コリント人への手紙Ⅰ



十字架の愛に生きることを
コリント第一 1:26-31
エレミヤ   9:22-24
Ⅰ 人の存在価値は

 今朝取り上げるテキスト(1:25-31)は、先の18-25節を補足し説明するもので、扱い方は違いますが、同じことが2:1-5にも繰り返されているようです。

 今朝のテキストは、「兄弟たち、あなたがたの召しのことを、考えてごらんなさい」(1)と、命令文で始まっています。新共同訳は「召されたときのことを」となっていますが、コリント教会に神さまがどんな人たちを招かれたのか、その「召し(の有りよう)」(岩波訳)が示されていますので、ここは、「召し」と訳すのがいいでしょう。「人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません(新共同訳)。しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです」(26-28)とあるように、コリント教会草創期には、いろいろな人たちが招かれていたようです。新改訳の「この世の」は、岩波訳では「肉によって」(直訳)、新共同訳では「人間的に見て」とあり、これがパウロの意識なのです。このフレーズはコリント教会の構成員のことを言っているのですが、確かに、コリント教会には、身分の高い者、知恵に優れている人、能力ある人たちがいました。家主ガイオは貴族だったようですし、会堂管理者クリスポや「クロエの家」の女主人クロエ、そして、彼女からパウロへの伝言を託されたステパナも、優れた、能力ある人たちだったようです。しかし、パウロのメッセージを聞いてイエスさまを信じた人たちの多くは、むしろ、「愚かな者」「弱い者」ではなかったかと、パウロは、そのことを思い出させようとしています。

 分裂分派に走る人たちは、知恵を絞って自分たちの「神学」を打ち立て、互いに批判し合っていましたが、そんな思想抗争に加わらない人たちもいました。パウロは、そんな「愚かな者」「弱い者」「この世の取るに足りない者や見下されている者」を、神さまは選ばれたのだと言っています。パウロは、神さまの前における、「人」の存在価値を問うているのです。「ある者(存在する者)」と「ない者(無に等しい者)」を比べ、「ない者」に軍配をあげているのです。パウロは、ギリシャ哲学が命題とした、「人」の存在価値に触れているようです。そこには、ヘブル神学の「わたしはある」(出エジプト3:14)も念頭にあったのでしょう。「知恵ある者をはずかしめ、強い者をはずかしめる」とは、神さまに属する永遠の存在権が、彼らには与えられないと言っているのでしょうか。


Ⅱ 人を尊く用いられるお方は

 それは、「ない者」こそが、自分の無力を思い、神さまの前にへりくだって、御子イエスさまの救いを受け入れるからです。それなのに、この書簡のどこにも、その、人間的に見て、「愚かな者」「弱い者」「ない者」に属する人たちの名前が見当たりません。そして、「賢い者」「能力のある者」に数えられる筈のクロエやステパナはこの争いに加わらず、むしろその成り行きを心配して、パウロに相談を持ち掛けているのです。彼らは、パウロが言う、「愚か者」に数えられているのでしょうか。逆転が起こっているようです。人間的に「愚かな者」「弱い者」「ない者」は、思想抗争に加わることで、自分たちを「賢い者」「分別ある者」と勘違いし、また、そうすることで、自分たちをひとかどの者であると錯覚してしまったのではないでしょうか。つまり、イエスさまを信じる者と人間的知恵を振りかざす者を、同一視してしまったのです。パウロは、そんな立ち方に異を唱えているのでしょう。

 「神さまは、この世の愚かな者、弱い者を選ばれ、この世の取るに足りない者や見下されている者を選ばれた。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれた」と言うとき、パウロは、「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけでなく、他の人のことも顧みなさい」(ピリピ2:3-4)と、勧めているのでしょう。パウロは、神さまがイエスさま共同体に私たちを召し出されるとき、「(この世の)知恵ある者」には何の期待もせず、むしろ、そんな知恵は教会を害すると見ているようです。然るに彼らは、「愚か者」「弱い者」「ない者」でいることに耐えられず、自分たちを「知恵ある者」「能力ある者」としました。パウロは続けてこうも言っています。「それはキリストのうちにも見られるものです。キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました」(同6-9) 人を高くし、有能な者とし、尊く用いられるのは、神さまなのです。彼らは、そのことを忘れていました。問題を抱えていたのはコリント教会だけでなく、「愛の教会」と賞されるピリピ教会にも似たような問題が持ち上がっていて、エペソ教会も同様です。教会が建てられるなら、そこには必ず、存在を振りかざす人間の知恵が引き起こす、さまざまな問題が発生するのでしょう。そのために多くの人たちが教会を去ってしまうのですが―、現代という時代は、そんな現象に拍車がかかっているようです。


Ⅲ 十字架の愛に生きることを

 「これは、神の御前でだれをも誇らせないためです」(29)と、この短いことばに、そんなパウロの思いが、ぎっしりと詰まっているではありませんか。覚えて頂きたいのです。人間の知恵は、神さまの知恵には到底及ばないことを。そして、全知全能の神さまをも凌ぐと思い上がった人間の知恵を、神さまが無にされたことも……。さらにまた、イエスさまを信じ、そのお方の前に膝をかがめて「わが主、わが神」と告白し、イエスさまの愛とことばに生きる者とされた幸いを覚えたいのです。私たちは、主イエスさまの十字架に罪を贖われ、新しいいのちに、よみがえりの主とともに生きる者とされたのですから。賛美されるべきはイエスさまであって、私たちには何一つ誇るものはないのです。「あなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。まさしく、『誇る者は主にあって誇れ。』と書かれているとおりになるためです」(30-31)とあります。「キリスト・イエスのうちにある」と、この「ある」は、パウロがここで中心主題とした人の存在価値を問うもので、それはヘブル神学でもギリシャ哲学の命題でもなく、コリント教会の人たちに、あなたたちは、あなたたちを救いに招かれたイエスさまの十字架の愛のうちに「ある」か、と問いかけたのです。人の存在価値は、そのお方に見出された時にのみ、あるのですから……。このパウロの信仰を、覚えたいではありませんか。

 これは、エレミヤが神さまから「(イスラエルの民に)語れ」と聞いたメッセージでもありました。「語れ。―主の御告げはこうだ。― 人間のしかばねは、畑の肥やしのように、刈り入れ人のあとの、集める者もない束のように、横たわる。主はこう仰せられる。『知恵ある者は自分の知恵を誇るな。つわものは自分の強さを誇るな。富む者は自分の富を誇るな。誇る者は、ただこれを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。わたしは主であって、地に恵みと公義と正義を行なう者であり、わたしがこれらのことを喜ぶからだ。―主の御告げ。―』」(9:22-24) エレミヤはまた、ユダ王国に侵攻して来たバビロンに囚われて生きよと語りましたが、そのようなメッセージの故に、愛してやまないイスラエルの人々から迫害を受けました。パウロも同様です。神さまの選びの民と誇ったイスラエルは、自分たちを「知恵ある者」「能力ある者」「存在する(に価する)者」としましたが、神さまの価値基準は異なるのです。エレミヤやパウロを通して語られたメッセージに立つ者は、現代、ほんの一握りかも知れませんが、果たして、神さまがどちらを選ばれるかは、自明のことでしょう。神さまは、ご自分の御子・十字架のイエスさまにつく者を、「わたしの民」と呼んで下さるのです。ですから私たちは、喜んで、イエスさまの愛・十字架の愛に生きることを選びたいではありませんか。その愛は、私たちの欠けたところを満たして余りあるのですから……。



Home