コリント人への手紙Ⅰ


56
恵みといのちで
コリント第一 15:20-28
イザヤ書    55:6-13
Ⅰ アダム以来の死に抗して

 パウロは、満を持して暖めて来た、コリント教会の人たちへの反論に取りかかります。その論点の第一は、前回、「グノーシス派の自由主義思想に囚われたコリント教会の人たちが、『死者の復活はないのだから、キリストの復活もない』と主張したような、『死者の復活』→『イエスさまの復活』の順序ではなく、『イエスさまの復活』→『死者の復活』の順序で、人間の最も根本的な死の問題を解決しようとしている」と述べましたが、その決着点です。「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました」(20)とあります。聖書には、ラザロ(ヨハネ11:38-44)など、死者のよみがえりの記事がいくつかありますが、しかしパウロは、イエスさまが、再び死ぬ者の蘇生のためにではなく、永遠の死―黙示録では「第二の死」と表記されている(20:14)―に定められている私たちが、その究極の死に囚われないために、その初穂として復活されたと断言しているのです。これは、終末時に、永遠の世界に私たちを招き入れて下さる神さまの救いの出来事で、神さまの恩寵に関わることですから、これ以上の議論は不要でしょう。

 しかしパウロは、「というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです」(21-22)と、丁寧に付け加えました。丁寧にと、これは、イエスさまの「復活」を、人類の歴史の中に「死」を忍び込ませた、「アダム」と対比させてところに見られます。アダムの創造が描かれている創世記には、「食べてはならない」と禁止された木の実を食べたアダムに、神さまが「あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない」(3:19)と言われたと書かれているだけですが、パウロは、ロマ書でそれを補足をしています。「ちょうどひとりの人(アダム)によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がった。……ひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。……それは罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためです」(5:12-21)と。このメッセージでは、「死の根本的原因である罪」と「イエスさまによる永遠のいのち」に、的を絞っているようです。しかし、コリント書は現世のことを中心問題にしているからでしょうか。パウロは、コリント教会の人たちに、「聖書に、『最初の人アダムは生きた者となった。』と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました」(15:45)と書き送りました。


Ⅱ 神さまのご計画が

 パウロは、アダムとイエスさまを対比させましたが、それは根本的に「罪と赦し」の対比であり、「死といのち」という救いの対比にまで昇華するものであると言っています。グノーシス派の宗教思想に囚われて死も罪も曖昧にしてしまったコリント教会の人たちは、アダム以来、人間という者は、神さまの前に罪あるゆえに死すべき者であり、滅びに至る者であると、どうしても覚えなければならなかったのです。彼らは、「善と悪」という二元論に立って、宗教的観念的な「悪」、法規に照らした相対的一般的な「悪」の認識は持っていましたが、それを神さまの前での絶対的な「罪」とは認識していませんでした。罪の意識がなければ、そこに赦しを乞う願いが育たないのは言うまでもないでしょう。しかし、私たちがイエスさまの福音に出会うとき、まず第一に、私たちは神さまの前で裁かれ、罪を有する者として死に渡される、しかしそこに、十字架による赦しといのちへの恵みがあると聞くのです。神さまから罪を赦された者たちは、イエスさまのよみがえりに与り、いのちへの道に招かれるのですから。これこそまさに、パウロ神学の真骨頂と言えるのではないでしょうか。パウロが、イエスさまを初穂とする死者の復活について、「ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、次いで、世の終わりが来ます」(23-24新共同訳)と、終末直前の「キリスト者の復活」に言及したのは、そこに招かれるであろうコリント教会の人たちへの、配慮だったのでしょう。この「順序」は、部隊とか階級といった指揮系統が厳密に発揮される戦闘時の軍隊用語ですから、「復活」という福音の中心的出来事は、それほどの緊張感をもって確実に実行される緻密な神さまのご計画であったという、パウロのメッセージが伝わって来るようです。「キリストに属している者たち」と呼ばれる幸いを、覚えたいではありませんか。イエスさまの再臨は、ご自分の民を御国に招き入れる、神さまの救いなのですから。

 パウロの筆は、「それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。最後の敵である死も滅ぼされます」(24-26)と、終末時における輝かしいイエスさま勝利の様子にまで及びます。これは、パウロ文書の記事をもとに書かれた外典の「パウロの黙示録」―恐らくグノーシス文書―などとは違って、復活のイエスさまに何度もお目にかかって親しく語らった、啓示者パウロならではの証言ではないでしょうか。


Ⅲ 恵みといのちで

 パウロは、このフレーズを、「『彼は万物をその足の下に従わせた。』からです。ところで、万物が従わせられた、と言うとき、万物を従わせたその方がそれに含められていないことは明らかです。しかし、万物が御子に従うとき、御子自身も、ご自分に万物を従わせた方に従われます。これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためです」(27-28)と締め括りました。

 ところで、ここには翻訳上の重要な問題があります。27節を新改訳は(少々混乱した訳ながら)「彼」と訳して、その「彼」をイエスさまとしているのですが、新共同訳(岩波訳、文語訳、口語訳)は、「『神は、すべてをその足の下に服従させた』からです。すべてが服従させられたと言われるとき、すべてをキリストに服従させた方自身が……」と訳して、父なる神さまを主語、イエスさまを目的語としています。そのような訳し方を、岩波訳は欄外註で、「25節以下からして神を主語とすべきだと解釈する」とコメントしています。どちらを取るかは非常にむつかしいところですが、ここの原典はあくまでも「彼」であって、新共同訳や岩波訳のように、「神」と訳出してしまうのは行き過ぎではと思われます。そして、「彼」に拘ったとしても、その彼はイエスさまなのです。NTDの註解者は、「『彼はすべてのものを彼の足下に置かれた』からである。だが、すべてのものが彼に従ったと言われるのなら、すべてのものを彼に従わせた方がその中にないことは自明である」と、「彼」を忠実に訳出していますが、ここは新改訳に軍配が上げられたと見ていいでしょう。

 けれども、パウロが、満を持して暖め、ここに持ち出して来たのは、「父なる神さま」でした。神さまのこともイエスさまのことも曖昧なグノーシス神学を受け入れて来たコリント教会の人たちに、今パウロは、全てのものの支配者として、死やサタンの力までも滅ぼされるイエスさまを前面に押し出しながら、その背後に、父なる神さまがおられると証言しているのです。罪と死の力に囚われている私たちを救うために、私たちを惜しみ愛して、私たちの主が先頭に立っていて下さるのだと……。私たちには区別のつけようもありませんが、そのお方がイエスさまであり、父なる神さまなのです。その救いがどこまで、誰に及ぶのか、そんなことは私たちの知るところではありません。私たちのすべきことは、ただ主を求めることなのです。「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。……わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い」(イザヤ55:6-13)とあります。その方を「わが主、わが神」と拝するならば、その方は必ずや全力を傾けて私たちを恵みといのちで満たして下さる、と聞くのです。創造主にして唯一の全能なる神さまを覚えること、これこそ現代の私たちに、最も必要なことではないでしょうか。


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