コリント人への手紙Ⅰ


61
私たちの愛の手を
コリント第一 16:1-4
イザヤ書 66:18-24
Ⅰ エルサレム教会への献金

 コリント第一書の最後、16章に入ります。ここでは、コリント教会への勧め、報告、指示といったことが取り上げられていますが、当時の「教会」の実像が浮かんで来るようで、興味深いところです。しかも、その一つ一つには、キリスト者の在り方として、奉仕と互いへの愛のわざが具体化されていて、パウロの信仰の節度が見られるようです。「現代」というこの時代に、私たちがそれをどう聞くのか、問われるところでしょう。

 今朝は、教会への献金ということで、1-4節からです。
 献金は教会に来た人たちがぶつかる「第一の壁」とも言えるもので、どうしても見ておかなければなりません。「さて、聖徒たちのための献金については、ガラテヤの諸教会に命じたように、あなたがたにもこう命じます」(1)と始まります。献金は、しばしば、教会や伝道者などへの経済的支援と理解されていますが、ピリピ書には、ピリピ教会からパウロに、二回も献金が届けられたと記されています(4:16)。パウロは、自分と同行する若い伝道者たちの必要を、教会からの献金を当てにすることなく、天幕造りの技術を生かして得ていました。ですから、ピリピ教会からの支援は、パウロにとって、予想外の出来事だったのでしょう。

 しかしパウロは、ロマ書やテサロニケ書などで、コリント教会へと同じニュアンスで、特別な意味を込めて献金の勧めをしています。それは、「あなたがたの献金をエルサレムに届けさせましょう」(3)とあるように、エルサレム教会への経済的支援としての献金でした。もともとエルサレム教会には、エルサレム在住の貧しい人たちが多かったのですが、彼らよりさらに貧しい世界各地から帰還したディアスポラのユダヤ人やユダヤ教に改宗した異邦人がたくさんいて、その人たちが教会に助けを求めていたからです。エルサレム教会は、そんな貧しい人たちに、物心両面の援助をしていました。使徒行伝には、そんな生活共同体としてのエルサレム教会の様子(2:44-47、6:1)が描かれています。しかし、教会は企業ではありませんので、そんな共同生活がいつまでも続く筈がありません。そうしたエルサレム教会の実情を知った異邦人教会が、援助に乗り出しました。きっかけは、世界的に起こった大飢饉です。慢性的貧困に陥っていたエルサレム教会のことが各地の教会に知られ、アンテオケ教会で働いていたバルナバとパウロは、アンテオケ教会からの献金を、エルサレム教会に届けました(使徒11:28-30)。記録に残るエルサレム教会への献金、第一号です。


Ⅱ 受けた神さまの恵みを

 献金は、差し出す者たちが受けた神さまの恵みを他の人たちに分け与える、麗しい信仰の行為です。エルサレム教会という小さな点から始まったイエスさまの福音が、ユダヤとサマリヤの全土、さらに、地の果てまで広がって(使徒1:8)、世界的規模に膨れ上がっていったのは、この受けた恵みを他の人たちに差し出す、信仰の行為から始まったと言えましょう。個々人の小さな一歩が、イエスさま共同体全体の大きな歩みになって行ったのです。それが神さまの方法でした。

 日本のプロテスタント教会には、明治の初期教会時代と第二次世界大戦後の復興期と、二回の大きな節目があります。そのどちらも、アメリカからの宣教師とともに、アメリカの教会からたくさんの献金が届けられています。その献金に、まだ若く貧しい日本の教会は、助けられました。明治三年に神戸に遣わされた最初の宣教師・グリーン博士夫妻も、ボストンのウイリアム・ローブスという実業家を中心に、四十数年にも及ぶ小さな祈りの会から派遣・支援されて来たと、神戸の教会史に紹介されています。その間の216,600円にも及ぶ献金は、すべて日本に贈られたと聞いていますが、現代の金額に換算して、どれくらいだったのでしょうか。そんな献金を、ボストンの人たちは喜んで献げました。その献金は、まだ未開だった日本各地の医療と教育にも支援されたと聞いています。日本の近代化と復興を助けたのは、アメリカを初めとする欧米の宣教師たちであり、世界各地の教会だったのです。私たちも、そんな教会の麗しい伝統を受け継ぎ、守り、次世代に引き継ぎたいではありませんか。

