コリント人への手紙Ⅰ


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知性あることばを
コリント第一 14:20-25
イザヤ書    28:7-15
Ⅰ 霊性と知性を磨いて

 解き明かしをするでもなく、意味不明の妖しげな「◎△$♪※¥○&%#?(ピコパコピコパコ)」という「異言」に夢中になっていたコリント教会の人たちに、先週のテキストでパウロが勧めたのは、霊性と知性のバランスのとれた立ち方でした。異言を語ることで、エクスタシーという宗教的興奮に陥って彼らは、理性を誇るギリシャ人たちを、自分たちより低いものと見始めたのでしょうか。グノーシス主義が提唱していた自由を手に入れたとして、神々に供えた肉を愛餐の場で食べるなどしていた彼らですが、異言を語ることで、宗教的新境地に達したとばかりに、有頂天になっていたのかも知れません。グノーシス主義の至高神は人間(つまり、彼ら自身が神)ですから、そこにはナルシスト的要素があって、それがエクスタシーに結びついたのでしょうか。ナルシストは、鏡に映った自分の姿に恋するのです。それは霊性と知性のバランスを著しく欠くことでしたから、パウロは、「兄弟たち。物の考え方において子どもであってはなりません」(20)と彼らの立ち方を是正し、「理性においては、子どもであってはならない」と諭したのです。パウロの目にグノーシス主義は、実に幼稚な教えと映っていたのでしょう。

 パウロは、「悪事においては幼子でありなさい。しかし考え方においてはおとなになりなさい」(20)と続けますが、「悪事においては幼子であれ」とこの「悪事」は、コリント教会が陥っていたいくつもの問題を指しているのでしょうか。悪いことをしたら「ごめんなさい」と幼子のように素直に謝るのが筋ですが、彼らは自己弁護に終始していたようです。教会には何故か子供っぽい人が多く、「幼子のように」はしばしば勘違いされがちですが、意味不明な異言を大声で叫び立て、霊的であるとばかりにエクスタシーを可とする自己主張は、単なるわがままで、この「幼稚さ」に当たるのではないでしょうか。理性も良心も、何よりもイエスさまを信じる信仰は、子どもの純粋さを残しつつ、「大人」でなければならないと言われているのです。ここに言われる「大人」を直訳しますと、「完全な人」となります。「完全なキリスト者を目指せ」などと言われますと、私など即座に「それは無理」とへそを曲げてしまいそうですが、それを「キリスト者として霊性と知性を磨け」と聞きますと、祈ることにも、聖書を読むことにも、愛を育むことにも、励みになるではありませんか。


Ⅱ 奇跡的なしるしではなく

 「律法―旧約聖書全体―にこう書いてあります」(21)と前置きしてパウロは、イザヤ書のことばを引用しました。「『わたしは、異なった舌により、異国の人のくちびるによってこの民に語るが、彼らはなおわたしの言うことを聞き入れない。』と主は言われる」(21)と。

 これは、ヘブル語原典からでもギリシャ語七十人訳からでもなく、一言一句に拘らないパウロが自分のことばで書き直したもので、しばしばそのような「自由さ」が見られる、彼の引用の一つです。預言者イザヤの若いとき、紀元前730~年頃のことですが、ペカ王治世の末期に、北イスラエル王国は、アッシリヤ軍の猛侵攻に晒され、亡国の危機を迎えていました(北王国滅亡は722年)。イザヤは、南王国のアハズ王のもとに出向き、エルサレムもまた、北王国の首都サマリヤと同じ破滅に向かっていると警告しますが、酒やぶどう酒の安直な平和に酔いしれていた南王国の人々は、その警告に耳を貸しませんでした。「彼はだれに知識を教えようとしているのか。だれに啓示を悟らせようとしているのか。乳離れした子にか。乳房を離された子にか。彼は言っている。『戒めに戒め、戒めに戒め、規則に規則、規則に規則。ここに少し、あそこに少し。』」(イザヤ28:9-10)とありますが、パウロの引用文はその続きです。「まことに主は、もつれた舌で、外国のことばで、この民に語られる。主は、彼らに、『ここにいこいがある。疲れた者をいこわせよ。ここに休みがある。』と仰せられる」(28:11-12)と、これが引用されたヘブル語本文ですが、パウロはそこに、異言と預言の区別もつかないコリント教会の状況を重ね合わせているのです。「知識」も「啓示」も、「預言、すなわち神さまのことば」のことですが、主が「もつれた舌で、外国のことばを語られる」とは、異言に夢中になっているコリント教会の人たちへの、強烈な皮肉なのでしょう。神さまのことばは、彼らの中で、すでに空虚なものになっていました。

