コリント人への手紙Ⅰ


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祈りの中で
コリント第一 16:13-18
列王記第一   8:22-30
Ⅰ 信仰を守り続けて

 分裂分派の争いに明け暮れるコリント教会の人たちを心配した何人かの人たちは、代表者を選び、質問状を持たせて(7:1)、パウロのもとに送りました。今朝のテキストには、「ステパナとポルトナトとアカイコが来たので、私は喜んでいます」(17)とあります。この三人のうち、ステパナについては別に小さな記事がありますが、他の二人は、ここに名前があるだけです。しかし、他の資料も合わせ、いくらか想像もまじえながら、この三人のことを考えてみたいと思います。

 最初はステパナです。ステパナについては、「兄弟たちよ。あなたがたに勧めます。ご承知のように、ステパナの家族は、アカヤの初穂であって、聖徒たちのために熱心に奉仕してくれました」(15)とあります。ステパナと召使いを含む家族全員は、パウロからバプテスマを受け(1:16)、アカヤ最初のクリスチャンとなりました。ギリシャ南部全域を指す「アカヤ(アカイア)」という言い方は、ペルポネソス半島北岸山岳地帯に住んでいたアカイア人が、ローマに対して軍事的「アカイア同盟」を結んでいたこともあって、ローマ帝国初代皇帝アウグストゥスが、北のマケドニヤに対するギリシャ南部の呼称として、「アカヤ(アカイア)」を元老院管轄地単独の呼び名としたことが始まりです。

 Ⅰテサロニケ書には、「主のことばが、あなたがたのところから出てマケドニヤとアカヤとに響き渡った」(1:8)とあります。パウロは、マケドニヤの初穂・ピリピのルデヤ(使徒16:14-15)と共に、アカヤのステパナをギリシャ世界におけるキリスト者の双璧と見ていたのでしょう。それは、ガラテヤ地方やアジヤ州でそうであったように、マケドニヤにもピリピ、テサロニケ、ベレヤといくつもの教会が出来、一つのブロックとしての伝道圏が形成されていましたが、このアカヤにも、コリントを中核とする伝道圏を思い描いていたようです。ですから、パウロがステパナを指して「アカヤの初穂」と言ったのは、アカヤ全域への福音の広がりを意識してのことと思われます。それがパウロの働き方でした。

 「冠」というギリシャ語から派生する名を持つステパナは、恐らく、上流階級に属していたと思われます。忠実な信仰者ステパナは、アカヤ全域に伝道を進展させる体制づくりに、適任のサポーターだったのでしょう。パウロがテモテやアポロをコリントに送り込もうとしたのも、そんな思いがあってのことと想像します。ただ、教会の最古参というだけでなく、信仰者の模範として立っていたステパナは、そんなパウロの働きを良く理解していたのではないでしょうか。その意味でパウロは、彼の名を第一に上げたと思われます。


Ⅱ 使節団の一人に

 二人目はポルトナトです。彼についての聖書の記録はここだけですが、ポルトナト(フォルトナト)という名前は、「幸運のもとに生まれた」というラテン語で、ローマ人と思われます。ポルトナトについて知られる唯一の外部資料は、四十年後の一世紀末、96~97年頃に、ネロ帝以来となる、ディオクレティアヌス帝によるキリスト教徒迫害に耐えるようにと励まし、また、コリント教会で起こっていた混乱を収拾しようと、ローマ教会の名で書き送られた、使徒後教父・ローマのクレメンスによる「コリント人への手紙第一」ですが、そこには、手紙を携えて来た使節団の一人として、ポルトナトの名が挙げられていて、それがこのポルトナトと同一人物とされています(ギリシャ語新約聖書釈義事典)。すると、パウロを訪れた時の彼は、恐らく、20代の若者でした。ローマ人の彼がなぜコリントに住んでいたかは不明ですが、若き日にコリントでパウロに出会い、イエスさまを信じ、その生涯をキリスト者として全うしたのだと想像します。彼は、恐らく、クロエの店(1:11)の働き手で、コリント教会の現状を憂えてパウロに相談しようとしていた、キリスト者の女性主人・クロエから信頼されて使節団の一人として選ばれ、パウロのもとに送り出されたのでしょう。そのように、コリント教会の混乱には同調せず、ステパナなど少数の人たちと共に忠実な信仰を貫いた彼は、後年、ローマ教会に移ってからも重んじられる人物となり、ローマ教会からの書簡を託された使節団の一人として、若き日を過ごしたコリント教会に向かったのではないでしょうか。

