コリント人への手紙Ⅰ


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主の道に歩むことを
コリント第一 16:10-12
イザヤ書    55:6-13
Ⅰ 若き伝道者テモテ

 今朝のテキストでは、コリント教会のために働いた、二人の伝道者が取り上げられます。現代の私たちの立ち方を示唆しているところでもあり、その辺りを探ってみたいと思います。

 最初はテモテです。「テモテがそちらに行ったら、あなたがたのところで心配なく過ごせるよう心を配ってください。彼も、私と同じように、主のわざに励んでいるからです。だれも彼を軽んじてはいけません。彼を平安のうちに送り出して、私のところに来させてください。私は、彼が兄弟たちとともに来るのを待ち望んでいます」(10-11)とあります。テモテはガラテヤ州南部ルステラの出身で、パウロの第一回伝道旅行で、ガラテヤ州南部にいくつもの群れが誕生しましたが、テモテの祖母ロイスと母ユニケ(Ⅱテモテ1:5)もそこでイエスさまを信じ、テモテはその信仰を引き継いだのでしょう。一年後、第二回伝道旅行でパウロがそれらの教会を巡回したとき、「ルステラとイコニオムとの兄弟たちの間で評判の良い人であった」(使徒16:2)と、近隣の教会を走り回って働いていた、20歳にもならない若者に目をとめました。テモテは、先輩たちに可愛がられ、マケドニヤ・ギリシャに足を伸ばす一行に加わり、テサロニケ、ベレヤ、後にはコリントにまで行き、今、エペソ教会でパウロのアシスタントをしています。伝道者というにはまだ幼かったテモテを、パウロは手許において訓練したのでしょうか、問題を抱えたコリント教会に送り出すほどに、成長していました。

 しかし、パウロは、この手紙がコリント教会に届くとき、テモテはまだ到着していないだろうと予想していました。手紙は船でエーゲ海を渡りますが、「自分に仕えている者の中からテモテとエラストのふたりをマケドニヤに送り出した」(19:22)と、テモテはトロアス経由で陸路を行ったのか、日数がかかりました。しかも、ここではその先がないかのように、「マケドニヤに」としかないのです。もしかしたら、故郷ガラテヤを経由したのかも知れませんが、もしそうなら、ガラテヤ諸教会のエルサレム教会への献金は、デルベ人ガイオと共にテモテが預かったのかも知れません。しかし、もしガラテヤ地方だけに行ったとすれば、コリント行き回避のためではなかったかと思われるのです。さらに想像を膨らませると、逃げ帰ったルステラで母ユニケや祖母ロイスに励まされ、再び任務に戻ったとも思われます。ある註解者は、「パウロは、テモテがその責務を全うできるかどうか不安をもっていたらしい」と言っています。パウロはコリント教会の改善を期待してテモテを送り出しましたが、彼はその期待に添えず、数ヶ月でエペソに逃げ帰って来たのではと、多くの註解者は推測しています。


Ⅱ 主に変えられて

 ここで、興味深い二つの記事があります。パウロ書簡の典型的書き出しですが、コリント第二書には、「神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロ、および兄弟テモテから」(1:1)と、テモテの名が記されているのに、第一書の書き出しには、「神のみこころによってキリスト・イエスの使徒として召されたパウロと、兄弟ソステネから」(1:1)と、テモテの名は見当たりません。この手紙が書き始められたとき、彼はマケドニヤにいたとも考えられますが、しかし、パウロが時間をかけてこの書簡を書いている間にも、何人もの人たちがコリントから来て、何通もの手紙が届き、パウロの中で、コリント教会への危機感が膨らんでいました。「あなたがたのところへテモテを送った」(4:16-17)とあるのは、第一書を相当書き進んだ四章です。パウロが、未熟なテモテを送り出すことに、かなり迷っていたと見るのが妥当でしょう。そこには、「主にあって私の愛する、忠実な子」(4:17)とあり、今朝のテキストにも、「彼も、私と同じように、主のわざに励んでいる」とあるのとは裏腹の、テモテの姿が浮かび上がって来ます。テモテは、若いということもあり、人々から軽んじられていたのでしょうか。それでも、コリント教会での屈辱は彼にとって大きな財産となり、パウロのエルサレム行きに同行して、囚われの身となったパウロの様子を目の当たりにし、身震いしながらも、伝道者として立つことの尊さを覚えたのではないでしょうか。

