コリント人への手紙Ⅰ


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福音の一滴が
コリント第一 16:5-9
箴 言     3:3-6
Ⅰ 新しい旅立ちに

 今朝取り上げるテキストは、パウロのコリント教会訪問の計画です。これについては他に、使徒行伝20:1-3、コリント第一4:18-21、コリント第二1:15-16と三箇所の記事がありますが、その辺りも見ながら、パウロの内に秘められた思いと、それがどのように実現していったかを探っていきたいと思います。

 パウロは、コリント教会に起こっていた分裂分派の動きや愛餐での無秩序、不道徳といった多くの問題について、何人もの人たちから相談を受けていましたが、それに答えようと何通もの手紙を書いています。しかし、それだけでは不十分と、海を挟んだもどかしさもあってか、直接顔と顔を会わせてそれらの問題について話し合い、共に祈りたいと願ったのでしょう。4章には、そんなパウロの思いが切々と記されています。「わたしがあなたがたのところへ行くようなことはないと見て、高ぶっている者がいるそうです。しかし、主の御心であれば、すぐにでもあなたがたのところに行こう。そして、高ぶっている人たちの、言葉ではなく力を見せてもらおう。……」(4:18-21新共同訳)と。しかし、それはまだパウロの願望に過ぎず、代わりに、若い伝道者テモテを送り出すことにしました(4:17)。テモテのコリント到着にはかなり時間がかかっていますから、テモテは、パウロに代わって、ガラテヤ地方経由でコリントに向かったのかも知れません。しかし、パウロ自身、何回もの手紙のやりとりの中で、「自分が行かなければ」という思いが募っていたのでしょう。パウロには、少し前から膨らんでいたある思いがあり、それを実行に移すために、報告と祈りの要請のために、アンテオケとエルサレムの教会に戻らなければならないと考えていたのです。そのとき、先の伝道旅行で立ち上げた各地の教会を巡回して……と、そんな思いが彼の中で具体的になっていたのでしょう。パウロの計画は、「わたしは、あなたがたがもう一度恵みを受けるようにと、まずあなたがたのところへ行く計画を立てました。そして、そちらを経由してマケドニヤ州に赴き、マケドニヤ州から再びそちらに戻って、ユダヤへ送り出してもらおうと考えたのでした」(コリント第二1:15-16新共同訳)とあります。しかし、その計画には、テサロニケやコリントの過激なユダヤ人の問題もあって、パウロ自身、不安を感じていたのでしょうか。「このような計画を立てたのは、軽はずみだったでしょうか」(同1:17)と言い添えています。

 それは紀元55年の暮れのことですが、第一書が書かれてから三~四ヶ月経っています。恐らくパウロは、第二書を書いた後、春になるのを待ってエペソを後にし、マケドニヤへ旅立ったのでしょう。


Ⅱ キリストの王国をローマに

 折しもエペソでは、アルテミス神殿の模型を作って参詣人に売っていた銀細工人たちが、そんなものは神ではないとパウロに非難されたことで、パウロ糾弾の騒動(使徒19:23-41)を起こしていましたが、それがパウロのエペソ出立のきっかけになりました。恐らくパウロは、エペソ教会がアジヤ州全域の中心教会として成長してきたことを踏まえ、そのような働きを、帝国の中心ローマでも展開したいと思っていたのでしょう。使徒19章には、「こうして、主のことばは驚くほど広まり、ますます力強くなって行った。これらのことが一段落すると、パウロは御霊の示しにより、マケドニヤとアカヤを通ったあとでエルサレムに行くことにした。そして、『私はそこに行ってから、ローマも見なければならない。』と言った」(20-21)とあります。その続きで、パウロは「騒ぎが治まると、弟子たちを呼び集めて励まし、別れを告げて、マケドニヤへ向かって出発した」(20:1)と、エペソ最後の集会に触れていますが、恐らくそこでは、「ローマにも」というビジョンが語られたのではないでしょうか。それは、パウロがアジヤ州で培った野望とでも言うべき壮大な計画で、ローマを「キリストの王国」にというものでした。残念ながらパウロは、殉教によってその計画から外されてしまいますが、しかし、パウロが思い描いた「キリストの王国」は、主に覚えられました。それは、ずっと後の、四世紀の人たちによって実現されるのですが、今、その戦いが、始まろうとしています。パウロのコリント訪問は、その構想のワン・ステップだったのではないでしょうか。