 「それで、異言は信者のためのしるしではなく、不信者のためのしるしです。けれども、預言は不信者ではなく、信者のためのしるしです」(22)とあるのは、彼らコリント教会の人たちが、異言を異常現象=神さまの奇跡的しるしとし、そんなしるしが語られる教会こそ神さまの働かれる場所なのだと、時代がかったメッセージをしていたことを、これも皮肉たっぷりに言っているのでしょう。かつて、奇跡が神さまの臨在を証しする時代がありました。旧約聖書にはそんな不思議が満ち満ちていますし、新約時代になってからも、初期の頃には、イエスさまや弟子たちによる不思議が強調されていました。そして、現代でも、宗教的権威を誇示しようとしてか、奇跡的経験を重んじる風潮は絶えません。そして今、ギリシャの大商業都市コリントでも、古い奇跡的信仰から脱皮する責任を負わされていたコリント教会の人たちは、教会の将来を見つめて、霊的知的に福音の構築を目指すどころか、未だにそんな古くさい時代の幻想に捕らわれていたのです。


Ⅲ 知性あることばを

 パウロは、「ですから、もし教会全体が一か所に集まって、みなが異言を話すとしたら、初心の者とか信者でない者とかがはいって来たとき、彼らは、あなたがたを気違いだと言わないでしょうか。しかし、もしみなが預言をするなら、信者でない者や初心の者がはいって来たとき、その人はみなの者によって罪を示されます。みなにさばかれ、心の秘密があらわにされます。そうして、神が確かにあなたがたの中におられると言って、ひれ伏して神を拝むでしょう」(23-25)と、このフレーズを締めくくりました。「もし教会全体が一か所に集まって」とあるのは、当時のほとんどの教会が、「小さな家の教会の集まり」だったことを暗示しているのでしょう。恐らく、コリント教会もまた、そんな家の教会の集合体でした。けれども、今、彼らは、ローマの貴族?ガイオの提供による大きな家を確保して、一つ所に集まることが出来るようになっていましたし、自分たちの会堂を建てようとする希望さえ視野に入れていました。すると、家の教会を単位とする分裂分派の競争心は一層激しくなり、また自分たちの優位性を確保しようと、異言をツールにした自己主張も、一層強烈になったということでしょうか。

 コリント教会の人たちが見つめなければならなかったのは、パウロが描いて見せた、教会の将来の姿でした。今、ローマ・ギリシャ世界に建てられた教会は、大きくなりつつあり、市民たちからも注目されていました。そんな教会に興味を持ってやって来た人たちが、いきなり「異言」などというエクスタシーを目撃して、「これは気違い集団だ」と受け止めたとしても、おかしくはありません。コリント教会の人たちがパウロに書き送った手紙には、そんな訴えがいくつも書かれていたようです。先に上げたイザヤ28章に、二回も「戒めに戒め、戒めに戒め、規則に規則、規則に規則。ここに少し、あそこに少し」と繰り返されているのは(10、13)、「ツヴァにツヴァ、ツヴァにツヴァ、カヴにカヴ、カヴにカヴ、ザイル シャムにザイル シャム」という、乳離れした3~5歳の幼児たちへのヘブル語教育の一つで、それは幼児ばかりか、大人にもチンプンカンプンで、わけのわからないことばにしか聞こえなかったのですが、神さまのことば・預言でさえそんなふうに受け止められていたのに、「きみたちは、なぜわけの分からない異言を、これでもかとばかりに叫びあっているのか」と言っているのです。話すなら、心に届いていくように、知性ある預言・神さまからの啓示を語るべきであって、それは聞く人たちの心に届き、人々の罪を示し、裁き、心の秘密をえぐり出すであろう。そうすれば、人々は心を開いて罪の赦しを願い、「神さまが確かにあなたがたの中におられると言って、ひれ伏して神を拝むだろう」と言っているのです。私たちも、教会のそんな将来の姿を目標にしたいではありませんか。ますます混沌としていく現代の世界情勢の中で、教会が発信して行くメッセージは、神さまのことばそのものでなければならないと思うのです。


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