コリント人への手紙Ⅰ



キリストの心を
コリント第一 2:10-16
イザヤ    40:9-20
Ⅰ 神さまの深みまでも

 先週、「隠された奥義としての神さまの知恵」について考えてみました。奥義とは、神さまが私たちに顕わされた―遣わされたと言い換えていい―啓示のことで、イエスさまを指しています。イエスさまへの「栄光の主」という告白は、律法の研鑽を積みながら迫害者となっていったパウロの、人間の知恵をもってしては到達し得ない、神さまの恩寵に招き出された信仰告白でした。しかし、この「隠された奥義としての神さまの知恵」には、もう一つ聞かなければならないことがあります。4節でも少し触れましたが、「御霊」のことです。今朝、パウロがそのことを熱く語った、10~16節を見ていきたいと思います。御霊(聖霊)のことが取り上げられます。

 パウロは、「神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです」(10)と始めます。「啓示」はイエスさまご自身を指していますから、「御霊によって」とは、ヨハネが指摘したパラクレートス―イエスさまのお働きを現在化するために遣わされた助け主―のことを言っているのでしょう。ただしパウロは、パラクレートスということばは用いず、「(内在の)御霊」という表現に留めています。そのパウロの神さまに対する認識は、「神さまはただ神さまによってのみ知られる」(NTD)ということでした。イエスさまが天に帰られた今、神さまの「深み」まで知っておられるお方は、遣わされた御霊だけです。しかもそのお方は、私たち人間に内住されるがゆえに、「すべてのこと(神さまのこと・人間のこと)を探り」得るのです。「いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているのでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません」(11)と言われている通りです。「人のうちにある霊」とありますが、12節で「この世の霊」と「神さまの霊」の対立が描かれているのは、人の中に本来ある、神さまを認めない霊を意識してのことでしょうか。いや、これは、分裂分派の争いを繰り広げているコリント教会のことなのです。恐らく、ペルシャの星辰信仰から出たグノーシス主義の、永遠のアイオーンが彼らの中に巣くって争いを引き起こしている、と言っているのでしょう。バビロンもペルシャも、先の帝国を滅ぼしてその覇権を握りましたが、グノーシス主義に立つ宗教は、そのように、サタン的と言っていいほど好戦的です。パウロは、そんなものによって聖徒たちが永遠の裁きに定められてはならないと、危惧を抱きながら、この対立を描いているのかも知れません。


Ⅱ 霊の目をもって

 もう一度、「神さまはただ神さまによってのみ知られる」と、お聞きください。神さまの奥義、神さまの啓示、神さまの知恵は、神さまによってのみ、内在の御霊なる神さまのお働きによってのみ、人の心に届くのです。ですから、御霊が内住している人―イエスさまを「わが主、わが神」と信じ、告白する人―は、その霊の目をもって、神さまの為さる一切のお働きとその恩恵を見なければなりません。もっと具体化して言うなら、「イエスさまを信じる信仰の目をもって」なのでしょう。そうしますと、そこに広げられている霊の戦いの、本質が見えて来るのではないでしょうか。その戦いは、この世を支配する、サタンとの戦いなのです。サタンは、総力を挙げて、神さまと神さまの民たちに戦いを挑んでいるのです。そして、コリント教会の分裂分派の争いは、そのサタンに、付けいる隙を与えてしまいました。それは、現代の教会も同じです。現代、世界中の教会は混乱し、深い悩みの中にあるようです。まさに教会は、サタンの餌場になっているのではと思わされます。

 しかし、パウロは言っています。「私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜ったものを、私たちが知るためです」(12)と。イエスさまを主とする者には、望みがあります。コリント教会が陥っていた状況は、信仰ばかりか愛までも失われた、絶望的なものでした。しかし、御霊はそのような者たちに内住する助け主であることを放棄せず、神さまの恵みの賜物が注がれ続けていることを知らせようと、あらゆる力を尽くしておられると、使徒の目は、そのような御霊のお働きを注視しているようです。現代の聖徒たち、特に伝道者たちは、そのパウロと同じところを見なければならないのではないでしょうか。「神さまはただ神さまによってのみ知られる」のです。イエスさまの救いに召された者として、その信仰の目を養いたいではありませんか。そうすることで、私たちに注がれている数え切れないほどの賜物が、見えて来ます。いや、この「賜物」は私たちに内住される御霊を指しているのでしょう。

