コリント人への手紙Ⅰ


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主の日の礼拝をもって
コリント第一 15:3-4
マラキ書    4:1-6
Ⅰ 神さまの恵みの中で

 前回で15章を終えましたが、そこで私たちは、福音の「最も中心的なこと」として、「キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと」(3-4)と、パウロの証言を聞きました。その証言は、「神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。ですから、わたしの愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから」(57-58)と、私たちがわくわくと心弾ませながら迎える、永遠の「希望の神学」として閉じられました。しかし、15章七回のメッセージを読み返してみて、大切な何かが抜け落ちているように感じられ、今朝もう一度15章に留まり、その「足りない」ところを探ってみたいと思います。

 二つあります。まず第一のことですが、ここで多用されていることばに、「死者の復活」があります。グノーシス主義神学の仮想的思想に囚われていたコリント教会の人たちは、「死者の復活はない」と、イエスさまの復活を否定するのですが、パウロは順序を逆にして、イエスさまが復活されたのだから「死者の復活はある」と反論しました。イエスさまの復活は、多くの人たちの証言通り事実であって、だからこそパウロの反論は有効なのですが、なぜかその議論が噛み合っていません。長い15章全体を見ても、コリント教会の人たちが納得したという印象が持てないのです。私のメッセージを何度も読み返してみて、その不足に行き当たりました。パウロが明確にしていなかったので気付かなかったのですが、それは、イエスさまの「死」と「復活」の連続性という問題です。ですから今朝、もう一度イエスさまの出来事に戻って、その連続性を確かめたいと思うのです。

 コリント教会の人たちは、イエスさまの「死」を、人の「死」に重ね合わせました。人の「死」はそれぞれですが、「死」そのものが異なるわけではありません。しかしパウロは、イエスさまの死を、「私たちの罪のための死である」と言い切っています。普通の死ではなく、それは「十字架の死」なのだと……。それは、世界中のあらゆる死とは区別される、唯一イエスさまだけが十字架にご自分のいのちを捨てることで人の罪の贖いとなる、ご自分から進んでそこに赴かれた「死」だったのです。だからこそ、その「死」は「復活」という出来事につながってパウロの「希望の神学」を生み出し、私たちはそれを私たちの救いと聞くのです。なぜなら、十字架も復活も、神さまの恵みと愛と栄光の中で起こった出来事なのですからです。


Ⅱ 連続性とトータル

 よく見ると、十字架と復活の連続性は何度も暗示されていたのですが、目についた二箇所を上げておきましょう。「もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは自分の罪の中にいるのです」(17)、「血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。……しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、『死は勝利にのまれた。』としるされている、みことばが実現します」(50、54)と、いづれも含みを持たせながらですが、十字架と復活のどちらにも触れています。そして、死への勝利は、十字架と復活によって、もはや確定していると言っているのです。

 十字架がなければ、神さまの御国を相続することは出来ず、復活がなければ、やはり御国を相続することは出来ません。十字架と復活がなければ、私たちは、現在の不安を抱えた歩みを解消出来ないまま、朽ち果ててしまうのです。いづれ迎える「死」が私たちの終着点なら、不老不死が究極の目標になってもおかしくはないでしょう。グノーシス神学は、おとぎ話のような神秘主義に走ってしまいましたが、医療やAIが想像を超えて発達して人の生き死にに深く関わり、神さまの領域に踏み込んだかに見える現代人のあり方も、それと同じではないでしょうか。けれども、おとぎ話にしろ現代科学にしろ、人が「いのち」の領域に踏み込むなら、そこには、「いのち」の創造主である方の前での、謙遜が求められるのです。十字架と復活の連続性は、イエスさまを遣わされた神さまご自身にあるのですから。

 そして、もう一つのことですが、これまで私たちは、十字架と復活を、使徒信条に「十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり」と並列に並べられていることもあって、その連続性を当然のこととしながら、ある意味で、ばらばらに聞いて来たのではないでしょうか。けれども、イエスさまの出来事は、すべて一括りに聞かなければなりません。特に十字架と復活は、イエスさまが遣わされた最も中心的出来事で、トータルに見ていかなければならないのです。それがパウロ神学の重要な特徴です。

 トータルにとそれは、先に上げた「連続性」と同じニュアンスでもあるのですが、そこにはもっと別の視点が考えられなければなりません。グノーシス派の人たちが「救い」に必要としているのは、端的に言って、神話的想像とギリシャ哲学が結びついた「グノーシス」、すなわち「(人間の)知識」なのです。人間は、「救い」という絶対他者に絡むことでさえ、自分たちの知恵や知識で乗り切ることが出来ると考えているのでしょうか。つまり、そこにはイエスさまがいない。救い主・イエスさまが必要とされていないのです。


Ⅲ 主の日の礼拝をもって

 イエスさまの出来事は、父なる神さまに遣わされて世に来られたところから始まります。それは、イエスさまが、「マリヤより生まれた」という歴史上の、私たちの現実の中に登場して来られたことを意味しています。パウロは、ヨハネが「初めにロゴスがあった」(福音書1:1)「(そのロゴスが)人となって、私たちの間に住まわれた」(同1:14)と書き始めた一世紀末の神学を知りませんが、今、天にありながら、時々に自分に現われて下さるそのお方を、神さまの啓示として証言しているのです。その啓示には、イエスさまの教え、行動、十字架、復活のすべてが包括されますが、端的に言うなら、「私たちの間に住まわれた」ことそのものが啓示なのです。そして、啓示者たるお方は、遣わされて世に住まわれたご自身の使命・啓示を、ご自分の「いのち」をもって全うされました。つまり、イエスさまが世に来られたのは、ご自分の「いのち」を、十字架に磔けるためだったのです。

 そのイエスさまを、父なる神さまは、霊のからだによみがえらせ、ご自身のおられる栄光の住まいに迎えられました。そしてそれは、パウロが「神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました」(57)と証言しているように、私たちのあらゆる「死」への勝利なのです。パウロはそれを、ピリピ書で次のように言っています。「キリストは、神の御姿であられる方なのに、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになった。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が『イエス・キリストは主である。』と告白して、父なる神がほめたたえられるためである」(2:8-9) 残念ながらこの丁寧な証言は、コリント書から省かれています。これは、イエスさまのご人格の中心に、十字架の愛と復活・昇天の栄光が占められているということで、この方を私たちの主であるとする信仰告白に凝縮しているのです。それは、「主イエス・キリストの御名」(1:2、10、5:4、6:11)と語られ、私たちの信仰告白の中で覚えられていくのでしょう。

 これをパウロは、「これはあなたがたのためのわたしのからだ、この杯はわたしの血による新しい契約です。わたしを覚えてこれを行ないなさい」(11:23-25)と、主の日ごとに行われる礼拝の中心・聖餐で覚えるべきこととしました。それは、パウロが「(私たちの信仰の)土台はイエス・キリストである」(3:11)と証言した中で覚えられ、終末の日に向かって行くのです。主の日を迎え、共に集まって主を拝し、そこで心を一つに賛美し、祈り、感謝し、みことばを聞くのです。「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい」(6:20)と覚えたいですね。「わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、癒やしがある」(マラキ4:2)と、その約束が、イエスさまを介して与えられているのですから。 


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