コリント人への手紙Ⅰ


58
天の住まいに
コリント第一 15:35-49
創世記     3:17-21
Ⅰ 神さまを時間の中心軸に

 「死者の復活」のことで、パウロの反論が続きます。コリント教会の人たちは、「死者は、どのようにしてよみがえるのか。どのようなからだで来るのか」(35)と言いましたが、彼らは現実の世界しか見ていませんでした。その意味で、今朝のテキストは、現代の私たちも聞かなければならない、大切な議論を含んでいます。この疑問は、肉体は悪であるとするグノーシス派二元論の、地上のからだを脱ぎ捨てることだけに関心を持つ中から出て来たものです。彼らにとって、地上の肉体に復活するなど、あり得なかったのです。事実、肉体は朽ち果ててしまうではないか。しかし、キリストを信じる者は、それが「救い」であるなどと言っている……と。彼らにとって、「枯れた骨の復活」(エゼキエル37:7-10)など、荒唐無稽なおとぎ話にしか思えなかったのです。しかし、そこには、「息に預言せよ」とあるのです。それは、いのちを司る神さまの専権事項でした(参考:創世記2:7)。しかも、この復活は、新しいいのちへの復活であって、単なる蘇生ではないのです。

 ここで預言者は「神さま」のことを言っているのですが、コリント教会の人たちは、その「神さま」という時間の中心軸を、持っていなかったのです。いや、現代人のように、それが曖昧だったのでしょう。パウロはそのことを、次のように表現しました。「愚かな人だ。あなたの蒔く物は、死ななければ、いかされません。あなたが蒔く物は、後にできるからだではなく、麦やそのほかの穀物の種粒です。しかし神は、みこころに従って、それにからだを与え、おのおのの種にそれぞれのからだをお与えになります。すべての肉が同じではなく、人間の肉もあり、獸の肉もあり、鳥の肉もあり、魚の肉もあります。また、天上のからだもあり、地上のからだもあり、天上のからだの栄光と地上のからだの栄光とは異なっており、太陽の栄光もあり、月の栄光もあり、星の栄光もあります。個々の星によって栄光が違います。」(36-41)

 この表現は、被造物世界の比喩をもって、間接的に語られていて分かりずらいのですが、パウロは、そこに神さまの決定があると言っているのです。これら「穀物の種粒」、「さまざまな肉の種類」、「星々の栄光(恐らく輝き)」は、すべて神さまが決定されたことでした。そもそも、いのちの息吹は、決して同じではありません。個体によって非常な違いがあり、その違いこそ、神さまの介入の証しではないでしょうか。一粒一粒の小さな種は麦や米を育て、美しい花々を咲かせます。それらは人を養うと同時に、主への賛美でもあるのでしょう。まして、格別な思いを込めて創造された人のいのちには、その一つ一つに深く大きな愛が込められているのです。あなたたちは、太陽や月や星々よりもずっとすばらしい輝きを持っているではないかと、パウロの語りかけを聞きたいではありませんか。


Ⅱ 死の先にあるものを

 「死ななければ生かされない」とは、そのことを指しているのでしょう。人の死も一粒の種のいのちも、すべて神さまの専権事項だからです。しかし人は、死を、現在のいのちの延長上でしか見ることが出来ません。「死者は、どのようにしてよみがえるのか。どのようなからだで来るのか」という問いかけは、その最たるものでしょう。死の先に何があるかなど、人間の思考の範疇外なのです。しかし、コリント教会の人たちは、グノーシス派の宗教思想に毒され、その範疇を超えて、「自分たちは知者である」と思い上がっていました。それは現代も同じですが、現代は、いかにもIT時代らしく、一段と進んだ進化論の理論武装を究極の事実として、「神は脳の中にいる」と結論づけ、やがて人は「死といのち」さえコントロール出来るようになると、豪語しているのです。人は、無謀にも、わずかな知恵をもって、神さまの領域に踏み込んでいます。ところが、神さまのことになると、これほどの科学を築き上げた人間の思考力も、おとぎ話のようなところで、一律に停止してしまうのです。

