コリント人への手紙Ⅰ


55
主にある希望を見つめて
コリント第一 15:12-19
詩 篇      2:1-12
Ⅰ 否定神学に抗して

 パウロは、「私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは」と、福音の中心主題に、十字架の贖罪と復活を上げました。それは、パウロがコリント教会で語ってきたことで、コリント教会は、そのメッセージの上に建ってきたのです。ところが、コリント教会には、当初から「死者の復活」などあり得ないとする人たちがいて、十字架はともかく、イエスさまよみがえりについては、決着がついていませんでした。今、パウロは、何としてもその決着をつけなければならないと、15章の残りの部分において、あらゆるケースを想定しながら、議論を進めようとしています。

 今朝のテキストは、「ところで、キリストは死者の中から復活された、と宣べ伝えられているのなら、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか」(12)という提題から始まっています。初めにことわっておきたいのですが、このテキストを、コリント教会の人たちが「死者の復活はないのだから、キリストの復活もあり得ない」と主張する順序で読むなら、それは原意通りで、このフレーズを新改訳は原意に忠実に訳しているのですが、それはパウロの本意ではありません。パウロは、イエスさまのよみがえりを起点に、「イエスさまの復活」から「死者の復活」へという順序で論じているのです。それは次回詳しく取り上げることにして、パウロは、今、「死者の復活はない」とする彼らの論点に的を絞って、これを撃破しようとしています。

 「死者の復活はない」とするグノーシス主義の見解を、概略ですが簡単に見ておきましょう。
 グノーシスの至高神は、否定神学で言うところの「存在しない神」ですが、それは、未知の彼方(宇宙の外)から来た「異邦のもの」「遠くの神」「隠れた者」と呼ばれ、「一切の創造の業の上に立つ」「第一の命」という、象徴言語で表現されています。この至高神は、幾層もの天界の守護者として、輝く永遠の光(星々の)アイオーンとされる7もしくは12の下位の神々(アルコーン・支配者と呼ばれる)を産み出し、そのアルコーンが人間とその世界を創造、管理して、肉体という悪に閉じ込められた人間の魂が、天界に上って行くのを阻止するのです。そこに、突如「外からの呼び声」が響き渡りと、グノーシス主義の書は、「その呼び声は、諸世界の外縁に立ち、世界の中へ問いかける」と語ります。それは、暗闇で道を見失った者に光を照らす、命の呼び声であると……。グノーシス主義の研究者たちは、その呼び声にイエスさまを重ねるのですが、しかし、如何なる意味においても、「十字架の主であり、復活の主であり給もう方」を、そんな幼稚な宗教思想に閉じ込めてはなりません。そのお方は、救い主として遣わされた、私たちの主、私たちの神、聖なる神さまのひとり子なのですから……。


Ⅱ 主の復活に凝縮されたものは

 ところが、その至高神も下位の神々も、その存在は、啓示によって示されているのではありません。彼らにとっての「啓示」は、積み上げられたグノーシス(ギリシャ語の「知識」)なのです。その誕生は、ペルシャの星辰信仰がイラン東部で発生したゾロアスター教の「善なる光」という宗教思想と結びつき、ギリシャ語とギリシャ思想(プラトンとアリストテレスの哲学と推測される)によって高度に神学化され、ある意味でそれは、ヘレニズム文化の産物と言えましょう。それは、死を恐怖して永遠の命を求め、至高神やさまざまな神々を産み出した宗教でしたが、ギリシャの知性(グノーシス)と結びついてグノーシスを積み上げ、「死」や「復活」の概念を模索したあげく、「死の否定」と、その結果としての「復活の否定」に辿り着きました。彼らによれば、肉体そのものは人を拘束する悪の牢獄に過ぎず、善なる魂はいつまでもそこに閉じ込められてはいないのです。それは「霊は善」「物質は悪」とする善悪二元論で、そこに立つ彼らの宗教思想は、「死や復活」の概念自体に馴染まず、受けつけないのです。先に、彼らの至高神は人間であると触れましたが(講解説教50)、その宗教思想も思弁から生まれた形而上学に過ぎず、彼らは、その宗教思想を「自由」として教会に持ち込み、放埒を繰り返していました。彼らは、自分たちの思弁をもって、イエスさま復活の信仰を否定したのですが、それはパウロにとって、イエスさまの福音の全否定に他なりませんでした。しかしパウロは、彼らの思弁に、思弁をもって対抗しようとはせず、先に自分も含めて復活のイエスさまにお会いした証人たちを列挙したように、よみがえりの事実を第一の証言とすることで、イエスさま復活否定の矛先を見事に封じたのです。彼らは、「キリストは、私たちの罪のために死なれ、三日目によみがえられた」というメッセージを、事実として聞かなければなりませんでした。

