コリント人への手紙Ⅰ


51
神さまの秩序平和
コリント第一 14:26-33a
民数記      11:24-28
Ⅰ 新しい歌を主に

 先のフレーズでパウロは、「教会全体が一か所に集まるときには」(23)、初心の人や信者でない人たちに配慮して、多くのことばで異言を語るより、わずかであっても知性のことばを語るようにと勧めましたが、それは、コリント教会に、異言に執着する人が多くいたからでしょうか。しかしパウロは、異言をむげに否定するようなことはせず、「兄弟たち。では、どうすればよいのでしょう」(26)と、集会のバランスを取るように、いくつかの提案をしています。「あなたがたが集まるときには、それぞれの人が賛美したり、教えたり、黙示を話したり、異言を話したり、解き明かしたりします。そのすべてのことを、徳を高めるためにしなさい」(26)とここに描かれているのは、主の日の礼拝の光景なのでしょう。賛美、教え、黙示、異言……と、それらが一度に吹き出すなら、それは混乱でしかありません。しかし、小さい家の教会が一カ所に集まって礼拝を行う、その一回一回のスタイルを手探りで模索していたとするなら、分裂分派の争いや不品行、愛餐の席での混乱など、さまざまな問題を抱えていたコリント教会ですが、それでもそこには、神さまのことばに養われて成長しようとする、新しい教会の姿が期待出来るではありませんか。

 初期教会の礼拝スタイルは、イスラエルが捕囚とされたバビロンで、エルサレム神殿に代わるものとしてシナゴグ(ユダヤ人会堂)での礼拝を確立して以来、預言者たちが神さまのことばを取り継ぐメッセージと賛美と祈りをもって行なわれた、ユダヤ教の礼拝様式を踏襲するものでした。しかし、今ここで、ローマ・ギリシャという新しい世界に建てられた、まだ家の集会に過ぎない「主の教会」で、その伝統的なユダヤ教の礼拝様式には拘らず、「すべてのことを、(教会の)徳を高めるためにしなさい」と、次々と教会に加わって来る人々を含め、誰もが新しい礼拝を目指すことが出来るのだという前提を掲げているのは、驚くべきことです。シナゴグでの礼拝では、賛美は詩篇を歌うものでしたが、エペソ書に「詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい」(5:19、コロサイ3:16)とあるように、初期教会の礼拝では、新しいさまざまな種類の歌が主に献げられていたようです。テモテ第一書には、「キリストは肉において現われ、霊において義と宣言され、御使いたちに見られ、諸国民の間に宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた」(3:16)とあります。私たちの罪を贖い赦すために、十字架に磔けられてよみがえり、天に上られたイエスさまには、そのような新しい思いをもって御前に立つ信仰の姿勢こそ、ふさわしいのではないでしょうか。


Ⅱ 秩序ある礼拝を

 次第に新しい形を整えつつある教会の「礼拝」ですが、パウロはさらに、礼拝の秩序にも拘っています。それはきっと、主の前に出る信仰者たちの、節度の問題なのでしょう。パウロはまず異言のことを取り上げますが、「もし異言を話すのなら、ふたりか、多くても三人で順番に話すべきで、ひとりは解き明かしをしなさい。もし解き明かす者がだれもいなければ、教会では黙っていなさい。自分だけで、神に向かって話しなさい」(27-28)と、この勧めは明確です。それは、誰もが同時に無秩序に異言を語り出すことが、礼拝混乱の第一原因だったからでしょう。異言を語る者は、多くても三人に限定されます。「ひとりは解き明かしを」とは、礼拝全体を通して解き明かしをする人は「ひとり」という意味です。解き明かしをする人がひとりですと、異言を話す人も順番に一人づつとなり、大勢の人が無秩序に異言を語り出すことが避けられ、しかも、語られている異言が「真の異言」かどうかも吟味出来るからです。小畑進師は、「声の充満よりも意味の充実が、礼拝の基調でなければならない」(前掲書)と言っておられますが、その通りでしょう。そんな秩序を示されて、コリント教会の異言の大部分は、消滅してしまったのではないでしょうか。コリント教会に正常な礼拝が戻って来たと想像するのは、嬉しいことです。現代でも、教会には混乱がつきものですが、そこには必ず主の癒やしがあると覚えたいですね。

