくない表現ですが、作物が実るために、丹念に手入れをすることが大切なことくらい、彼らにも分かっていた筈です。けれどもパウロは、作物のいのちを守り、育てるのは神さまであって、コリント教会の人たちは、そこに神さまの介入の手があることを知らなければならならなかったと、彼らの中心問題を指摘したのです。

 彼らに決定的に欠けていたのは、彼らを成長させて下さる、「神さまの恩寵」を見抜く目線でした。遣わされて宣教の働きに従事したパウロもアポロも、神さまから「教会」という農作物の手入れを命じられて、いのちを司るお方の前で「私はあなたのしもべです」とへりくだり、しかし、誇りを持ってしもべの働きに徹して来たと主張しているのです。「報酬云々」は、まさにパウロがその生涯の終わりで言うところの「義の栄冠」(Ⅱテモテ4:8)であって、パウロは、その誇りを言っているのでしょう。「私たちは神の協力者である」とまで言い切っていますが、彼は自分の力量を誇っているのではありません。自分たちは神さまの恵みの中で働いて来たのだと、主であるお方を誇っているのです。「誇る者は主にあって誇れ」(1:31、エレミヤ9:24)とある通りです。「あなたがたは神の畑、神の建物です」とありますが、そもそも彼らは、コリント教会が神さまの恩寵による作品であることに、気がつかなければなりませんでした。教会は主にお会いし、礼拝するところであり、祈りの家、賛美と感謝が溢れるところでなければなりません。「私はパウロにつく」「私はアポロに」と言いあって、教会が争いの場になるなど、もっての他でしょう。「私は、あなたがたのために神からゆだねられた務めに従って、教会に仕える者となりました。神のことばを余すところなく伝えるためです」(コロサイ1:25)と宣言したパウロに、倣いたいではありませんか。それこそ、聖徒と呼ばれる者たちの立つべきところであり、主がそれを喜ばれるのです。「わたしは主であって、地に恵みと公義と正義を行なう者であり、わたしがこれらのことを喜ぶからである」(エレミヤ9:24)とあるように、現代の私たちも、主の喜ばれるところに立ちたいではありませんか。



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