コリント人への手紙Ⅰ


59
日々、みことばを
コリント第一 15:50-58
箴 言      2:1-12
Ⅰ その日に……

 15章でパウロは、イエスさまの復活に焦点を合わせながら、「最も大切なこととして」福音を語り始め、今、その議論を締め括ろうと、終末の日に触れようとしています。「兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません」(50)と、その論点の中心は、「神さまの御国を相続する」ということでした。それが聖徒たちの終着点であると……。もちろん、「血肉のからだは神の国を相続」出来ません。血肉のままでは、罪を精算出来ないからです。その問題も含めて、今朝のテキストを見ていきたいと思います。

 「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう」(51)とパウロは、渾身の力を込めて、神さまから召された、啓示者としての務めを果たそうとしています。「奥義」とは、諸宗教がこれこそ宗教の極地であるとして陥って行く密儀のことですが、啓示者パウロは、今、神さまだけの世界を明らかにしようと、コリント教会の人たちに、注意を促しているのです。それは終末の日に関することでした。「終末」は、小松左京の「日本沈没」にあるような、天変地異と共に訪れるこの世の終わりと思われがちですが、パウロは、もっと別のことに焦点を当てています。「私たちは眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです」(51-52)と。「死者の復活はないのだから、神さまの新しい世界など虚構ではないか」とする、グノーシス主義の宗教思想に囚われていたコリント教会の人たちに、この主張は相当のショックだったでしょう。現代の私たちにも……。しかし、私たちにとって、その新しい世界こそ、現在のことよりずっとずっと大切なのです。今朝は、そのことを聞いていきたいと思います。

 その日が迫って来ました。その日、合図のラッパが響き渡ります。この「ラッパ」は、古代世界で戦争や宗教行事で用いられた、20㎝ほどの青銅製の直管型トランペットですが、これは、終末の日が来たことを天使が(?)告げる合図です。その日、その音色を私たちが実際に聞くかどうかは何とも言えませんが、その日が来ることは確かです。パウロは、「死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられる」と言っていますが、その通りのことが起こるのだと、私たちも心備えをしておかなければなりません。どのように? 朽ちないものに変えられることを願う、心備えです。もしかしたら、その日は、裁きに向かう日でもあるのですから。


Ⅱ 恵みの約束が

 パウロは、「それは必ずなる」と断言しました。「朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、『死は勝利にのまれた。』としるされている、みことばが実現します。『死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。』」(53-55)と。

 最初に、いくつか、文章の問題に触れておきたいのですが、まず、新改訳が54節の接続詞を「しかし」と訳したのは、少々不注意と思われます。新共同訳のように訳さないか、訳すとしても、「そして」か「しかも」としたほうがいいのではないでしょうか。それはパウロが、前節の「朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです」の意味を、ここで確定しようとしているからです。もう一つ、ここに二回ある「~なければならない」は原意通りなのですが、ニュアンスとしては、新共同訳が「必ず着ることになる」と訳したように、強制より必然を言っていると聞いたほうがいいでしょう。なぜなら、それは聖徒たちにとって、神さまの恩寵だからです。そう聞きますと、引用されたイザヤ書とホセア書からのことばが、聖徒たちへの約束として浮かび上がって来ます。そこにはこうあります。「(万軍の主は)永久に死を滅ぼされる」(イザヤ25:8)、「陰府(よみ)(よみ)の支配からわたしは彼らを贖うだろうか。死から彼らを解き放つだろうか。死よ。お前の呪いはどこにあるのか。陰府よ、お前の滅びはどこにあるのか。憐れみはわたしの目から消え去る」(ホセア13:14)と。ホセア書のほうは、意訳した新共同訳からです。これは逆説ですが、神さまの約束なのでしょう。パウロは、旧約聖書から二箇所を引用し重ねることで、神さまの恵みの約束を強調したのではないでしょうか。

 さて、パウロが提題した中心主題は、二つあります。まず第一のことからですが、「しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました」(57)とあります。この「勝利」は、終末の日に、霊のからだに復活して神さまの御国に招き入れられる、聖徒たちへの約束を指しています。私たちは朽ちない光栄に浴するのだと……。想像力に乏しい私たちには、そんな御国の様子など理解に欠けるのですが、黙示録には、「神は彼らとともにおり、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである」(21:3-4)とあります。ヨハネがこれを執筆していた時、ローマはキリスト者たちを追いかけ回して迫害し、愛する者同士を引き裂き、苦しめていました。ローマの地下墓所カタコンベには、隠れ潜んでいたキリスト者の痕跡が、今もなお残っています。しかし、そんな殉教の中で、彼らは、神さまの「勝利」という希望を見つめていました。その喜びと光栄に満ちた勝利を、現代の私たちも見つめたいではありませんか。神さまには、死をもはね返す恩寵があるのですから。


Ⅲ 日々、みことばを」

 そしてもう一つは、「罪」という問題です。「死のとげは罪であり、罪の力は律法です」(56)とあります。「死」は、神さまに逆らって禁止された木の実を食べてしまったアダム以来、人間にとって避けられないものになりました(創世記3:19)。人に死が入って来たのは、罪の結果なのです。ところが、十字架に死んで私たちの罪を贖って下さったイエスさまを介して、神さまは、「死は勝利に飲み込まれた」と言われるのです。罪への勝利は、死への勝利でもあるのです。その勝利は、「朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着る」終末の日に、最終的に実現するのですが、十字架において実現した罪への勝利は、律法が力を振るう、今、この現在に生きる聖徒たちにも、確かなものとなっているのです。啓示者パウロは、神さまの目が徹底的に聖徒たちに優しく注がれていることを感じ取って、終末の日を「恵みの時」と言いました。それは今、この時でもあるのです。コリント第二書には、「見よ、今は恵みの時、今は救いの日である」(6:2)とあります。パウロが最も大切なこととしたイエスさまの福音は、「イエスさまの十字架に罪赦される」ことから始まるのです。

 「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあって無駄ではないことを知っているのですから」(58)と、これは15章全体に渡るパウロの結語です。現代は、迫害の時代ではないとしても、キリスト者であるがゆえの悲しみや苦しみと無縁ではありません。近年、その傾向は膨れつつあります。穏やかな日本にいては分かりにくいですが、キリスト者だというだけで、苦しめられている人たちが増えているのです。そんな中で、まだ成就してはいないその約束を望み見て、主に感謝する日々を過ごしたいではありませんか。パウロが言った「主のわざに励め」には、感謝も喜びも賛美も、祈りも証しも、聖日ごとに守られる礼拝も含まれるでしょう。そこにもう一つ加えたいのですが、毎日、少しづつでもいいですから、聖書を読むということです。そこには、私たちの信仰を堅く立て、現代の教会を元気づけていく、測り知れない力があります。16世紀の宗教改革は、そのようにして起こったのです。箴言には、「わが子よ。もしあなたが、私のことばを受け入れ、私の命令をあなたのうちにたくわえ、あなたの耳を知恵に傾け、あなたの心を英知に向けるなら、……そのとき、あなたは、主を恐れることを悟り、神の知識を見いだそう。主が知恵を与え、御口を通して知識と英知を与えられるからだ」(2:1-6)とあります。賛美も感謝も祈りも、そこで育っていくのです。勝利の主にお会いする日が近づいています。主を覚えることを第一にしたいではありませんか。そこに救いがあるのですから。


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