 次ぎにパウロが取り上げたのは、「預言」のことです。
 「預言する者も、ふたりか三人が(順番に)話し……」とこれは、「異言を話すならば、ふたりか、多くても三人で順番に……」(27)とあることに重なるではありませんか。パウロは、コリント教会で語られる預言を、異言と同列に扱っているのです。「……ほかの者はそれを吟味しなさい。もしも座席に着いている別の人に黙示が与えられたら、先の人は黙りなさい」(29-30)とも言われています。「預言」と「黙示」は原則としてどちらも「啓示」であって、その違いの目安は、「隠されている事柄を顕わにする」特別な啓示文学形式(ヨハネの黙示録のような)が黙示、そこに解き明かし等、知的作業を含むメッセージが伴うのが預言ということでしょうか。旧約時代には、特定の人が預言者と呼ばれていましたが、新約時代には、誰にでも預言の霊が与えられるようになりました。いづれにしても、両者の境目は不鮮明で、どちらも「神さまのことば」なのです。天上の「先在のロゴス」(ヨハネ1:1)と言われたイエスさまは、啓示者としてこの世に遣わされました。私たちは、そのお方による救いを、神さまからの啓示・預言のことばとして聞き、また語っているのです。


Ⅲ 神さまの秩序と平和に

 ここでパウロの二つの勧めを見ておきたいのですが、第一に、「ほかの者はそれを吟味しなさい」とあるところです。吟味とは、他の人が語る預言を神さまの啓示と聞いて信仰の養いとすることと、そこに潜んでいる反キリスト的異端を鋭く見分け、排除することです。預言の賜物を持つ人たちが大勢いたコリント教会では、坐って聞くことでその賜物がより尊く発揮され、それが教会の徳を高めることにつながると言っているのでしょう。現代の私たちも、その姿勢を受け継がなければなりません。そして、第二の勧めは、「座席に着いている別の人に黙示が与えられたら、先の人は黙りなさい」と言われていることです。ここでは、「語る人も聞く」というところに重点が置かれています。原則、神さまのことばは、心を整えて「聞く」に徹することばなのです。「万人祭司」は宗教改革者たちの合い言葉でした。祭司は神さまに仕える者たちで、彼らはまず、神さまのことばを徹底的に聞かなければなりません。そして、「黙示」は、「隠されている事柄を顕わにする」ことですが、神さまからのメッセージが黙示という形で示されるケースが、初期教会時代にはしばしばあったのでしょうか。これが現代にも適用されるかと言いますと、「ない」とは一概に言えませんが、神さまの特別啓示・旧約39巻、新約27巻の「聖書」が完結している現代では、直接神さまからの啓示が……ということには、慎重の上にも慎重でなければなりません。「(聖書に別の啓示を)つけ加えても、(聖書の啓示を)取り除いてもならない」(黙示録22:18-19)とあるからです。

 パウロは異言に関わるこの記事を、「あなたがたは、みながかわるがわる預言できるのであって、すべての人が学ぶことができ、すべての人が勧めを受けることができるのです。預言者たちの霊は預言者たちに服従するものなのです。それは、神が混乱の神ではなく、平和の神だからです」(31-33a)と結びました。「預言者たちの霊は預言者たちに服従する」とこの奇妙な文言には、岩波訳が、「預言者のインスピレーションは、その者の自我に従属している。つまり不可避的に自我が入り込むの意。それゆえ相互吟味が必要」と欄外註をつけていますが、この服従は、そこに自ずからある「神さまの秩序と平和に入れ」と言っているのでしょう。コリント教会では、異言が暴走していたように、知的であるべき預言でさえ、暴走を始めていたようです。民数記に恍惚状態で預言する人たちのことが記されていますが(11:24-28)、ここでも、何人もの人たちが不快感を示しています。異言や預言を語る人たちには、「教会の秩序を重んじ、仕える者であれ」と勧められているのです。このフレーズは、その意味で聞かなければなりません。神さまのみことばに養われて成長する信仰と愛は、神さまの秩序と平和に満ちた教会を作り上げ、多くの人たちを救いに導くのです。そのように、私たちも使徒パウロのこの結びのことばに応え、賛美と感謝と愛を献げる主への礼拝をもって、この秩序と平和の構築に取り組みたいではありませんか。


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