 テモテは、囚人となったパウロのもとから逃げ出しませんでした。コリント第一書の書き出しからはその名が省かれましたが、コリント第二書、ピリピ書、コロサイ書、第一、第二テサロニケ書、ピレモン書と六つのパウロ書簡の冒頭には、テモテの名が刻まれています。それらの書簡は、ある意味で、パウロとの共同執筆でもありました。中でもピリピ書、コロサイ書、ピレモン書は、パウロ一回目のローマでの獄中書簡でしたから、百人隊長ユリアスの庇護のもとで、比較的に自由だったとは言え、皇帝の裁判において有罪とされ、いつ処刑されてもおかしくない状況の中で、テモテはパウロに仕え、伝道者として貴重な訓練を受けていたのです。そうしたことが伝えられたからでしょうか、テモテはエペソ教会初代監督として迎えられ、使徒ヨハネがエルサレム教会から遣わされてからも、なおエペソ教会で働き続け、ドミティアヌス帝のもとで殉教したと伝えられています。いつまでもイエスさまの弟子としての覚悟が定まらない未熟な私たちですが、テモテのように、イエスさまを信じる信仰を、生涯をもって全うしたいではありませんか。


Ⅲ 主の道に歩むことを

 次ぎにパウロが取り上げたのは、もうひとりの伝道者アポロです。
 今朝のテキストには、「兄弟アポロのことですが、兄弟たちといっしょにあなたがたのところへ行くように、私は強く彼に勧めました。しかし、彼は今、そちらに行くことは全然思っていません。しかし、機会があれば行くでしょう」(12)とあります。

 ルカはアポロを、「アレキサンドリヤの生まれで、雄弁なアポロというユダヤ人がエペソに来た。彼は聖書に通じていた。この人は、主の道の教えを受け、霊に燃えて、イエスのことを正確に語り、また教えていたが、ただヨハネのバプテスマしか知らなかった。彼は会堂で大胆に話し始めた。それを聞いていたプリスキラとアクラは、彼を招き入れて、神の道をもっと正確に彼に説明した。そして、アポロがアカヤへ渡りたいと思っていたので、兄弟たちは彼を励まし、そこの弟子たちに、彼を歓迎してくれるようにと手紙を書いた。彼はそこ(コリント)に着くと、すでに恵みによって信者になっていた人たちを大いに助けた。彼は聖書によって、イエスがキリストであることを証明し、力強く、公然とユダヤ人たちを論破したからである」(使徒18:24-28)と紹介しています。彼は、当時ユダヤで最大と謳われた神学者フィロンを輩出した学術都市・アレキサンドリア出身で、ユダヤ人として最高の教育を受けていたのでしょう。知識人ルカの目を惹いたのも頷けます。彼は「ヨハネのバプテスマしか知らなかった」とありますが、当時、わずかに残っていた「ヨハネ教団」に属してはいなかったようで、ただ、熱心にイエスさまを伝えようとしていました。

 ルカは、アポロについて、雄弁で、霊に燃え、正確に、力強く、人々を大いに助けた……と、最大級の賛辞を寄せています。ユダヤ教神学に秀でながらもイエスさまの福音を伝える、恐らく、新しいタイプの伝道者として身を粉にして働いたアポロを、コリント教会の人たちは、分派の御輿の一つに担ぎ上げました。それが原因だったのでしょうか、彼は、分裂分派の争いに明け暮れるコリント教会で働き続けることは出来ないと、わずか2年でエペソに帰ってしまいます。彼には、福音の真実を教えてくれたアクラとプリスキラのいるエペソ教会が、母教会になっていたのでしょう。ところが、テモテだけでは心許ないと、コリント教会の人たちはアポロの再訪を熱心に求め、パウロも彼にコリント行きを勧めましたが、彼は断固それを固辞しています。アポロには、パウロのように、ただ主の召しにという使命感がなかったのでしょうか。エペソ教会が、彼のために祈っていたのに……。宣教の働きは、背後の祈りや多くの人たちの協力、何よりも、主ご自身の導きがあって為されることです。残念ながら、アポロの名はここでぷつりと消えています。テモテがそうであったように、アポロも変えられなければならなかったのです。それは、私たちにも言えることでしょう。イザヤ書に、「天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い」(55:9)とあります。私たちも、そんな主に一切を委ね、ただ主の導きのままに歩むことを学ばなければなりません。テモテが、そして、アポロが学ばなければならなかったように……。


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