 もう一人のアカイコは、アカイコスという地名と同名であることから、奴隷だったろうと指摘する人もいます(いのちのことば社「聖書辞典」)。もしかしたら、アカイア同盟軍がコリント市と手を結んでローマ軍と戦って敗北したのは紀元前146年のことですが、ローマ帝国配下になったとは言え、その後も小競り合いが続いていたようで、反抗して奴隷となったアカイア兵士の末裔が逃亡奴隷となってコリントの街でパウロに出会い、クロエの家に引き取られた……、とも想像されます。逃亡奴隷は社会的には犯罪者ですが、ピレモン書に出て来る逃亡奴隷オネシモをパウロは、「獄中で生んだわが子オネシモ」、「彼は私の心そのもの」(12)と、絶大な信頼を寄せています。彼もまた、優れた信仰者としてパウロのもとに送り出された、使節団の一人に選ばれました。


Ⅲ 祈りの中で

 この三人は、書き上がったパウロの手紙を携えてコリントに戻って行きました。彼らは、信仰者としての忠実さを買われ、コリントやアカヤという枠を超え、ローマ・ギリシャ世界の福音の広がりの中で取り上げられました。パウロは、コリント教会の人たちに、「あなたがたは、このような人たちに、また、ともに働き、労しているすべての人たちに服従しなさい」(16)と勧め、この三人に再会したことを、「喜んでいます。なぜなら、彼らはあなたがたの足りない分を補ってくれたからです。彼らは私の心をも安心させてくれました。このような人々の労をねぎらいなさい」(17-18)とまで言っています。この勧めは、現代の私たちも聞かなければならない、キリスト者としての普遍的立ち方ではないでしょうか。もちろん、神さまのことばである聖書に聞くことが第一ですが、歴代キリスト者たちが培って来た信仰者としてのそのような立ち方は、16世紀の宗教改革を持ち出すまでもなく、コリント教会の人たちも、そして私たちも守るべき、価値ある姿勢ではないでしょうか。

 そんな思いをもってパウロは、短いけれども力強いコリント教会への勧めを、三人の記事の前に挿入しました。「目を覚ましていなさい。堅く信仰に立ちなさい。男らしく、強くありなさい。いっさいのことを愛をもって行ないなさい」(13-14)と……。しかし、パウロを非難し続けていた人たちが、それをどれだけ真摯に受け止めたでしょうか。彼らは、パウロが主のことばの啓示者として立っていることをしっかりと受け止めなければならなかったのに、それには気づきません。1~3世紀に活躍した使徒後教父たちが、グノーシス主義などの異端文書がはびこる中で、福音書やパウロ書簡などを、旧約聖書と並ぶ神さまからの啓示の書として、その真偽の確定に何世紀もの時間を費やし、新約聖書27巻が聖書の正典であるとした様子は、紀元四世紀初頭に出されたエウセビオスの「教会史」に生き生きと記録されていますが、コリント教会の人たちは、そんな戦いが始まっていることには全く無頓着でした。神さまの恵みが詰まっているパウロの手紙ばかりか、それを持ち帰った人たちや、彼らを送り出した人たちにも、ごうごうたる非難を浴びせたようです。

 それらの非難に耐えるのは、大変だったでしょう。しかし、彼らは、イエスさまを信じる純粋な信仰に立ち続けました。そして、四十年後にローマ教会から届いた手紙は、コリント教会の混乱を耳にし、その収拾と補正が直接の目的だったようですから、依然古い体質が変わらないそんな教会が、よくも存続していたものと、感心するばかりです。きっとそこには、コリント教会を惜しまれた、主の憐れみがあったのでしょう。エルサレム神殿建立時に、ソロモンは祈りました。「あなたのしもべとあなたの民イスラエルが、この所に向かってささげる願いを聞いてください。あなたご自身が、あなたのお住まいになる所、天にいまして、これを聞いてください。聞いて、お赦しください」(Ⅰ列王8:30)と。この祈りはまた、コリント教会の一握りの義人たちの祈りでもあったのでしょう。天におられる主がその祈りを聞いて下さったのです。だからこそ、コリント教会は、四十年後もまだ立ち続けていられたのでしょう。私たちも、そのように主に向かって聖い祈りの手を上げ、この混乱する現代を、イエスさまを信じる信仰に堅く立ち続けようではありませんか。


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