 「この賜物について話すには、人の知恵に教えられたことばを用いず、御霊に教えられたことばを用います。その御霊のことばをもって御霊のことを解くのです」(13)とあります。「御霊のことばをもって御霊のことを解く」とは難解な一文ですが、霊の目をもって私たちの内側を見つめるなら、霊なるお方が、「私たちの(人間的な知恵による)愚かさ」を排除し、イエスさまを信じる信仰の知恵で物事を判断出来るよう、どれほど心を砕いておられるかが見えて来ると言っているのでしょう。迫害者パウロが、イエスさまに出会い、葛藤のうちに霊の目が開かれていったように……。


Ⅲ キリストの心を

 内在の御霊のお働きに目を留めたパウロは、コリント教会に芽生えた、新しい対立軸に言及します。「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。御霊を受けている人は、すべてのことをわきまえますが、自分はだれによってもわきまえられません。いったい、『だれが主のみこころを知り、主を導くことができたか。』ところが、私たちにはキリストの心があるのです。」(14-16) ここには、生まれながらの人間と神さまの御霊に属する者との、対立が見られます。コリント教会の争いは、「私はケパに」「私はアポロに」という分裂分派でしたが、パウロ書簡を読むようになって、分裂分派を叫ぶ者たちとそれをグノーシスの争いと見る人たちとの対立へと、視点が変わっていったようです。きっと、パウロの祈りに接した人たちの中に、イエスさまを信じる信仰の再構築が始まったのでしょう。すでにパウロは何通もの書簡を書き送っていましたから、その教えを思い出した人たちが、「内在の御霊」を基準に考え始めたとしても、おかしくはありません。そして、その基準によると、「生まれながらの人間」とは、争いの共通基盤でもある、グノーシス的人々の意識なのです。神さまの御霊が自分たちに内住していると教えられて、他の教えを「違う」と感じ始め、「対立軸」が、人間の知恵を基準とするところから内在の御霊を基準とするところへ、変わっていったと言えるでしょう。

 「生まれながらの人間(プシュキコス・魂の人)」は、人間のいのちそのものを指すヘレニズムの中心思想ですが、それは「死」と隣合わせの儚い「いのち」であって、永遠のいのちをつぐむ、神さまの思いに行き着くことはありません。そればかりか、他の人を思いやることも、他の人から思いやられることもないのです。そもそも「プシュキコス」は、自分のことすらわきまえないのですから……。これを、「動物的生命」と解説する人もいるほどです。まさしくパウロが、「自分はだれによってもわきまえられない」と洞察した通りでしょう。「だれが主のみこころを知り、主を導くことができたか」(16)と、これはイザヤ40:13からの引用ですが、そこには「鋳物師は偶像を鋳て造り、金細工人はそれに金をかぶせ、……動かない偶像を据える」(19-20)とあるように、人は、神さまを知らないのに偶像を造って、神さまの世界を手に入れたと思い上がっているのです。しかし、パウロはこう宣言しました。「私たちにはキリストの心があるのです」(16)と。御霊が内住して下さるのは、イエスさまの心とともに歩むためです。「キリストの心」とは、神さまの思いを汲み取る理解力・知力を指し、すべてを見通して判断し、選択することが出来る心のことです。現代は神さまから遠く離れた時代と言われていますが、それは、神さまから離れた所ばかりを見ているからではないでしょうか。少なくとも、イエスさまの救いに与った者たちが、パウロと同じ目線、同じ内在の御霊の目線で物事を見るなら、この途方もなく混乱した時代も神さまのほうに目が向くのではないか……、と考えさせられます。イエスさまの心を自分の心とする、そん成熟した信仰者になりたいではありませんか。



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