コリント人への手紙Ⅰ



栄光の主とともに
コリント第一 2:6-9
イザヤ   64:4-5
Ⅰ 過ぎ去っていく儚い知恵でなく

 「しかし私たちは、成人の間で、知恵を語ります」(6)と、パウロの論述は一歩踏み込みます。これを原典で読みますと、「知恵を、しかし、私たちは語ります、成人の中で」と、「知恵(ソフィア)」が定冠詞もつけずに、いきなり先頭に来ています。これは、パウロが、これまではおもに「人間の知恵」を指して、そんな小賢しい知恵をもっては神さまの救いに与ることは出来ないと、断固、知恵を否定して来たことを思いますと、いきなり「知恵を語る」と言われて、コリント教会の人たちは意表を突かれたように驚いたのではないでしょうか。恐らく、それがパウロの狙いでした。彼らは、「(神さまが喜ばれる)知恵」の本当の意味を悟らなければならなかったのです。「成人」を指すギリシャ語は新約聖書中三つあって、二つは身体的年齢の「13歳以上の大人の男子」を指しますが、ここに用いられる「大人(テレイオス)」は、”成熟した”、”完成した”という意味合いを強調するもので、岩波訳は「完全な者たち」と訳しています。これをパウロは、「―イエスさまを信じる信仰における―成熟した知恵を持つ者」として、人間の知恵がどんなに優れていても、それは神さまが求める十字架のイエスさまを信じる信仰に達する知恵ではない、というニュアンスを精一杯ここに込めているようです。

 ですから、パウロは続けてこう言いました。「この知恵は、この世の知恵でもなく、この世の過ぎ去っていく支配者たちの知恵でもありません」(6) 「この世の過ぎ去っていく支配者の知恵」とは、これまでに何度も触れて来た、グノーシス主義的宗教思想を中心とするギリシャの哲学的思考や、商業都市コリントが第一にしていた利益をもたらす特有の合理的知恵、さらには、ユダヤの律法主義的知恵……を指し、神さまに敵対する権力者の知恵―サタン的権力と言ってよい―を指しているのでしょう。現実世界の目で見るなら、それは人を魅了して余りある力と映るのでしょうが、しばしばそれは、人間同士の争いを産み出し、分裂分派の原動力となって、互いに傷つけ合い、知恵そのものが自分たちの都合に合わせて変遷して行きます。決して神さまの前でいつまでも残るものではなく、過ぎ去っていく儚いものなのだと……。パウロは、コリント教会の分裂分派の争いが、つまるところ、そんな知恵の神さまへの攻撃ではないかと、ことの本質を明らかにしようとしています。


Ⅱ 神さまの奥義が

 パウロはさらに、「私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです」(7)と踏み込みます。「隠された奥義としての神さまの知恵」という言い方は、グノーシス主義神学に影響された、ヘレニズム世界特有の、神々の密儀宗教を念頭に置いているのでしょう。彼らの間では、「奥義に到達した者、すなわち、グノーシス主義的な宗教秘伝を授かった者は、きよめによって神々の域に達する(あるいは完全に知る)に至った」(NTD)との理由で、「完全な者(大人)」と呼ばれていたようです。外典に「パウロ行伝(正確には『パウロとテクラの行伝』)」という物語がありますが、その中に、パウロに出会った女主人公のテクラが、パウロの信じるところを求めて、どこどこまでもパウロについて歩き、苦難の末、さまざまな奇跡の中でついにその秘儀(洗礼)に到達したという、グノーシス的奥義が描かれていますが、そんな宗教の在り方は、現代の諸宗教、特に、カルト教団等に多く見られるものです。人の世に乱立する宗教は、いかにして神々に近づき神々に至るかを日々追求している、と言っていいでしょう。

