コリント人への手紙Ⅰ


52
あなたの道に私を
コリント第一 14:33b-40
詩 篇    119:33-40
Ⅰ 麗しいハーモニーを

 今朝のテキストでは二つのテーマが語られますが、それは、パウロが、コリント教会の人たちが「霊の賜物」を巡って、特に異言と預言を濫用して礼拝を混乱させ、教会を訪れた初心者たちを惑わしていたことを教え戒めた、14章の記事に追加すべきこととして取り上げたのでしょう。

 パウロが最初に取り上げたのは、問題を引き起こしていた女性たちのことです。
 「聖徒たちのすべての教会で行われているように、女は教会で黙っていなさい。彼らは語ることを許されてはいません。律法も言うように、女は服従しなさい」(33b-34)と、これは、「男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい」(Ⅰテモテ2:8)と注意し、男性たち特有の欠点が、怒りや腕力を振るうなど、暴力的思考の延長線上にある議論や言い争いであることをよくよく自覚し、何よりも人を立てることを覚えなさいと指摘しているのですが、それと同じように、女性たちに、お喋りや妬みや嫉妬といった一般的に知られる欠点だけでなく、教会の成長を妨げる総合的判断力に欠けることを指摘し、慎み深く坐って、あの人やこの人のことを思って祈り支えよと言っているのでしょう。コリント教会では、これまで見て来たように、男性たちの問題が、分裂分派、不品行、愛餐の混乱、役職の争奪戦等、いろいろと吹き出していました。このコリント書簡は、そんな男性たちに向けて語られた勧めなのです。しかし、コリント教会で女性たちが引き起こしていた問題も、男性たちに負けいないくらい大きかったのでしょう。

 先にパウロは、女性に、「女が、祈りや預言をするとき、頭にかぶり物をつけていなかったら……」(11:5)と、美しい髪を慎ましくヴェールで覆う細やかさを勧めていましたが、それも女性の問題を念頭に置いたものでした。それぞれの教会には、預言者として優れた賜物を持つ女性たちがいましたから、パウロは、それら女性たちに与えられた賜物を一概に否定してはいません。女性の問題は、ある意味で男性の問題でもあるのです(講解説教35)。が、それを考慮に入れたとしても、女性自身が引き起こす問題の深刻さも見ておかなければなりません。女性たちは、非常に鋭い感性を持ち、他の人が語るメッセージを純粋に受け止める能力に優れていました。が、残念なことに、女性たちは社会的な同調性といったことには不向きで、疑問に思うことがあると、集会中であっても質問し(コリント教会にはそんな風潮があった)、男性が語るメッセージの欠けたところを指摘するなど、思いついたことをすぐにことばにして、和を乱す動きを抑えることが出来なかったようです。


Ⅱ 坐って祈り、聞くことを

 彼女たちは、自分たちのそんな動きが、礼拝や教会そのものを傷つけてしまうなど、思いもしなかったのでしょう。しかし、心しなければなりません。女性たちの中には教会の役職に就いていた者もいて、ピリピ書には「ユーオデヤに勧め、スントケに勧めます。あなたがたは主にあって一致してください」(4:2)とあり、ピリピ教会の執事だった彼女たちは、教会に争いの種をまき散らしていたようです。ローマ・ギリシャ社会では、女性が公の場所に出て来ることはなく、人前で話すなどあり得ませんでしたから、家の中にひっそりと暮らしていた彼女たちにとって、発言したり教えたり出来る教会は、自分たちの居場所、生き甲斐に思えたのでしょうか。時には男性たちを押し退けたり、女性たち同士のバトルも繰り返されていたようです。

 ここでは、女性たちが集会の表舞台に出てはならないと言っているのではありません。繰り返しますが、女性たちの中には、男性に優るさまざまな賜物を持っている人たちがいて、教会成長に大きく貢献していました。いや、初期の時代から現代に至るまで、教会はそんな女性たちに支えられて来たと言っていいでしょう。彼女たちは、イエスさまご自身をも支えていました。パウロが上げた八つの職制(12:28)の中で、「いやしの賜物を持つ者」や「助ける者」は、まことに女性にふさわしいのではないでしょうか。何よりも、互いに愛し合いなさいと言われる「愛」の勧めを実践して来たのは、女性たちでした。ですから、女性たちは、誇りをもって、教会には自分たちが必要であると、胸を張っていいのです。それなのに、パウロから、「もし何かを学びたければ、家で自分の夫に尋ねなさい。教会で語ることは、女にとってはふさわしくないことです。神のことばは、あなたがたのところから出たのでしょうか。あるいは、また、あなたがたにだけ伝わったのでしょうか」(35-36)とまで言われています。

