コリント人への手紙Ⅰ


54
さあ、主に立ち返ろう
コリント第一 15:4b-11
ホセア書      6:1-3
Ⅰ 多くの異端思想が

 パウロが「最もたいせつなこと」としてコリント教会の人たちに伝えた「福音」の第一は、イエスさまが「私たちの罪のために死なれたこと」(3)でした。先週、「葬られたこと」(4a)も含めてそれを見て来ましたが、今朝はもう一つのこと、「イエスさまのよみがえり」に入ります。

 これがパウロの使信に「最もたいせつなこと」として組み込まれたのは、教会の一部の人たちが、「死者のよみがえり」を馬鹿げたこととして、信じていなかったからです。その辺りの事情は、当時の教会の主要なテーマでもありましたから、まず、その状況に少しだけ触れておきましょう。

 ギリシャは、古くから知的伝統を誇り、理性こそ人間の最も中心的部分であるとしていましたが、アレクサンドロス大王統治のヘレニズム期を経た後、ユダヤから律法と唯一神教を誇るヤハウェ信仰が、また、大河地方から宇宙的視野を持つ―ギリシャ語とその思想を吸収しつつシンクレティズム(宗教混合)となって高度化した―星辰信仰の中で発生し、後代に「グノーシス主義」と呼ばれるようになった宗教思想が入って来て、ギリシャが誇る世界に冠たる知的哲学は、次第に宗教化しつつありました。紀元一世紀、ローマ・ギリシャ世界に入って来たキリスト教も、時代の趨勢から、注目を浴びることになります。

 そこに勢いがあったからでしょうか、知性に溢れるキリスト教を絶好の住処にと、ギリシャの知性と結びついた異端思想・グノーシス(ギリシャ語で「知識」)が、教会に入り込んで来ました。グノーシス派の活動が活発だったのは二世紀後半の半世紀ほどですが、ほとんどの一次資料が使徒後教父たちの「異端反駁の書」だったこともあって、このグノーシスは、「キリスト教グノーシス主義」と呼ばれるようになりました。先週、十字架の神学に、グノーシスのドケティズム(仮現説)が入り込んで来たと触れましたが、「イエスさまがよみがえられた」とする信仰は、彼らにとって恰好の標的だったのでしょう。よみがえりのイエスさまが弟子たちに現われたとき、ルカは、「驚き恐れて、霊を見ているのだと思った」(24:37)と記していますが、そんな状況描写は、ドケティズムの反映だったのかも知れません。ドケティズムという異端神学は、「イエスさまの死とよみがえり」という、福音の中心的出来事の事実性を巧妙に否定するもので、それを鋭く見抜いたパウロは、今、とりわけ、イエスさまのよみがえりは事実であったと、その証言から始めようとしています。


Ⅱ 主の証人たちに

 「また、聖書に従って三日目によみがえられたこと」(4b)とありますが、この「事実」の前提としてパウロが大切にしたのは、「聖書に従って」と「三日目に」ということでした。必ずしも「聖書」の字句通りではありませんが、この引用は恐らく、「主は二日の後、私たちを生き返らせ、三日目に私たちを立ち上がらせる」(ホセア6:2)とあるところからでしょう。そして詩篇二篇には、「わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ」(7)とあり、十六篇には、「まことに、あなたは、わたしのたましいを、よみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません」(10)とあります。最初の伝道旅行でその詩篇を引用したメッセージ(使徒13:33-35)を思い出しながらの、証言だったのでしょう。

 「三日目に」は、それが事実であったという証言でもあるのですが、「ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが、同様に、人の子も三日三晩、地の中にいるからです」(マタイ12:40)と、イエスさまが、ご自分に起こることをヨナの故事(ヨナ書1:17)になぞらえたことを大切にしているのでしょう。しかしパウロは、イエスさまのよみがえりに、宗教特有の奇跡性を強調してはいません。ガラテヤ書に「キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神」(1:1)とあるように、イエスさまのよみがえりの主語はあくまでも神さまであって、神さまがそれをなし給うたと、これがパウロの断固たる主張でした。ロマ書には、「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです」(4:25・新共同訳)とあります。これは神さまが主体となって立てられた計画であるから、奇跡でも、幽霊のようにスーッと現われるドケティズムでもなく、事実なのだと、パウロは淡々とその事実を受け止め、その通りに伝えました。