 パウロは、「もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです」(13-14)と続けました。繰り返しますが、死者の復活は、イエスさまの復活の結果です。私たちの復活の希望は、イエスさまの復活という事実の中で実現していくのです。イエスさまの復活を中心主題として語るパウロの福音宣教は、終末における私たちの希望の始まりと言えるでしょう。あなた方はそれを信じたのではなかったか。「存在しない神」などと否定神学が語る、遙か彼方で「われこそは至高神なり」と意味のない主張を繰り返す思弁の神にではなく、「あなたを愛し、あなたとともにあって、罪を赦し、祈りを聞き、恵みを与えてくださる」お方、我らのための神(für uns got)でありたいと望まれ、私たちの救いに介入して下さる恩寵の神さまにこそ、目を留めなければならないと……。その恩寵の最大のしるしが、イエスさまの復活に凝縮されているのです。


Ⅲ 主にある希望を見つめて

 「それどころか、私たちは神について偽証をした者ということになります。なぜなら、もしもかりに、死者の復活はないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずですが、私たちは神がキリストをよみがえらせた、と言って神に逆らう証言をしたからです。もし、死者がよみがえらないのなら、キリストもよみがえらなかったでしょう。そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがは今もなお自分の罪の中にいるのです。そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです」(15-18)と、このパウロの反論は、実に見事です。パウロは、「存在しない神」や「上を求める者たちを自分たちのエリヤに入れまいと阻止するような神々」に寄り頼む者たちと、同じ土俵に上がったのです。パウロは、イエスさまの復活がなかったなら、私たちの信仰と希望もむなしいと語り、それと同じことが、彼らの信仰と希望の論証において起こる決定的な欠陥であると、反論しました。あなた方は、「死者の復活はない」と主張することで、その論点を空虚なものとしている。何を求めてそんなむなしいものに寄り頼んでいるのかと、パウロの嘆きが聞こえて来るようです。彼らが陥ったと同じ空虚な議論は、近代の批評的自由主義神学が陥った「聖書の非神話化」「イエスさまの神性否定」「よみがえりの否定」等々に見られますが、それはまさにグノーシス派の人たちが試みた、イエスさまの神話化に重なるではありませんか。そればかりではなく、現代は、イエスさまの死と復活の事実までも否定し、それを「信心」という宗教の枠組みに閉じ込めて、そんな議論が、至るところで、教会内にも見られるのです。

 このフレーズは、皮肉を込めて締め括られました。「もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です」(19)と……。先に触れたように、グノーシス派がいうキリストの提供する救いは、ただ「光に来たれ」というものでした。しかし、そのメッセージには救いに至る道筋が見えず、いくらこれは最高のグノーシスで、大いなる希望であると力説しても、それが救いであるという保証にはならないのです。現代人も、同じように、保証のない、そんなむなしいものに寄り頼んでいるのではないでしょうか。NTDの註解者は、「来るべき復活だけが本当の希望を与える。なぜなら、それだけが死と滅びからの真の救いを贈るからである」と言っていますが、まさにその通りでしょう。救いは、イエスさまの復活を通して起こるのです。メシア詩篇と呼ばれる詩篇第二篇には、「わたしに求めよ。わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、地をその果て果てまで、あなたの所有として与える」(8)とあります。その確固たる約束を実現して下さる神さまとイエスさまの恵みに、望みを置きたいではありませんか。


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