 しかし、パウロの言う「隠された奥義としての神の知恵」は、そのような諸宗教の秘儀とは明確に一線を画しています。「奥義」とは啓示のこと、「隠された」とは、イエスさまが来られる前のことを指しているのですが、イエスさまが来られたことで、隠されていた神さまの意志が顕わになったのです。それは奥義というよりも、むしろ、人々に示された啓示であると聞かなければなりません。その辺りは、ヨハネが福音書一章のロゴス賛歌で語っていることですが(1:1-18)、パウロは、コロサイ書でこう言っています。「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。私たちは、このキリストを宣べ伝えています。それは、すべての人を、キリストにある成人として立たせるためです」(1:27-28) 傾聴すべきところでしょう。パウロは、「私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたもの」と、創造主・神さまが定められた人間の栄光―それは「イエスさまの贖いによる私たちの救い」と聞いていい―ただその一点に目標を定め、イエス・キリストは啓示者として遣わされた、と言っているのではないでしょうか。それは、人間が知恵を駆使して近づいたり到達したり出来るものでは、断じてありません。「啓示」とは、全能の神さまのみがイエスさまを十字架に送って為し得た、私たちへの恩恵なのです。


Ⅲ 栄光の主とともに

 「この知恵を、この世の支配者たちは、だれひとりとして悟りませんでした。もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。まさしく、聖書に書いてあるとおりです。『目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮-かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。』」(8-9)
 パウロはここで、一旦筆を置いたようです。ヨハネなら、「アーメン、アーメン、まことに汝らに告ぐ」と休止符を入れたところでしょうが、パウロにそんな「技法」はありませんので、ここで一区切りしたと判断するのは難しいのですが、しかし、ここに休止符があるとするなら、一見この反キリストへの強烈な告発は逆説であって、パウロの信仰告白そのものと伝わって来るではありませんか。恐らくパウロはこれを、迫害者であった自分に重ね合わせているのでしょう。

 「この世の支配者たち」と、ここでは、通常用いられる「コスモス・世」ではなく、宇宙や永遠(派生語)を指す「アイオーン」が使われていて、「支配者」をサタン的存在としているのですが、グノーシス主義は、彼らが主張する神々を「アイオーン」と呼び、イエスさまもその一人と断じています。これはペルシャの星辰信仰から来たもので、大地の豊饒信仰から拝火教の光明信仰へ、そしてそれは更に高度な星辰信仰へと変化して来たのですが、メソポタミヤに発生した原始宗教には、こうした連続性があるようです。それは、神々に到達したいと願う、人間性に他ならないのでしょう。これはまた、後期ユダヤ教の信仰でもあったろうと指摘されていますが、これこそまさに《彼らはさまざまな領域に分かれて宇宙を支配し管理している。彼らはまさにこの世に属し、この世とともに滅びるが、その限りにおいて、神から離れ、神に敵対する》と註解したNTDの、記述通りではないでしょうか。彼らは、神さまが遣わされた独り子イエスさまを、救い主であると悟らないのではなく、「悟ろうとはしなかった」のです。ステパノ殉教の時、石をぶつけた人々は耳を塞ぎましたが(使徒7:57)、それに立ち会ったパウロも、同様だったのでしょう。

 そんなパウロが、よみがえりのイエスさまに出会い、それまで敵として迫害して来たお方を、「栄光の主」と告白しました。イエスさまを「栄光の主」とパウロが告白したのはこの箇所だけですが、パウロは、後期ユダヤ教が神さまを指すとき用いたこの尊称を(外典エノク書27:3)、彼らが断固拒否するイエスさまに適用しました。それは「十字架のイエスさまこそ栄光の主である」とする告白で、逆説的ではあっても、このフレーズの中心主題なのです。恐らく、強烈な天からの光に打たれ、地に倒されて目が見えなくなったパウロでしたから、この「栄光の主」という告白が生まれたのでしょう。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである」と、これは旧約聖書には見当たりませんが、似たようなところがイザヤ書にあります。「神を待ち望む者のために、このようにしてくださる神は、あなた以外にとこしえから聞いたこともなく、見たこともありません」(64:4)と。そのお方にお目にかかったのだとパウロは、生涯を通して、「栄光の主」がともに歩んで下さる光栄を覚え続けたのではないでしょうか。私たちもと願わされるではありませんか。



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