 けれども人は、事実より、宗教的奇跡性を重んじるのです。そのためパウロは、これでもかとばかりに、よみがえりのイエスさまを目撃した証人たちを並べ立てました。「また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです」(5)と、ペテロと使徒たちの証言を、「最もたいせつなこととして、(あなたがたに)伝えた」福音の中に組み込み、さらに、「その後、キリストはヤコブに現われ」(7)と、これはイエスさまの弟ヤコブのことですが、彼はエルサレム教会の長老でしたから、その証言は重いだろうと、ここに取り上げたのでしょう。パウロは、ヤコブから直接その証言を聞いたようです。使徒と長老ヤコブの証言は、コリント教会の人たちにとって、とりわけ重要でした。「それから使徒たち全部に現われた」(7)と、これは八日後のことですが、まるでそれらの人々が、四十日に渡って、何度もよみがえりのイエスさまにお会いしたのだとでも言うように……。


Ⅲ さあ、主に立ち返ろう

 イエスさまのよみがえりは、神さまから出たことですから、本来、人の証言など、必要ありません。しかし、人々が身近なところでの証言を求めていましたから、パウロは、「その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます」(6)と、かってイエスさまから離れて行った人たちをも証人に立てました。神さまは、人を救うために人を用いられると、パウロはそれを肝に銘じていたのでしょう。恐らく、そのうちの何十人、いや何百人かは、ギリシャ世界に移住し、デアスポラのユダヤ人世界、またどこかの教会に所属していたでしょうから、もしコリント教会の人たちが望むなら、彼らの証言を直に聞くことが出来たのではないでしょうか。紀元55-56年当時は、イエスさまの出来事から、まだ二十数年しか経っていませんでした。

 そしてパウロは、証言者たちの列に、自分自身を加えました。「そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました」(8)とこれは、パウロがよみがえりのイエスさまにお会いして、迫害者から福音宣教者へと生まれ変わった時のことです。月足らずで生まれた者としてパウロは、「使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです」(9)と言っていますが、コリント教会の人たちは、それをパウロから何回も聞いていたのでしょう。彼らがパウロを認めたくなかったのは、迫害者だった彼が、今、自分たちの上に、権威ある者として立っていることだったのかも知れません。しかしパウロは、「ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました」(10)と、よみがえりのイエスさまにお会いして変えられたと言っているのです。パウロは、「私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。そういうわけですから、私にせよ、ほかの人たちにせよ、私たちはこのように宣べ伝えているのであり、あなたがたはこのように信じたのです」(10-11)と訴えました。パウロの働きを間近で見ていた彼らこそ、「主にあって私の働きの実ではありませんか」(9:1)と……。彼らは、パウロの宣べ伝えた福音を聞いて、イエスさまを信じたのです。そこでは、イエスさまのよみがえりも語られたに違いありません。パウロがイエスさまの福音を力強く語っていたとき、グノーシスのドケティズムなど、付け入る隙はなかったのです。「私はこのように宣べ伝えているのであり、あなたがたはこのように信じたのです」と、初めの頃に立ち帰って欲しいとの、パウロの切々たる願いが伝わって来るではありませんか。イエスさまをよみがえらせた方は、私たち信仰者をも配慮して下さるのです。「さあ、主に立ち返ろう。主はあなたを引き裂いたが、また、いやし、私たちを打ったが、また、包んでくださるからだ」(ホセア6:1-3)と、コリント教会の人たちと共に私たちも、そのお方を見上げたいではありませんか。



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