 パウロは、「死者の復活もこれと同じです」(42)と、神さまの前で謙遜になるように勧めています。「朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです」(42-44)とパウロは、人の世界と神さまの世界を棲み分けました。本来、「朽ちるもの」も「卑しいもの」も「弱いもの」も「血肉のからだ」も神さまに属するもので、「良いとか悪い」という議論は当てはまらないのですが、コリント教会の人たちは、グノーシス主義の「善と悪」の二元論で人間や世界を考えていましたから、それに付き合う形で、パウロは、彼らに分かりやすいように、「朽ちるからだと朽ちない霊」という議論を提供したのでしょう。事実、現実の世界しか見ていない人たちは、滅ぶべき物質に取り囲まれ、いのちそのものでさえ、滅びて一巻の終わりという思想(恐らく、豊穣信仰に由来する)に毒されているのです。そこに、神さまに抗う(あらがう)自分たちの「罪」やイエスさまの贖罪があるなど、思いもよらないのです。現代人も同じでしょう。「死者の復活」があって、私たちは神さまの裁きの座に引き出され、裁かれて第二の死に振り分けられるのですが、まして、その先に新しいいのちがあるなど、神さまの啓示に触れなければ、そんな広い世界に思いを馳せることなど出来ないのです。しかし、パウロの議論は、神さまの啓示・イエスさまにまで及びます。


Ⅲ 天の住まいに

 「聖書に『最初の人アダムは生きた者となった。』と書かれてありますが、最後のアダムは、生かす霊となりました。最初にあったのは、血肉のものであり、御霊のものではありません。御霊のものはあとに来るのです」(45-46)とパウロは、「最初のアダムと最後のアダム」とを比較していますが、「最後のアダム」がイエスさまを指していることは明らかでしょう。これは、「第一の人は地から出て、土で造られた者ですが、第二の人は天から出た者です」(47)と言い換えられて、「血肉の者」は神さまに造られた者、「御霊の者」は神さまによって天から遣わされた者であると、その出所をはっきりさせているのです。恐らくパウロは、グノーシス主義の救い主・「外からの呼び声」―派によって一律ではない―(講解説教55)が至高神の創造による被造物であるのに対し、イエスさまは断じてそのようなお方ではないと異議を唱えているのでしょう。「生かす霊」とはまさに、イエスさまが果たされた務めそのものでした。パウロは、イエスさまと御霊を区別してはいませんが、福音書記者ヨハネは、御霊をパラクレートス(助け主)と呼んで、その方をイエスさまの現在化であるとしています。私たちに区別はつきませんが、父なる神さまもイエスさまもパラクレートスも、一体となって、滅ぶべき私たちを新しいいのちに造り変えて下さると言っているのでしょう。

 パウロは、このフレーズを、「土で造られた者はみな、この土で造られた者に似ており、天からの者はみな、この天から出た者に似ているのです。私たちは土で造られた者のかたちを持っていたように、天上のかたちをも持つのです」(48-49)と締め括りました。蒔かれた種が地に落ちて芽を出し、新しいいのちを産み出すように、イエスさまの十字架に罪を贖われた者たちは、古いいのちを捨て去って、新しいいのちによみがえるのです。その「霊のからだ」がどんなものなのか、あれこれと詮索する必要はありません。私たちはただ、神さまの約束を信じ、見つめていればいいのです。それは必ず「なる」からです。土で造られ、土に生きる私たちですが、それは、私たちを取り巻く環境がどんなに近代化しても、根本的に変わることはないでしょう。ロケットで簡単に宇宙に飛び出せる時代でも、イエスさまの福音に出会わなければ、土に縛りつけられた私たちの生き方に希望はなく、額に汗して、いつか、土に帰るのです。それは、修業や宗教儀礼によって変えられるものではなく、ただ、私たちを福音に招いておられる神さまの恩寵によってのみ、希望となるのです。「天のかたち」とは、そのことを指しているのでしょう。創世記3章にこうあります。「神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった」(3:21) 「皮の衣」、そこには動物の血が流されています。原始福音と言われる所以です。私たちの罪のために血を流して下さった、イエスさまの救いに目を留め続けようではありませんか。土に帰る者にも、天の住まいに希望があるのですから。


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