 今朝のテキストから、この献金のことでいち早く動き始めていた、「ガラテヤの諸教会」を紹介しておきたいと思います。第一回伝道旅行でパウロは、アナトリア半島(小アジヤ)の中央部に位置する、ガラテヤ州南部のピシデヤのアントオケ(使徒13:14)、イコニオム(同14:1)、ルステラ(同6)、デルベ(同6)で働き、そこに出来た小さな集会の群れが「ガラテヤの諸教会」と呼ばれるようになりました(別の見解もある)。ところが、このガラテヤの諸教会は、パウロが去った後に入り込んで来たユダヤ人律法主義者たちによって惑わされ、一時期、イエスさまの福音から逸れてしまったことがあり、パウロから、「おお愚かなガリラヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにもはっきり示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたですか」(ガラテヤ3:1)と厳しい叱責を受けています。ガラテヤ書は、恐らく、紀元50-51年頃、コリントにいたパウロから書き送られた手紙ですが、コリント書以上に厳しい叱責の書と言われています。しかし彼らは、わずか4-5年のうちに立ち直り、イエスさまに連なる群れとして、ここに書き留められているのです。それは、コリント教会の人たちにとって、大きな励みになったのではないでしょうか。


Ⅲ 私たちの愛の手を

 ともあれパウロは、「私がそちらに行ってから献金を集めることがないように、収入に応じて、手もとにそれをたくわえておきなさい。私がそちらに行ったとき、あなたがたの承認を得た人々に手紙を持たせて派遣し、エルサレムに届けさせましょう。しかし、もし私が行くほうがよければ、彼らは、私といっしょに行くことになるでしょう」(2-4)と、コリント教会の人たちに、エルサレム教会への献金の勧めをしています。そして、パウロは、アジヤ州での働きを切り上げて、マケドニヤ経由で諸教会を再訪しながらコリントに行き、恐らく、それら教会からの献金を持って加わった8人の人たちと共に(使徒20:4-5)、エルサレムに帰還しました。

 ところで、エルサレム教会に献金を届けたのには、経済的支援の他に、もっと根本的理由があったと指摘する人たちがいます。ここに言われる「聖徒たち」は、エルサレム教会の人たちを指す特定表現であって、当時、世界各地に建てられた「キリスト教会」には、母なる教会・エルサレム教会に連なることで自分たちを真のイスラエルであると告白する、「神さまの民」意識が生じていたのではないでしょうか。そこまで言い切ることが出来なくても、エルサレム教会に献金を差し出すことで、そこに、キリストのからだである教会の一体性(ひとつの教会)を共有したいという意識があったのではないかという指摘です(ロマ15:25-27、Ⅱコリント9:1-15)。第二コリント書には、「このわざ(献金)を証拠として、彼らはあなたがたがキリストの福音の告白に対して従順であり、彼らに、またすべての人々に惜しみなく与えていることを知って、神をあがめることでしょう。また彼らは、あなたがたに与えられた絶大な神の恵みのゆえに、あなたがたを慕うようになるのです。ことばに表わせないほどの賜物のゆえに、神に感謝します」(9:13-15)とあります。経済的支援は愛の行為であり、この愛の行為はキリスト者として当然のことであるとパウロは考えていたのでしょう。しかし、エルサレム教会に対しては、もしかしたら、そんな意識が働いていたのかも知れません。

 ところが、この献金を携えてエルサレムに到着したパウロとその一行が、エルサレム教会のヤコブや長老たちから歓迎され、感謝された形跡がないのです(使徒21:17以下)。そればかりか、イエスさまを信じた異邦人たちに割礼を施さなかったことで、パウロは非難されています。そして、それをきっかけに、パウロ排斥のユダヤ人暴動が起こり、ついに、パウロの逮捕・裁判へとつながってしまいます。これは後のことですが、エルサレム教会が初期教会の歴史から消えてしまったのは、律法主義に偏り、イエスさまから注がれた愛を失ってしまったからではないでしょうか。イザヤ書には、「彼らは、すべての国々から、あなたがたの同胞をみな、主への贈り物として、馬、車、かご、騾馬、らくだに乗せて、わたしの聖なる山、エルサレムに連れて来る」(66:20)とあるのに。私たちは、主の愛に連なる者として、私たちの愛の手を、惜しみなく、多くの人たちに差し出そうではありませんか。


Home