 先週、預言のことばを語る賜物を持ちながら、坐ってそのメッセージを深く味わい、吟味しつつ聞くことが、コリント教会の人たちの大切な信仰姿勢であると聞きましたが、それは女性たちにも当て嵌まるのです。いや、イエスさまの教会では、立ち上がって語ることより坐って聞くことのほうが、何十倍も主に喜ばれる信仰姿勢であると覚えて頂きたいのです。きっと、大半の女性たちは、そのようにしていたのではないでしょうか。それを承知でパウロは、「黙っていなさい」と勧めたのです。それは、坐って聞くことやヴェールを着けて祈ることにも通じる、立ち上がって語ることよりずっとずっと大切な信仰姿勢だったからです。それは男性にも必要なことでしたが、とりわけ女性たちに、その大切な部分が任されていたのではないでしょうか。


Ⅲ あなたの道に私を

 もう一つの追加項目は、礼拝における信仰者たちの基本的な立ち方に触れたものです。
 パウロは、異言と組み合わせたもう一つの主題・預言を念頭に、次のように言っています。「自分を預言者、あるいは、御霊の人と思う者は、私があなたがたに書くことが主の命令であることを認めなさい。もしそれを認めないなら、その人は認められません。それゆえ、私の兄弟たち。預言することを熱心に求めなさい。異言を話すことも禁じてはいけません」(37-39)と。「自分を預言者、あるいは、御霊の人―「御霊の賜物」の職制の一つで、彼らはその役職に就きたいと自らそう名乗っていた―と思う者」が、コリント教会にはたくさんいました。「霊の人」とは、預言や異言を語る者たちがエクスタシーに陥っていたことを言い、彼らがそれを「御霊に満たされた」状態と思っていたことを指しているのでしょう。しかし、パウロはそんな彼らの願いや思い込みをむげに否定せず、ただ、「これは主の命令である」と言っているのです。この命令の内容は、これまで見てきたさまざまな勧めなのでしょうが、彼らはパウロの使徒性を否定し、パウロを認めようとはしませんでしたから、パウロの言うことは聞きたくなかったのです。それなのに彼らは、自分たちが異言や預言を語っているのは御霊に満たされているからであると、パウロにそれを認めて欲しかったのです。しかし彼らには、そう願い、自分たちの立ち位置に拘りながらも、「どこか違うのでは……?」と、一抹の不安もありました。パウロはそんな彼らに、まず、「これは主の命令であると認めなさい」と言っているのです。そうすれば、主のことばに立って堂々と預言や異言を語ることが出来るではないか。語りながら、否定されているのではと、心配する必要はないのだと……。

 パウロは、自分は主から出たことを語っているのだと、そのスタンスを矜持しました。あなたがたが、もしそのことを認めないなら、「主もあなたがたを認めない」と、パウロは主に召し出された使徒としての権威をもって、彼らの前に立ったのです。彼らがどんなに「霊の人」らしく振る舞っても、主のことばを否定するなら、そのメッキはすぐに剥げ落ちてしまうだろう。「神のことばは、あなたがたのところから出たのでしょうか。あるいはまた、あなたがたにだけ伝わったのでしょうか」(36)と、「霊の人」であるとする彼らの主張への皮肉にも聞こえるこの重い重いことばは、礼拝中に金切り声を上げている女性たちだけでなく、ひとりよがりな男性たちも、教会全員が聞かなければならないことばでした。あなたたちが主のことばに立っているなら、主もあなたたちを認めてくださるだろう。だから、「ただ、すべてのことを適切に、秩序をもって行ないなさい」(40)とこのパウロの勧めは、極めて適切でした。詩篇に、「むなしいものを見ないように私の目をそらせ、あなたの道に私を生かしてください」(119:37)とあります。私たちも、私たちを永遠のいのちに生かして下さる主の道に歩むことを、益々もって真剣に願おうではありませんか。


Home