 パウロにしても、この計画には、多くの難関が待ち受けていると十分承知いていたのでしょう。今朝のテキストにも、「反対者も大ぜいいるからです」(9)と、それが暗示されています。「反対者」とは恐らく、コリント教会に巣くっていたユダヤ教律法主義者たちと、架空の救いを教会に持ち込んだ、グノーシス主義の宗教思想を表明する人たちを言っているのでしょう。当時のローマ・ギリシャ世界で福音の広がりに立ちはだかっていたのは、そんな人たちでした。だからこそ、ローマに行く前に、コリント教会で、そんな反対者たちへの戦いの火ぶたを切っておきたいと願ったのでしょうか。いや、パウロは、コリント教会の人たちに、なんとしてもイエスさまの福音の真実に達して欲しいと願い、そのために、今、コリント教会を訪れようとしているのです。


Ⅲ 福音の一滴が

 パウロは、「私は、マケドニヤを通って後、あなたがたのところへ行きます。マケドニヤを通るつもりでいますから。そして、たぶんあなたがたのところに滞在するでしょう。冬を越すことになるかもしれません。それは、どこに行くとしても、あなたがたに送っていただこうと思うからです。私は、いま旅の途中に、あなたがたの顔を見たいと思っているのではありません。主がお許しになるなら、あなたがたのところにしばらく滞在したいと願っています。しかし、五旬節まではエペソに滞在するつもりです」(5-8)と、コリント教会訪問の詳細な予定を告げています。これは、恐らく、先に書かれた「失われた手紙」で伝えられたであろうコリント第二1章にある予定を、変更した計画でした。変更理由は明らかではありませんが、これは55年夏の時点のことです。パウロは、翌年春の過越祭とそれに続く五旬節まではエペソにいて、それからピリピ、テサロニケ、ベレヤ……と、同じように難題を抱える諸教会を巡回しながら、コリントにはいつ頃着いたのでしょうか。地中海の冬11月~2月は、ユーラクロンと呼ばれる北風が吹き荒れ、航海には危険な季節でした。使徒行伝20章には、「マケドニヤへ向かって出発した。そして、その地方を通り、多くの勧めをして兄弟たちを励ましてから、ギリシャに来た。パウロはここで三か月を過ごしたが、そこからシリヤに向けて船出しようというときに、彼に対するユダヤ人の陰謀があったため、彼はマケドニヤを経て帰ることにした」(1-3)とあります。パウロは、コリント教会に三ヶ月ほど滞在した後、コリント南方のケンクレヤから船出するつもりでしたが、ユダヤ人の陰謀発覚のため、進路を北に取り、陸路マケドニヤ経由でトロアスに向かいました。そこでエルサレムへの献金を携えた人たちと落ち合うためです。

 先に、反対者のことに触れるため9節を上げましたが、そこには、「働きのための広い門が私のために開かれている」ともあるのです。コリントやテサロニケ教会もそうでしたが、当時の異邦人教会には、ディアスポラのユダヤ人やグノーシス派の異端思想に影響された人たちが大勢入り込んでいて、多くの問題を起こしていました。昔も今も教会は、反対するものの手によって攻撃され続けています。しかし、教会には、それらの問題を力強く広い愛をもって解決して下さる、恵み溢れる主がおられるのです。先に「献金」のことで、ガラテヤの諸教会のことに触れましたが、そうしたことも併せて、パウロのこの壮大な宣教計画が浮かび上がって来ます。ガラテヤ、テサロニケ、コリントと、人間的な目で見て、愛が冷えてどうしようもなくなっている社会も、福音の一滴で変えられるのです。ローマをも視野に入れたパウロのこの壮大な宣教計画は、その視点の凄みを、強烈に見せつけてくれるではありませんか。それは、ビジョンを失ったかに見える現代の教会にも、言えることでしょう。箴言には、「恵みとまことを捨ててはならない。神と人との前に好意と聡明を得よ。心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」(3:3-6)とあります。愛と希望を失ったかに見えるこの現代社会においても、教会に来て、愛と希望の主である、イエスさまを見つめようではありませんか。そこには、あなたのすべての悩みを見て知っておられる、神さまがおられるのです。


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